メレーの子(後編) 4

「かれは地竜と闘っている」と、かつてリリエはピトゥレーについて語っていた。メリウスにはその必要性が理解できなかった。争う意味があるのか。地底を泳ぐ竜は確かに、激しい破壊を地上にもたらす。しかし、それに対抗するピトゥレーによって沈められる大地は、更なる被害を蒙る。人とは地上に生きるものである。人のみならず、多くの生き物は地上に住まう。メリウスにとって、ピトゥレーの対抗心は全く無意味なものであり、不要なものであった。

 ヴァイタスを国へ帰し都へ戻り、ひと月、ふた月を過ごしたメリウスは、ようやくアウラを失った実感を覚えはじめた。彼の感情は暗く沈み、深海の底に縛りつけられていたケーレーンを思い明かす夜もあった。かれのアルブスを見上げ輝いた水晶球の瞳は今、どうなっているであろう。かれはまた深海の底に鎖を巻かれ縛りつけられているのであろうか。そのような想像を巡らすほどに、メリウスはピトゥレーへの怒りをも強く覚えた。アウラが四百年間治めた北の都は、瓦礫さえも残さず海に攫われたのである。

「かれを憎めば、悲しみは紛れますか」と、ある沈みきった夜に現れたメレーは、メリウスに問いかけた。

 メリウスは「分かりません」と答えた。「悲しみと怒りが入れ替わりでやって来る。いずれの感情にも囚われぬ時はない。苦しみは紛れるどころか増しているようにも思えます」メリウスは己の心境を探りながら、少しずつ言葉にした。

「一度、ピトゥレーと話してみなさい」と、メレーは言った。

 メリウスは「馬鹿らしい」と一蹴した。「冷静でない口論などしたくはありません。もう、子供たちに国を任せたい。私は十分に事を成したでしょう」

「まだあなたの役目は残っています」メレーはメリウスが退くことを許さなかった。

「あなたもやはり無情だ」メリウスは頭を抱え呻いた。「良いでしょう。今からかれに会いに行きます。そこで私が殺められたなら、どうぞ諦めてください」メリウスは自棄になったようにサファイアの座を立ち、大海原のさなかにある海神の神殿へと向かった。

「万が一にも、そのようなことがあったときには」メレーはメリウスの背に言葉を掛け、光たる姿を消した。


 メリウスがピトゥレーの神殿へ赴いたのは幼年期以来のことである。彼の記憶に朧げに残る、姉たちと共に見上げた巨大な柱は、千年前となんら変わりはしない。今も昔も守る者のいない門は厳然と大きな口を開き、やって来る心意気のある者ならば来るが良い、といった主の意思が反映されているようだった。メリウスは静まり返った通路を進んだ。言葉にならぬ拗れた感情を抱えながら、靴音を高くして、周囲になど見向きもせずに、ピトゥレーが座する神殿奥を目指していたはずの彼だったが、いつしか立ち止まっていた。

 海の植物を模した彫り物に飾られた壁と、立ち並ぶ高い柱が、メリウスを囲んでいる。通路の中心を流れる、透き通った海水の中にきらめく小さな精霊たち。静けさの中には、流水の音が響き渡る。理知的な青と、安らかな緑、光によって浮かび上がる静謐さは、この神殿の主の気性を思わせるには、あまりにも優美であり、神聖味を帯びすぎているようにメリウスには感じられた。

 メリウスは戸惑いを抱きながら、再び足を動かし通路を進んだ。その先に、ピトゥレーはいた。メリウスにとっては、長い時を経ての再会であった。しかしピトゥレーにとっては、数日ぶりといった具合であったやもしれない。かれはメリウスが千回と生まれ直すことができるほどの時間を生きてきたのだから。

 ピトゥレーから最後に掛けられた言葉が、メリウスの中で鮮明に蘇る。かれから与えられた『愚か者』という一言は、メリウスを苛んできた。いくら偉業を成し人々から崇敬されようと、メリウスの心の端には『私は愚かだ』という思いが常にしがみついていた。幼かった当時、ピトゥレーの叱責にメリウスは恐怖し、その恐怖は彼の記憶に深く刻まれた。口応えなど赦されない、言葉も動きも封じられる程の威圧感が、ピトゥレーには確かに在ったのである。

 今も尚、ピトゥレーは巨大であった。座していてもかれの青い目線はメリウスの頭上高くにあった。かれはメリウスを見下ろしながらも、何の言葉も発することなく、ただ、その厳しい顔立ちを凪の海のようにして、小さな半神を眺めていた。

 メリウスの喉から言葉は出なかった。この神殿へ至るまでは確かに、渦巻く様々な感情の中から、文句の幾つかを訴え、それによって怒りを買い殺められても構わぬという心持ちであったのだ。だが、神殿の中に踏み込み、いざ海神の前に立ったとき、メリウスの感情は鎮まりきっていた。哀しみと怒りは、もはやメリウスのものではなかった。消えたわけではない。ただ、彼はそれを俯瞰するように観ていた。メリウスの魂は、憎哀による支配から解放され、ただそこにある。

 原初の神と半神は、長らく互いを眺めていた。

「私は海を統べながら、海に支配されている」ピトゥレーが言った。かれの深い声は、神殿内に響き渡った。「お前が人の神、王と成るべくして生まれたのと同様、私にも役割があり、そうあるべき姿がある。お前たちにとってピトゥレーが荒れる神であるならば、私はそのようにある」

「あなたは、人によって定義づけられた存在だと、そのように言うのですか」メリウスは訊ねた。彼の言葉は、彼の口を使っては発せられなかった。

 ピトゥレーは呼吸するように瞳を伏せ、開いた。「私はただ、こうして存在するのみだ。凪の海ならばその様に、荒れる海ならばその様に」

「あなたはなぜ、地竜と争うのですか。あなたがたが争う度に、地上では多くの者の命が奪われる」メリウスは抱き続けてきた疑問を伝えた。その問に、個としての彼が抱いてきた怒りが混ざることはなかった。

「お前が指す地上とは、緑に覆われ、陸の生き物が過ごす狭き場所でしかない。深海の底を見たお前は、それを何と考えた」ピトゥレーが問いを返した。

 メリウスは深い水を潜り進んだ先にある行き止まりを思う。それが何か、彼が考えたことはない。海の底とは何なのか。メリウスは沈黙し続けた。彼は答えを導き出せなかった。

「大地だ」しばしの後、ピトゥレーは答えを与えた。

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