第二章 2

 俺はふと、リオンに一冊の本を貸していた事を思い出した。

「そう言えば、お前アレ本当に読んでるのか? 〈アルビオンの書〉の原本」

「読んでる」

「どこまで」

「中世期の始め」

 馬鹿みたいに分厚い本だ。今どき使わないような古臭い言葉と小難しい文体。いつ書かれたのかも知れない帝国神話――『アルディスの神話』など、色んな呼ばれ方をしている――は、幾度となく『現代版』と銘打って文語をその時々に合わせてきたようだ。定番は『ユリウス・カエルレウス訳』だが、全くもって面白さには欠ける。多少の脚色があっても物語として楽しめる方が良い。などと常々考えている俺が持っているのは、そのカエルレウス訳版なのだが。昔に親父に与えられたが、大して触らずにいたので埃を被っていた。虫にでも食われてやしないかと思って恐る恐る開いたら至って綺麗だったので貸した。買えばなかなか高価なものだ。

 そんな、大まかには四部構成で成っている〈アルビオンの書〉で、中世記の始めというと半ばくらいか。一週間足らずで読めるものか? 流し読みならいけるかもしれないが。

「あんなもの、王侯貴族か神官しかまともに読まねえぞ」

「レナだって読んだでしょうに」

 皿に追加された切り身に手をつける俺の中で、ガキの頃に何度も寝落ちながらようやく読破した記憶が蘇る。思い出すだけで頭が疲弊する。

「二度とは読みたくねえ。原本なんて飾りにしとくのが丁度良い。部屋にあったら知的な感じがするだろ。それより、王立図書が編集した連作集のほうがよっぽど面白いぜ。俺が好きなのは『メリウス王の章』辺りだな。『メレーの子』の題で出てるやつ」

「あんた、あれ好きよね。子供の頃から擦り切れるほど読んでた」

 暇さえあれば読んでいた愛読書をリオンには提案しておく。俺が持っていたものは、何年か前に綴じ糸が切れてばらけてしまったので、読みたきゃまた買うしかない。短いし高価でもないし、〈アルビオンの書〉原本に比べればずっと取っ掛かりやすい。なんと言っても、アウリーの初等・中等教育の教材にも使われているくらいだ。俺は学校には通わなかったので、そう話に聞いているだけだが。

「……メリウス王って?」

 リオンが訊いてきた。中世記の辺りだとまだメリウスは出てきていないか。

「半神半人の、アウリー人の祖」

「半神?」

 俺が簡単に紹介したら、リオンは胡乱そうに目を細めた。フォルマの宗教観的には『半神』なんてのはあり得ないんだろう。そもそも、神と呼ばれる存在が何十何百といる時点で相容れない。昔、帝国のとある学者は、フォルマの『アーリャ』は〈月の神子アル=ヴィセーレ〉の父――月帝――のことではないか、と唱えたらしいが、フォルマからの猛烈な批判に遭ったらしい。たとえ同一視されるのが、こちらの最高神の祖だとしても受容はできないようだ。確かに、仮にそうだとすれば、『神』の直系となる末裔はアルディス帝国の皇族ということになってしまう。とにかく、その辺りのことは下手に触れないに限る。

 だが、リオンはさすがに自分から多神入り乱れる〈アルビオンの書〉を所望しただけあって、半神というものを端から否定することはしなかった。受け入れるのに手間取っていはいるようだが。

 実際のところアウリー人にだって、メリウス王が半神だったとか、そういう話を本気で信じているのは少ないだろう。ファーリーン人と比べてアウリー人は夢想的だとはよく言われるものだが、こと宗教的な点に関してはファーリーン人の方がよほどその世界観に入り込みやすい。それに比べると、アウリー人ってのは幾分現実的だ。メリウスが神官の子供で、広範囲の土地と民族を統一したのは事実だろうとしても、二千年も生きたなんて点に関しては完全なる誇張か比喩だと受け取っている。だが真偽の比がどのようであれ、今では当然に思われるような体制も、元になるようなものを作ったのはメリウスだというのは定説だ。とすれば、相当賢かったんだろう。そういうところから神格化されていったのかもしれない。アウリー人の祖はメリウス王で、メリウス王の母親は女性体を以て顕現したメレー。なので、アウリー人はメレーを崇拝する。『メレー信仰』と呼ばれる。メレーは帝国神話における最高神〈月の神子〉の守護神で、ファーリーンで崇拝されるフェムトスと並ぶ高位神だ。メレーは賢神とも呼ばれる。と、ここでまたとある学者は『メレーとメリウスは同一神』と言う。メリウスが賢かったからだろう。あれとこれは一緒、ここは本来別だった、なんてのは、挙げればきりがない。

