メレーの子(後編) 5

 メリウスはピトゥレーから与えられたものを反芻し、続くピトゥレーの言葉に耳を傾けた。

「お前達が『陸』と呼ぶ場所に立つのと同様、私は大地に座している。地竜が私の下で暴れるのなら、私はそれを押さえつける。メレーより与えられた私の役目だ。盃を傾ければ水は溢れる。傾けられようとするその盃を、私は引き戻す。ケーレーンは私が生み出した最初の神だった。かれの巨大な躰は重石であり、数多の手脚は海の底の大地が裂けぬよう、掴まえる為にある。千年前、かれはお前に連れられ海底を離れていた。そのとき不運にも、かれが掴まえている筈だった海底が裂け、地竜が飛び出した。盃は傾けられるが儘に傾き、陸へと溢れてしまった」

 メリウスは自分がケーレーンを連れ出したことが、千年前の惨劇をもたらしたことを知っていた。だが、メリウスは全てが己の責任であるとも思えなかった。「ケーレーンは孤独だった。哀しみと怒りを抱いているかれを見て、私はあのひとを連れ出してしまったのです。あなたなら、かれに友を与え孤独を和らげてやれたのではありませんか」

「時は神をも変質させる」ピトゥレーは呟いた。「私はかれに感情を与えなかった。不要なものだと考えたからだ。しかし、いつしかかれは孤独であることに気づいた。哀しみを知り、怒りも知った。私はかれに感情を与えなかったが、世界を観る力は必要と考え与えていた。それがあの者を変えた。かれは己の姿が他の神と異なることに気づき、それはなぜかと私に訊ねた。私は『お前は神ではなく、怪物だからだ』と言い、突き放した。当然、かれは怒り狂った。かれは私を呪い、私はかれを海底に縛りつけた。かれの怨み言は日々私の元へと届き、私はそれを聞いていた」

「なぜ、そのようなことをしたのですか」メリウスは、高位神の間で行われたやり取りに、苦しみを覚えつつ訊ねた。

「どうあっても、あの者を自由にしてやるわけにはゆかなかった。嫉妬が他の神へ向けばその者を殺す。ケーレーンの力は強すぎる。ならばその怒りを全て私に向けさせる他ないと考えた」ピトゥレーは沈着として言った。「だが、お前がケーレーンを連れ出した日、天上の国を見上げたかれは己の役目を悟ったようだった。かれは喜びを知り、私へ呪詛が投げかけられることはなくなった。そして己の役目を全うした」

「ケーレーンはどうしているのですか。先日もまた、地竜が暴れたのでしょう」メリウスはピトゥレーの言葉によって不安を感じ、訊ねた。

 ピトゥレーは淡々と答える。「かれの躰は砕けてしまった」

「死んでしまったのですか」メリウスは愕然とし、叫んだ。

「否、生きている。だがかれの躰を繋ぎ合わせるためには大量の神気が必要だ。元の力を取り戻す為には、また千年かかるだろう」ピトゥレーは言った。「代わりのものを幾らか用意はするが、ケーレーンほどの力を持つものをつくることは難しい。あれは私の分身だが、私の力の殆どは、かれが持っていた」

 メリウスは正に今与えられようとしている真実に、生まれてこの方、これ以上にないほどの慄きに身を震わせた。「ケーレーンは、あなたなのですか」

「そうであるとも言えるだろう」ピトゥレーはためらいもせずに答えた。

 そのときメリウスの記憶の中で鮮明に蘇ったのは、己を『友』と呼んだ巨大な神の姿だった。万年の孤独を過ごしその心を悲哀と怒りに侵され、自身を蔑む寂しい神の姿だった。メリウスを背に乗せ、深海の底より出でて天上の国を見上げ、水晶の瞳を輝かせた、わずかな時間のみを共にしただけの、しかし千年間一時たりともその存在を忘れはしなかった、ケーレーン、またの名をピトゥレー、荒神とも呼ばわれる大海の統治者の姿であった。メリウスのサファイアの瞳は、涙に潤んだ。彼は淡い水面下からピトゥレーを見上げた。「あなたは私を友と呼んだ」

「それはケーレーンの意思だ」ピトゥレーは短く言った。

「しかし、ケーレーンはあなたなのだ」メリウスはピトゥレーの鉾を携えた右手へと手を伸ばした。「あの日、私はかれの言葉に応える間もなく別れてしまった。私は無知で、あなたが何者たるかも知らず、言い伝えられるがままを真実と思い込み、あなたを憎みもした。私が間違っていた。どうか赦されるのなら、私もあなたを友と呼びたい」

 ピトゥレーはサファイアの瞳を伏せた。そしてかれは玉座を立った。不思議なことに、先程までメリウスの遙か高いところにあったかれの目線は、メリウスより僅かばかり高いところまで下りてきた。

「恨まれ謗られることには慣れている」ピトゥレーは言った。細波の様な声であった。「そう思っていた。しかし、私は心を閉ざしていたに過ぎぬ。メレーは慈悲深き神だが、どれほどまでに私というものを理解していたかは知れぬ。真の意味で寄り添うことはできるのだろうか。かれらは初めから、我らの遙か高みに存在するのだから。私はかれらほどに厳然とし、崇高なるものではない。荒神と呼ばれたならば荒れる。私は完全なる不変の存在ではなく、偉大なる者と呼ばれたならばその様になり、海の嵐が私の怒りのためと言われたならば、私は海の嵐のために怒る」ピトゥレーの手が、メリウスの銀糸に覆われた頭頂へと置かれた。「お前が私を『慈愛溢れる強きもの』と思うのならば、私はその様にも成り得るのだろう」

 メリウスはピトゥレーの微笑を見た。それは彼の慈母たるメレーを彷彿とさせ、どの様なものかを知らぬ慈父のそれであるようにも感じられた。

「私はあなたを永遠に信じる」メリウスはピトゥレーの首へ腕を回し、縋りつき泣いた。

 ピトゥレーは幼子をあやすように、メリウスの背を撫ぜた。「ならば、私は永遠にこう在れる」


 王国に戻ったメリウスは、海神のための祭殿を造った。そして、海神の偉大さを人々に語り伝えた。

「誰も、ピトゥレーを恐れることはない。海は人類に恵みをもたらす。我らは大地に生き、海に生かされているのだ。クレスの民は、海神と共に生きてゆこう」

 やがて、クレスの民は巨船をつくり、陸地より離れ遙か遠方の海原へと進出していった。海神の守護を信じる彼らは、海を恐れなかった。

 クレスの民らの姿を見守り続けたメリウスは、二千年を生き、成すべきことは成したとして、ついに天上の国へと昇った。

 ピトゥレーはジュローラの近海に、巨大な神殿を創造した。それは他でもなく、偉大なる人神にして、ピトゥレーの理解者であり、途方もなく遠く歳の離れた弟であり、無二の友である、メリウスのための神殿である。

 突如として、もはや誰にも見えぬようになった古き神の力によって人目のもとに現れた、厳かにして静謐な神殿がメリウス王のものであることを、クレスの民には理解し得た。そして彼らは、神聖なる霊の抜け殻となった王の体を、その神殿内へ安置した。

 神殿は、海の中へと沈んでいった。

 メリウスの霊は天上の白き神々の国へ、肉体は偉大なる蒼き海へと還っていったのである。




 以上が、神にして人、最初の王、メリウスの物語である。

 彼は天と大海より、人の世を見守り続けていることだろう。


   原典 アルビオンの書『後世記‐メリウス王の章』

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