第一章 3

 正午近くに階下へ行った。そこはレナートのお姉さんが切盛りする大衆向けの食堂で、〈星の砂〉というらしい。僕がそこに行ったときには、席は殆ど人で埋まっていた。賑わいの中で、レナートが立って手招きしているのが見えたので、そちらに向かった。厨房を通り過ぎるとき、銅色の髪を結い上げた人の後ろ姿が見えた。

「動けるようになったのか。よかったな」

 食事中の見知らぬ人に話し掛けられる。多分、船に乗っていた人だろう。

「お世話になりました」

 僕は声を掛けてきた人と、その人と同席している人たちに軽く礼を言った。席の合間を縫うように進み、レナートの元に辿り着く。レナートは空けておいたのか、空いていたのかは分からないけれど、隣の席を引いて座るように促してきたので、僕は従った。

 四人で使うのに丁度良い机を囲んでいたのは、レナートと、彼と共に僕の世話をしてくれた人と、黒い髭を蓄えた見知らぬ人だった。

「セルジオだ。今ここにいる大体の奴らを纏めてる」

 髭の人が言った。ここにいるのは、ざっと見た感じ二十人と少しくらいだろうか。そもそも彼らがどういった集団なのか、僕は知らないが。

 僕はふと、視力が幾らか回復しているようだと気づいた。

 セルジオと名乗った彼の無精じみた髭は、縮れた短い黒髪と繋がっていて、眉も太い。日に焼けた顔は五十代も終わりかけの歳に見える。体は厚めの筋肉に覆われているようだけれど、その上に脂肪が乗っている感じだ。容姿からして逞しい。

「ご迷惑をお掛けしました。ありがとうございます」

 詫びと礼を言った。この人が纏め役なら、僕をこの島まで運ぶことを許したのは彼だろう。

「海での拾い物にはなぜか慣れてるんでな。気にすることはない。それより、礼儀がなってる。まったく、どこかの誰かとは大違いだ」

「へえ、なるほど。そりゃあ、ひょっとすると誰かの教育が良くなかったのかもしれねえな」

 レナートが言う。どういう意味だろうかと考えて、僕と比較されたのがレナートなのだと理解した。

「そういえば、俺も名乗ってなかった気がするな。ディランだ。よろしく」

 船で世話をしてくれた人が言った。たぶん、何度か耳にはしていただろうけど、今落ち着いたところで、改めて名乗られれば覚えることができそうだ。

「まずは腹ごしらえと行こうぜ。俺たちは先に食ってたけど。どれにする?」

 机には大皿料理が置かれていて、好きに取って食べろということだった。野菜と、魚を焼いたものならば食べられそうだった。他にも肉料理や、乳酪チーズを溶かしたようなあつものスープがあったが、動物の脂はあまり受け付けない。どれにするかレナートに訊かれたので、僕は茹で野菜と焼き魚の切り身を、少しだけ取ってくれるように頼んだ。

 昨日までとは頭の冴え具合も視力も違ったので、味覚も少し元に戻っているかもしれないと期待したけれど、そちらは変わっていなかった。

 苦く感じてしまう料理をのろまに食べ、半分くらい減らしたあたりで、セルジオさんが頭の上で両手を大きく叩き鳴らした。騒がしかった空間が静かになる。

「食ってていいぞ」

 当人も食べ続けているレナートに言われたので、僕は食事を続けた。ディランさんは手を止めて、立ち上がったセルジオさんを見上げていたけれど。これから始まるのは仕事の話だろうし、ならば率直に言って僕には関係がない。

「前に一度話したが、ジュローラのアルベルティーニから来ていた依頼の件だ。受けることにした。四回後の賢神の日に出るから準備しておけ。以上」

 セルジオさんは太く低い声で言って、座った。もう終わったのだろうか。再び店の中が賑やかになる。

「なんだよ。親父、乗り気じゃなかっただろ」

 再び食事を始めたセルジオさんに、レナートが言う。『親父』と呼びかけているので、彼がもう一人の同居人なのだろうか。

「俺たちがアビリスの地層を調べてる間に、また使いが来ていたらしいんだよ。当主が言うには、〈メリウス王の墓神殿〉に関する情報じゃないかっていう話だ。おいえの大書庫を片付けていたら関連するものが出てきたとかで、また一部読み解けたらしい」

「大神官様がまともに読めねえものを、よく俺らに読ませようっていう考えに至るな」

「読めねえわけじゃあなかろうが、忙しいんだよ。読み解いたのは若様だっていう話だ。確か、お前と同い年じゃなかったか。優秀だ」

「俺だって優秀だろ」

「親父さん、ジュローラの神官様と知り合いでしたっけ」

 ディランさんもまた、セルジオさんに『親父』と呼びかけた。関係性が分からない。

「もう何十年も会っちゃいねえがな。そんじゃあ一丁、俺は返事の手紙をしたためる。ゆっくりしていけ」

 セルジオさんは僕にも黒い目を向けて言い、席を立った。そして、僕が下りてきた階段を上っていく。やはりレナートの父親か。この家に住んでいる人だ。挨拶ができて良かった。

「よおよお、ディランじゃねえの」

 喧騒の中から声がして、どこからだろうと意識を向けようと思ったところで、空席になった場所にくたびれた感じの人がどっかりと座った。金色の液体で半分くらいが満たされた大きな杯を机に置く。

「随分久しぶりだな。なんでこっちにいるんだ」

 ディランさんが親しげに応えた。友人だろうか。

「またウェリア配属になったんだよ」

「なんだ、首を切られたのかと思った。官憲様が昼間から飲んだくれて良いのか?」

「書類仕事で殆ど四徹だぜ。ようやく非番になったと思ったら、頭が変に冴えちまって眠れねえと来た」

「そいつは気の毒に。だが、そんな状態で引っ掛けたら、後で後悔するぞ」

「分かってるよ……」

 そう力なく言って、机に突っ伏した人が役人だと言うから、緊張した。ディランさんは僕のことを話すだろうか。レナートはまるで興味なさげに食事を続けているから、言う気はないのだろうけれど。

