第84話 新秩序の前に

満蒙国境線


「会談結果より満州ルートは現状維持が認められている。避難民は原則として通過させるように。ただし、中に諜報員が紛れ込んでいる可能性は極めて高い。難しい作業だが摘み取りは徹底的にしなさい」


 中国と蒙古が接する満蒙国境線は事実上の日ソ境界線である。満州一帯は中華民国領だが日本の影響力が強かった。蒙古はソ連の衛星国の扱いを受けている。したがって、大国同士が接する最前線と称することができる。常時監視の兵が多く置かれて不慮の事故に備えた。しかし、ソ連はドイツに攻め込まれて防衛と反撃に兵を引き抜かざるを得ない。監視の兵は必要最小限に留まるどころか軽装の警備兵しか配置されなかった。対する日本軍もヨーロッパ方面に兵を差し向けており、現地の防衛は中華民国軍に交代している。


 そんな満蒙国境線はソ連経由で退避を図る避難民が通過した。日本は避難を希望する市民の如何を問わず受け入れる方針を絶えず発信し続けた。戦争が始まってから数年間で数十万に迫る人民が各地から押し寄せる。本来は審査を挟むが現地の日本軍指揮官が黙認を貫いた。避難路は後に『ヒグチ・ルート』と呼ばれて合計数万人が通過する。数万人と判然としないのは公式な書類を作成しないでおき、敢えて誤魔化すことにより追及を逃れた。


「諜報員の混入は防げない。しかし、問題は新秩序に際しソ連が野心を見せることだ」


「おっしゃる通りです。現在はソ連が東部戦線より押し込みを仕掛けて都市の奪還を果たしています。もはや来年にはドイツ領に踏み入る勢いでした。そして、開催された会談ではアメリカ、イギリス、ソ連の三カ国による新秩序が話し合われました」


「それはヨーロッパの秩序と」


「はい。アジアの秩序は日本と中国を中心とした体制を構築し、植民地主義を許さず民族自決を尊重することが認められています。武力による一方的な体制変更は冗談にもならないとです」


 直近に開かれたカイロ会談及びテヘラン会談では1944年からのドイツ挟み撃ちが話し合われた。東部戦線についてはソ連の要望に応えて西部はアメリカとイギリスが担当する。戦いがヨーロッパに限定されているため日本の入る余地は無かった。しかし、イギリスが伝言という名目で日本はアジアの民族自決を頑なに主張する。


 日本の貢献度は計り知れない以上は無視できなかった。よって、アジアは日本と中国を中心とした体制を構築することが認められている。予てから宣言している委任統治領の独立は日本指導の下で順次行われた。インフラの整備や現地工場の建設など恒久的な支援も約束する。植民地支配とは違う対等な関係での交易が結ばれてアジアの共存共栄が果たされた。


 それでも懸念は残り続ける。


「ノモンハンで我々は勝利を収めましたが、敵は不完全燃焼で終わり再戦を申し込んでくる」


「なに、地の利は我らのありますよ。樋口司令」


「そう言っていただけると胸が楽になりますが…」


 現地の日本軍司令は樋口中将とされ中華民国軍と連携し避難民の受け入れに尽力した。しかし、彼らの懸念している事はソ連による二度目の満州侵攻だ。1939年のノモンハン事件は日中軍の勝利で終わると日ソ中立条約の締結に繋がる。それからドイツのソ連侵攻により満州に安寧が訪れ、潤沢な資源を糧に日本軍向けの装備を生産するため内陸の工業地帯と鉄道がフル稼働した。いわゆる戦争特需が発生して繁栄を極めるがソ連が黙って見過ごす期待は抱かない。


 ソ連の前身であるロシア帝国時代には満州の利権を主張する過去が存在した。絶対とは言い切れないがドイツとの戦いがひと段落し、アメリカとイギリスが新秩序構築に忙殺されている隙を衝き満州侵攻を図ってもおかしくない。


