第五章

第五章 1

 外が騒がしい。漁師のおっさんたちかな。ああ、暑い。

 ……そうだ。今日帰ってくるんだった。だから、『早く明日にならねえかな』って思いながら、昨日は寝たんだ。起きねえと。

 陽の光に照らされた部屋の中が、やたらと白い。風に煽られて広がるカーテンの向こう側には、すっかり青く染まった空。真っ白な雲は城みたいだ。今日は雷雨になるかもしれない。

 まだ眠い。下の階から聞こえてくる物音。マリアが帰ってきてるんだな。腹減った。

 ようやく体を起こして、背伸びがてら大あくび。なんだかスッキリ目が覚めない。気分はいいのにな。

 日陰の床は冷たくて、足の裏が気持ちいい。ベッドの下に入れておいたサンダルを引っ掛ける。……あれ。また寝てる間にシャツ脱いじまったのか。裸で行ったら怒られるから着直さないと。ボタン二つくらい留めておけばいいか。ああ、暑い。

 それじゃあ行こう。ドア開けて、廊下出て――。……なんだか広い気がする。変だな。

 ちょうど上がってきたマリアと目が合った。……こいつ、こんなに化粧濃かったっけ。目元がまるで素顔と別人だ。それに、もっと淡い色の口紅のほうが似合いそうなのに。次の誕生日は、似合いそうな色の化粧品でも買ってやろうかな。俺が贈れば使うだろうし。

「あら、おはよう。ご飯作っておいたからね」

「うん」

「じゃあ、あたし寝るから」

「お疲れ様」

 夜に働くのも大変だろうな。廊下ですれ違ってビックリした。すっげえ香水の匂いがキツい。昨日はそうでもなかったんじゃないか? なんだかおかしい。……まあいいか。

 キッチンの台に料理が蓋して置いてある。適当な皿を取って、食えそうな分だけ盛り付ける。残りは親父たちの分だな。それにしても多いな。いつものことだけど。

 この家のダイニングって、人いねえとこんなに広いんだな。いっつも集会場になってるから忘れてた。どこに座ろうか。せっかくだし真ん中で王様気分になってみるか。それで、食い終わったら港に行こう。たぶん、そろそろ戻る頃だろうし。

 俺も本土に行きたかったな。なんで風邪なんか引いちまったんだろ。毎日毎日、暇でしょうがなかった。


 海沿いの道を歩く。海がタールの壁にぶつかって跳ねる。陽光は白く熱く。あんなに濃い雲なら触れそうな気がする。

「おはようさん、レナ。セルジオら、ついさっき戻ったぞ」

「本当? やった!」

 やっぱりみんな帰ってきた! どんな話が聞けるかな。俺が走り出したら、ちょうど風が吹いてきて、背中を押してきた。走って風と競争したらどっちが速いんだろう。さすがに風のほうが速いか。