「……そういや、あんたの兄さんはどうしてるのかね。気のいい人だったじゃないか。俺も前にこっちに来たときは新人でさ。本土とは勝手も雰囲気も違うし、世話になったもんだよ」

 突っ伏したままで、官憲の人は呟いた。旧知の人の頭を見下ろしていたディランさんの穏やかな表情が、わずかに強張った気がした。

「ええと……、あの人の話はしないでほしいんだが……」

 控えめな制止。けれど、すっかり酔った様子の官憲の人は、杯に残った酒を一気にあおって続ける。

「お前もプロメロスで優等生だったが、兄さんはパレス大だろう。セルジオのおっさんも優秀な人材を捕まえたもんだぜ。でも、やっぱり責任を感じちまったんだろうかね。真面目そうな人だったし――」

 ディランさんの微笑を浮かべていた口角が、わずかに痙攣した。酔っ払いはまだ話を続けそうな雰囲気で、息を吸いかけた。ディランさんが相手の肩を掴んで、自分の方を向かせた。結構な力で振り向かせたのが、僕にも分かった。

「頼むから、あの人の話をしないでくれ」

 口の形だけは笑ったまま、絞り出すような声で彼は言った。

 官憲の人は、ふとレナートを見た。そして何かに気づいた様子で、慌てた雰囲気で椅子を引く。

「あっ。いや、すまない。酔っぱらいは気が利かん……。ま、まあ、良けりゃあ、また後で――」

 官憲の人は空になった杯を持って、僕たちの席から離れていった。そうかと思えば、勘定を済ませてさっさと店から出ていってしまう。相当気まずかったらしい。

 レナートは官憲の人が去るのを横目で見届けると、明らかにその話題を嫌っている様子のディランさんに、無遠慮に畳み掛けた。

「お前、兄弟なんていたっけ?」

「……いたかもしれないな。多分もう死んだよ」

 ディランさんは先ほどの少し怖いような雰囲気を仕舞って、乾いた声で笑った。

「ひでえ言い草だな。喧嘩でもしたのか? お前と長く付き合ってきて、兄弟の話なんて聞いたことねえもんな」

「ああ、……してこなかったかもしれない」

 ディランさんはレナートから目を背けて、人混みの方を向いて答えた。何を見ているわけでもなく、ただそちらに目をやっているだけのようだ。

 レナートは水を飲んで、話題を変えた。

「まあいいや。それより、なあリオン。俺さ、ガキの頃に海賊に攫われたことがあるんだ。ありゃ十二のときだったから、丁度十年前になるんだな。それで、ええと……、確か腹を切られたんだよな?」

「そうだよ」

 口でははっきりと答えながらも、ディランさんの目はまだ、ぼんやりと宙を見つめている。

「それで、何ヶ月も入院したんだぜ。よっぽど酷い怪我だったってのに、傷跡は……、ほら」

 レナートは上着の裾を上げて、僕に腹部を見せてきた。普段日に当てないのか、色が白く、筋肉が綺麗に浮き出ている。そこに、傷跡らしきものは一切見当たらない。

「分かんねえだろ? わざわざ本土から患者が来るくらいの病院が、このウェリア島にはあるんだ。『聖ルドヴィコ病院』って言ってさ。昔はリーン教の教会だったんだと。ルドヴィコってのは、リーン教の聖人。あそこが教会だった頃に、何か凄え事をしたんだろうな」

「宗教改革戦争で活躍したんだよ。敗戦側勢力だったから、死後暫くは罪人扱いだったらしいが、終戦から百年後に聖人になった」

 レナートの説明に、ディランさんが大きく補足した。聖ルドヴィコの名は、歴史書で見かけた気もする。たしか、ファーリーンの偉人にしては好意的な書かれ方をしていた。

「さすが、プロメロス大卒は違えな」

「このくらいは一般教養だろう。ましてウェリアで育ったんなら。興味がなさすぎるんだ」

 本気なのか誂いなのか分からない口調で言ったレナートに、ディランさんは笑って返す。

 レナートは上着を戻して、椅子の背にもたれた。もう食事は終わったのか、大きな一呼吸をついた。

「俺、あの頃のことはあんまり覚えてねえんだよな。穴抜け状態っていうか。それが気持ち悪い」

「仕方ない。それだけ酷い状態だったんだよ。すっかり思い出したって気分のいいものじゃないだろう。なら、いいじゃないか、忘れたままでも」

 ディランさんは至って穏やかに言うが、レナートは納得しきっていないようだ。

「周りの話についていけなくなる。俺も知ってるはずなのに。さっきの奴とかもそうだろ。本当はお前の兄貴のことだって――」

「いいんだって。そのうち勝手に思い出すかもしれないだろう。そうしたら驚いて泣いちまうかもな、お前」

「おい、あまり馬鹿にするなよ」

 冗談めかして言うディランさんに、レナートは不服そうに返す。ディランさんは笑ったが、少し元気がないように感じた。兄弟の話が嫌だったのか、レナートを心配しているのか、その両方なのか、或いはまた別の事が理由なのかは、僕には分からない。

 けれど、快活で悩みがあるようには感じさせないレナートにも、――屡々、人は『忘れたいほど辛い記憶』などと言うことがあるが――実際に忘れてしまうほどの何かがあったのだと知り、僕は彼への見方に若干の変化が生じた気がした。そこには、『親近感』も含まれていたのかもしれない。

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