 いくらノモンハンで得た戦訓があれど装備は飛躍的に向上しており油断は禁物だ。航空機も戦車も小銃も全て恐竜的な進化を果たしている。これが海で隔てられていれば日本軍有利に働いた。残念ながら、満州一帯は陸続きで連結しているため陸上戦力の数で押しつぶされると分が悪い。特にソ連軍はT-34に代表される戦車兵力の大量投入を以て質で勝るドイツ軍を圧倒した。最近は76mm砲から85mm砲に強化されたT-34-85や122mm砲を搭載した新型重戦車の情報がもたらされる。


 脅威以外の何物でもなかった。


「怯えているだけでは何も出来ませんよ。我らには圧倒的な航空機が存在するのです。戦略爆撃機に限らずB-17やB-24、B-25と言ったアメリカ製の機体もありました。戦闘機と襲撃機も目下大量生産中であり負けていませんぞ」


「確かに、考えてみれば私たちも満州要塞を建設していました。36cm砲を24門装備した大要塞を突破することは不可能と言えます。制空権さえ取れていれば難攻不落の大要塞が食い止めると」


「そういうことだ。我が軍は戦車隊を軽騎兵隊と重騎兵隊に分けて大地を駆けまわっている。満州の工場から直接送られるから全ての武器及び弾薬に不足は生じない。勝ち目は我らにある」


 日中軍の強みは圧倒的な航空戦力である。広大な満州には大小問わず大量の飛行場が建設又は整備された。そして、日本陸海軍の戦闘機と爆撃機(襲撃機含め)が中華民国軍に提供されている。戦略爆撃軍も習熟訓練の都合で配備されシベリア鉄道破壊は容易だった。更にはアメリカから提供されたB-17、B-24、B-25爆撃機までも保有して航空戦力はソ連軍を上回る。ただし、ソ連空軍はI-15、I-16からMig-3やLa-5、Yak-1といった最新の機体に更新した。後続機の開発を急いでいるため難敵と言えるかもしれない。


 もっと、戦闘は航空戦力だけで勝負はつかないだろう。結局は地上部隊同士の戦いが勝敗を決定した。満州には日中軍で建設した大要塞があり分厚い鉄筋コンクリートで造られた要塞線はマジノ線に匹敵する。15cm加農砲、20cm加農砲、25cn加農砲、30cm加農砲がずらりと並べられた。全てが海軍の旧式艦からの流用品のため威力十分でコスパにも優れる。また、嘗ての戦艦『扶桑』『山城』『伊勢』『日向』が空母転用に伴い取り外された36cm連装砲塔が追加された。ソ連軍の主力野砲を上回る射程距離を提げてアウトレンジ砲撃を与える。


「ここがアジアの防衛線となる。その覚悟を携えて兵士たちは過ごした。絶対に突破させてはいけない」


「将軍の気概には及びません。やはり、優しさだけでは戦に勝てませんか」


「戦に勝つだけで見ればでしょうな。しかし、その優しさが民を救うのです」


 中華民国軍は将軍から末端の兵士に至るまで戦意に満ち溢れた。全員が祖国を守り切る覚悟を有し、満州で食い止める防波堤を喜んで引き受ける。仮に悲観的な観測が漂っても関知せず、徹底抗戦を頑として譲らなかった。後方に大工業地帯があって満州鉄道の鉄路や名も無き道を輸送車両が走り武器弾薬を絶えず供給する。先述の航空戦力を盾に制空権を維持し、輸送を確立させて持久戦に勝機を見出した。ソ連はあまりにも領土が広すぎ、西はともかくシベリアの東には補給線が長大になる。シベリア鉄道頼りの補給の改善を図っても脆弱性は否定できなかった。


「まだ時間はある。今できることを最大にしなければ」


「その勢いだ。我らの大地を奴らには一寸たりとも与えんぞ」


 満州の日中軍は最悪の事態に備えて迎撃戦の用意を進めた。ソ連が西方を獲得して満足する希望的観測は抱かない。常に最悪を考えて用意周到を重ね続けるが吉と出るか誰も分からなかった。


 ただ、独裁者は会談結果に不満を漂わせ強行を考えている。


続く

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