第二章

第二章 1

 胸から迸った生命の赤に、撃ち抜かれたことを知っても、心臓に空いた穴は、砕けた骨は、破れた肉と皮は即座に修復される。

 この身が死ぬことはない。許しを得られぬ限り。

 荒野となった場に独り残された『異端』に注がれる、負の感情を纏う視線。罵倒と共に伸ばされる無数の指先。

 それでも尚、ここに立ち続けなければならない。

 かつて与えられた使命は、生き続けているのだから。


     *


 開け放しの窓から、朝帰り漁師らの賑やかな声が入り込んでくる頃、丁度風に煽られたカーテンが、ダイヤみたいな陽光を勝手に室内に招き入れた。顔に降り注ぐそれに、俺の意識は水中から浮上する。

 どうも、この頃夢見が良くない気がする。夜中にうなされていたような覚えはあるが、いざ朝になってみると、夢の内容は記憶からすっかり消え去っている。

 欠伸をしながら体の上半分を起こし、肩を回して頭に血が巡ってくるのを待つ。寝覚めは悪い方ではないが、必要に迫られない限りすぐに動く気にもならない。既に高くなってきた室温に辟易としながら、首に貼り付く髪を持ち上げる。寝る前に外した髪留めの紐が見当たらない。仕方ないのでまた散らした。枕に被せた布を剥ぎ取って、寝汗でベタつく胸と背中を拭う。

 普段から露出させている腕は、巧いこと焼けたパンの表面みたいな色をしているが、胸や腹などは海辺の白砂みたいだ。俺の肌は、日に焼かれれば色がつくが、リオンの肌はそうでないらしい。気の毒なくらいに赤く爛れていた肌は、ラウレスの葉から作った薬を塗って一週間も経てば、真珠みたいな色を取り戻した。肌の調子が悪いときは、大抵ラウレスの葉が効く。

 頭が回ってきたところで、俺はベッドから出た。海からの風を受けて、さっきからバサバサとやかましいカーテンを留めて、輝く水平線を眺める。下の表玄関から聞こえた挨拶に目をやれば、見知った爺さんが空の籠を持って出てきた。〈星の砂〉が得意にしてる仕入先の漁師だ。

「おい、爺さん。今日は何が捕れた?」

 曲がりかけた背中に声を掛ければ、漁師の爺さんはすぐこちらを向いた。よく上から話し掛けるんで、慣れたんだろう。昔はあちこち見回して困っていたのを思い出す。隆々としていた後ろ姿も、随分小さくなってきた。だが、もう七十も過ぎたんだったか。あの年頃にしてはかなり逞しい体をしている方だと思う。一人娘が引き取った里子が漁に興味持ったてんで、俺と歳の近いその孫にあれこれを叩き込んでいる最中だっていう。だから、まだ当分隠居する気はないんだろう。

「舌平目が結構掛かったぞ」

「舌平目? あいつ、見た目が食う気しねえんだ」

「料理になりゃあ気にならんだろうが。この辺りじゃ滅多に捕れんから、食っておいた方がいいぞ。儂も昼に来る」

「カミさんに調理してもらえばいいのに」

「ここで食う方が間違いない」

「婆さんが気の毒だな」

「構わん。こと料理に関しては互いに諦めとるからな」

 そう言って、漁師の爺さんは大籠を引きずりながら立ち去った。よく夫婦で店にやって来るので、今日もそうかもしれないな。

 顎を掻いたら、指先にざらつきを感じた。髭が頭を出してきたらしい。最後に剃ったのは一昨日だったか。それとも一昨々日だったか。毎日手入れするほど伸びは良くない。親父みたいに蓄えたいわけじゃあないが、ディランくらいの洒落た感じにしてみたいと思うことはある。しかしどうも俺の髭は薄すぎる。もう少し歳をとれば変わるのか。或いはこういう体質なのか。いずれにしても、今日は剃ったほうが良さそうだ。せっかくだし、ぬるい湯でも浴びて寝汗を流そう。

 そう決めた俺は、チェストから下着と適当な服を引っ張り出して、部屋を出た。全裸で。家で寝るときには何も着ない主義なんだ。『下着くらい身に着けろ』だとかマリアはうるせえけど、どうせ寝汗で起きるときには濡れそぼってんだから、洗濯物は少ないほうがいいじゃねえか。

 なんていつもの感じで行動しちまった俺は、実はまだ寝ぼけていたのかもしれない。着替えやらを頭の上に乗せて呑気に歌って歩いてたら、マリアの古着を着たリオンが、眠そうな顔で行く手の扉から現れた。

「あ、やべ」

 こいつがいるのを忘れていたわけじゃねえはずなのに、抜けていたようだ。さすがにずっと親しくしてきたわけでもない他人に見られりゃ、俺だって多少は動揺する。俺は固まったし、リオンは寝起きで下がり気味だった視界にちょうど入っちまったのであろう、俺の――具体的にどことは言わないが――普通は他人にそうそう見せるような所じゃないあたりを無意識げに眺めていた。が、ややして部屋の中に戻った。扉が静かに閉まる。

 やっちまったな。まあ、気にしても仕方がない。俺はさっさと浴室に入った。


 さっぱりとして浴室から戻ると、マリアが俺の部屋の前にいた。

「ああ、いた。もう店開けるから、早く朝ごはん食べちゃってよ。リオンとお父さんにも声掛けてきて」

 早口で要件だけ伝えて、マリアは階下に戻っていく。今日はいつもより油を使っているんだなと、香ってくる匂いで分かった。

 俺は濡れた頭を拭きながら、まずは親父の部屋に向かった。島に戻ると、いつまでも寝てるし、家事なんかも殆どしないし、だらしのないことで。まあ、その分一旦仕事期間に入れば休む間もなく働くから、均せば丁度いいのかもしれないが。昨日もかなり飲んでいたから、多分部屋の中は酒臭い。できれば入りたくない。俺とて酒自体はそれなりに好きな方ではあるが、酔っぱらいの臭いは好きではないので。

「おい親父! もう起きろよ、客が来るって」

 俺は多分鍵は掛かっていないのだろう扉を遠慮なく叩きまくった。中から低い呻き声が聞こえる。一応目覚めてはいるらしいが、動き出す気配がない。まあ、声は掛けたから良いだろう。俺は次にリオンの部屋に向かった。さっきの件でやや気まずい。俺はまず、扉の前に立って部屋の中の気配を探った。静かだ。二度寝でもしたのか?