 なんか、すげえ楽しい。こんなに気分がいいのは久しぶりだ。船も見つけた。ここから大声出したら、聞こえるかな。

「親父ィー! お帰りィー!」

 誰かが手を振ってる。聞こえたんだ。誰だろう。親父じゃないな。でもでけえから、コジモか? いや、違うエロイだ。さすが兄貴! いつも真っ先に気づいてくれる。

「ふう、お帰り……!」

「ただいまレナート。全力疾走だな。転ばないかヒヤヒヤしたぞ」

「風が押してくるんだよ」

「そうかそうか。じゃあ止まれないよな」

 息せき切らせてる俺の頭の上に、兄貴の手が乗った。でかくて羨ましい。

「やめろよ、ガキ扱い」

「どうした? 髪が随分柔らかい。やっぱりウェリアの水が合ってるんだな、お前」

「やめろっての! 撫で回すなら犬か猫あたりにしとけよ」

「犬猫かあ。お前はどっちっぽいかなあ。人懐っこいけど、ちょっと気まぐれだし」

「俺は犬猫じゃねえっての!」

 なんだよもう。髪だけじゃ飽き足らず、鼻だの頬肉だのつまんで遊びやがって。

「なあ兄さん、これは降ろしていいのか? ……ん、もしかしてレナート……、だよな? 大きくなったな! 兄さんとじゃれてなかったら分からなかった」

 誰だこいつ。ううん、でも……、どっかで見たことあるような……。

「ああ、降ろしていい。……だめだな、この反応じゃあ、覚えてないってよ。仕方ないか。最後に会ったのは何年前だ?」

「五年くらいか? いや、もっと前かもしれない」

「じゃあ、良くて七つになってたかどうかってところだな。レナ、こいつはディランだ。俺の弟」

「これからセルジオさんの隊で世話になることになったんだ。よろしく」

 兄貴の弟? 言われてみれば確かに似てるな。兄貴より小柄……というか、細いけど。年が離れてんのかな。でもまあ、兄貴の弟なら、きっといいやつだろ。

「じゃあ、ディランも俺の兄貴だな」

「おお……、なるほど。そうなるのか」

「可愛いもんだね。よかったじゃないか、ずっと弟を欲しがってただろ」

「いつの話してるんだよ……」

「ガキの頃さ。親父とお袋が困ってたっけ。俺も居た堪れなかった」

「もう忘れてくれ」

 なんだよ、せっかく兄貴分にしてやるって言ってんのに。

「俺の兄貴になるのは嫌なのか」

「嫌じゃない! 嫌じゃないぞ」

「こいつは最近ちょっと生意気になってきたが、根は素直だから可愛がってやれよ」

「ああもう、さっきからガキ扱いすんなよ」

「なに言ってんだ。まだガキだろうが」

 って、また頭を上から押さえつけられる。力強えんだよ。

「んぐ……。おいディラン。兄貴の弟だからお前も俺の兄貴にしてやるけど、俺の方が隊じゃ先輩だからな」

「お、そうだな。じゃあ、色々とご教示くださいね、先輩」

「……『ごきょうじ』ってなんだ?」

「『教えて下さい』ってことだよ」

 兄貴に訊いたら答えてくれた。なるほど、そういう言い方があるのか。勉強になった。

「いいぞ、任せとけ!」

「どうだ、頼もしそうだろ」

「はは、そうだな」

 笑われた。もしかして馬鹿にされてるのか?


 一人で駆けてきた道を、俺と、親父と、兄貴と、ディランの四人で戻った。家に帰って、広いダイニングで昼食をとりはじめた三人と並んで、俺は朝飯が残った腹の中に水だけ流し込んで、会話に混ざったり聞いたりした。

「いいんですか、俺までご馳走になって」

「構わん。あいつはいつも作りすぎるから、一人多いくらいが丁度いい」

 ディランは遠慮してるみたいだったが、親父の言うとおりだし、なにも気にすることねえ。

 親父たちは融資してくれてる金持ちに、たまに近況報告だとかをしに本土に行く。あちこち寄り道できるわけじゃないけど、あっちは色々あるから面白い。だから行きたかったのにな。

「そうだ、帳面を持ってきたぞ。俺作の前期リラニア語辞典」

「あったの? やった!」

 兄貴から分厚い帳面を受け取った俺は、部屋の中を駆け回ってからソファーに尻で着地した。

「それ、兄さんが論文書くときに使ってたやつだろう。理解できるのか?」

「元々エロイ仕込みだからな、それなりに読めるだろう。レナート。ちゃんと礼言えよ」

「ありがとう、兄貴」

「どういたしまして」

 全く驚きだな。手書きなのに編集された本みたいだ。小さい文字でびっしり、現代語と、リラニア語とかルドリギア古語とかの古代語を並べて、どの文字が関連してるとか、変化したものだとか、その変化の経過とかが細かく書いてある。兄貴はこれ、全部頭の中に入ってるんだ。俺も覚えたい。どうしたらいいだろう。ひたすら読み込んでみるか。それとも書き写してみようかな。これがあればきっと、俺ももっといろんな石版の文が読めるようになる。そうしたら、今より親父たちの役に立てる。

「……なるほど、兄さんが教師か。学校には行っていないんだったか?」

「行かない」

「勿体ないな。高等試験受けてみたらどうだ?」

「こいつが同年代より詳しいのは古代語だけだ。せめて中等部で通用するか試す必要がある。たぶん無理だろうが」

「どうでもいいって」

「この島にも中等部までならありますよね」

 行かねえって言ってんのに、ディランのやつ食い下がるな。

「そりゃあるがな、行きたがらねえよ。昔、初等部に半年くらいは通ったことがあるんだが。まあ、そのときにちょっとな」

 馬鹿にしてくるやつらばっかりだ。『幽霊』とか言ってくる。最初は我慢してたけど、いい加減頭にきて殴ったら、俺の方が教師に叱られた。ふざけてる。親父たちと一緒のほうがずっといい。勉強だって兄貴が教えてくれたら十分だろ。

「お帰りなさい。ご飯足りた?」

 マリア起きてきたんだ。さっき寝たばっかりじゃねえのか? そんなに騒いじゃいなかったけど。

「多いくらいだったよ。ありがとう」

「ならよかった。あら、誰? ……ああ、弟さん。名前なんて言ったかしら」

「ディランです、お邪魔しています。マリアさんですよね」

「知ってるんだ、あたしのこと」

「兄がよく話してくれるので」

「ふうん」

 マリア、なんか嬉しそうな感じ。兄貴とマリアは仲いいからな!

「エロイ、いつ話せる?」

「いつでも。お前の都合がいいときなら」

「じゃあ今日」

「ああ、分かった」

「よし、レナ! 今日は俺と寝るぞ!」

 親父が急にでけえ声出すから驚いちまった。

「はあ? どうせ酒飲むんだろ? やだよ、くっせえもん。兄貴と寝る!」

「なあ、おチビさん、こいつらの話聞いてたか?」

「お父さん、用事があるならどうぞ出かけてきて」

「二人して反抗期か? 用事ね、見つけてくるか。それじゃあディラン、一緒に退散しよう。レナート引きずって行こうぜ」

「なんでだよ! 俺だって兄貴と話したい」

「マリア、明日は譲ってやってくれ。悪いなエロイ、子供らが懐きすぎちまってさ」

 なんで俺が引きずり出されてんだよ。俺の家だろ。いや、親父の家か。なんでだ? 久々にみんなでいられると思ったのに。

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