 なんて思っていたら、急に扉が開いた。おい、こいつ気配が薄すぎやしないか? 寄って来る足音も何も聞こえやしない。俺は驚いて後ずさりそうになったが、なんとか留まった。

「朝飯、食ってくれってさ」

「……今行く」

 多分動揺した感じにはならなかったと思う。リオンもいつも通りの、無表情で抑揚の殆どない口調で答えた。どうも、何を考えているのか分からない。とくに俺に対しては口先の愛想も何もない。歳が近いからか? この前年齢を聞いたら『よく分からない』と前置きされた上で、多分二十くらいだろうと言っていた。なのでまあ、もしかすると五歳くらい離れているかもしれないし、もしかすると同年齢かもしれない。

 一足先に階下に行って、カウンター席に座る。朝食にするにはやや腹に重そうな料理が乗った皿が出てくる。文句なんて言えば『なら自分で用意しろ』と怒られるんで、余計なことは口にせずに受け取った。

 帝国式の食前の挨拶も適当にして、小麦の衣をまとった焼き魚を口に入れる。これが今朝仕入れた舌平目か。柔らかい身は、魚の脂によく合う香ばしい種子油を吸い、柑橘を絞り込んだソースが丁度いい具合にしつこさを和らげている。やはり朝には重いが、旨さは間違いない。今日もよく売れるだろうな。

 いくらか食べ進んだ頃、俺の服に着替えたリオンが下りてきた。俺の隣の席を一つ空けて座ったリオンは、マリアに挨拶と礼を言って俺と同じ料理を受け取る。俺の腹に重いものを、この細っこい体で食えるんだろうか。

 さておき、正直なことを言えば、初めはマリアを見たときにリオンがどういう反応をするのかという不安があったわけだが、こいつは無反応だった。

 自分から言わないので触れないようにしているが、リオンがフォルマから流れてきたことは分かっている。フォルマではマリアのような人間は公には軽蔑の対象だ。だが、マリアがそういう人間だとひと目で分かるかどうか、と問われると、付き合いの長い俺にはなんとも言えない。俺にとって、フォルマでリオンがどういった立場で生きてきたのか、ということは関心事だった。厳密には違うにしても、リオンもマリアも似たようなものとして分類される人間だろう。まして、リオンの容姿は明らかにリーン人系だ。リラやヴィオールの系統も入っていそうではあるが、少なくとも血統はフォルマ人ではない。俺は、例えば奴隷のような立場だったのだろうか、などとまずは考えた。年齢も曖昧となると、なおさらだ。だが、奴隷にしては教養がありすぎる気もする。アウリーやファーリーン式、ないし帝国式の作法には疎いが、フォルマの作法に関してはおそらく上流のものが身についている。美形の容姿で取り立てられる系統の奴隷もいると聞く。敵対するファーリーン王国の人間であることが、却って希少価値にもなり得るかもしれない。まあ、そんなことを本人に訊いて確かめたりなんてことはしないが。

 俺が隣で食っている間も、リオンは食前の祈りに時間を掛けている。シトリンみたいに輝く髪が隠そうとする横顔は、精巧な人形じみている。伏せられていた空色の瞳が開く瞬間を、横目で眺める。その姿を見ていると、どうも、俺ももう少し伝統に倣うべきだろうかという気持ちになってくるのだ。絶景でも何でもない、ただの大衆食堂の内装を背景にして、古典美術の写実的絵画内に浮遊する雷神リヨンを彷彿とさせるこいつは、きっと誰が評価しても『美貌の人』に違いない。

「お父さん、やっぱり起きてこないんだ」

「声は掛けたぞ」

「知ってる。聞こえてきたから」

 開店準備が終わったらしいマリアは、厨房内から身を乗り出すようにカウンターに腕をついた。そして、食前の儀礼を終えて食べ始めたリオンを暫く眺めて、訊ねた。

「どう、リオン。今日のは口に合う?」

 リオンは薄い唇を閉じ合わせて、小さく頬を動かしながら頷く。帝国式の食器が、まだ使い慣れないようだ。崩れる魚の身にやや苦戦している。それでも懸命に自分が作った料理を口に運ぼうとしている姿を、マリアは楽しそうに眺めている。俺としても、痩せた体に旨いものを入れていく様子を見ていると安心する。段々と食事量も増えてきた。とは言え、俺の半分も一度には食わない。

「お父さんの分、どうしようか。レナート、もう少し食べられる?」

「半分くらいかな」

 俺は自分の腹と少し相談して答えた。夕飯だったらもう一人前くらい余裕で食えただろうが。

「リオンはもういらない?」

「僕は十分です。ありがとう」

 リオンは丁寧に答える。やっぱり俺にだけ態度が違う。どっちにしろ大して愛想が良いわけでもないのだが。年長者に敬いの姿勢を見せるのは、いかにもフォルマ人らしい。ということはつまり、俺は年長者と見なされていないんだろう。

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