 食い終わって、水を飲みながらリオンの姿を眺める。俺の服は少し緩そうだ。背丈は殆ど変わらないが身幅が違う。リーン人らしいことに骨格はしっかりして見えるが、肉の付き具合が薄いから、どうしても袖やら裾が余るようだ。

「なあ、調子が良ければ服を見繕ってこないか? いつまでも俺らの古着じゃあさ」

「……別に、何でも良いんだけど」

 リオンはどうも、服装にまるでこだわりが無いようだ。せっかく元の顔立ちとか体型だとか――痩せぎすではあるが、それはそれとして手脚が長いんで――見栄えが良いし、フォルマ的な所作がより優雅な感じにさせる。俺やマリアの趣味は悪かないだろうが、あくまで自分に合うものを選んでいるし、それがリオンにも似合うかと問われればいささか首を傾げたくはなる。

「いいじゃない。行ってきなさいよ。観光も兼ねてさ、島を案内してやったら? ねえ、レナ」

「なんなら、本屋にでも行くか?」

 マリアの援護を受けて追加で提案したら、リオンの顔つきが少し変わった。

「本か……」

 これはいい手応えなんじゃないか? 本好きを引っ張り出すには本のあるところを示せば良いわけだ。

「金もあるんだから、気に入ったものがあれば買ったらいいさ」

 俺は店奥の金庫がある小部屋を示した。リオンが身につけていた黄金の宝飾品の幾つかは、本人がいらないと言うので質に入れた。相当な額になったので、銀行にでも預けておいた方が良さそうだが、身分を証明するものがないので当分は難しい。とりあえず店の金庫内に、売っていない宝飾品と一緒に入れてある。

「……行こうかな」

 よし、と俺は内心で両手を打ち鳴らした。どうやら一週間ぶりにこいつをこの家から引き出すことに成功しそうだ。俺は金庫から適当に金を引っ張り出してきた。五百エラス紙幣が十二枚。このくらいあれば、高級品を何着も買うような事をしなければ、服でも本でも十分に手に入るだろう。

 リオンも飯を食い終わって、また食後の祈りに入った。この仕草を見てフォルマ式のものだと分かるやつは殆どいないだろう。まず、容姿のリーン人っぽさが先入観を抱かせるし、たぶんリオン自身も本当に正式な形でのフォルマ式――というかシャヒール教に則った祈り方はしていない。知識があるやつが見れば分かるが、なければ分からない、といった具合だろうか。

「じゃあ、そろそろ店開けるから。行ってらっしゃい」

「先に服だぞ」

 マリアが食器を片付けて、俺たちを正面玄関から送り出す。服よりも本に気持ちが持っていかれているリオンには念を押しておいた。

 まだ俺の髪は乾ききっていなかったが、海通りを歩いて太陽と風に当たった方が、家の中にいるより良い。散ると煩わしいので、さっき下りてくる前に枕の下から見つけ出した紐で髪を括った。

「あんた、その髪切ったら良いのに。癖毛だから邪魔じゃないの」

「だァから、切ってもすぐ伸びるし、半端に長いよりこの方が良いんだって言ってんだろ」

「私は短い方が好きだけど」

「俺はそうでもない」

 いつもこいつは俺に髪を切れと言う。短髪の男が好きなのかなんなのか知らないが、俺は長髪は自分に似合うと思ってるから、何度言われたって切らない。というか、切れ切れと言われると切りたくなくなるんで、多分もう四年くらいは伸ばしてる。

「リオンは髪結んで行く? この島、結構風があるから」

 マリアは前掛けの小袋から青と紫の糸で編み込まれた紐を取り出して、リオンに見せた。リオンは海から吹いてくる風を受けてなびく冴えた金髪を顔から退け、頷いた。

「じゃあ後ろ向いて。結んであげる」

 言われてリオンは素直に従う。顔の横に掛かる髪は後ろで結ぶには短いらしく、そのままにしておくようだ。マリアはリオンの後ろ髪を軽く編み込んでから、手際よくまとめた。

「うん、似合う。じゃあ、楽しんできて」

 そう言って、マリアは俺たちの背中を押した。あまり遠出をするとリオンも疲れるだろうから、近場で用が済ませられれば良いと思いながら、とりあえず歩きだす。

 なんとなく横を見ると、心臓が縮こまりそうな美形がいる。無論そいつはリオンなわけだが、後ろ髪を纏めただけでも随分雰囲気が変わるものだ。俺の服を着ていると、なんだか『男装の麗人』みたいに見える。それに、アウリー人は結構動きが大きいのに、こいつは身振りが小さいというか、品が良いというか。フォルマのひらついた衣装がこいつに身動きの癖を付けたんだろうが、なんとなく剣術指導を受けたファーリーンの貴族っぽさもある。どうであれ、これは目立つだろうなと俺は思った。うっかり離れると、男女問わず声を掛けられて買い物どころではなくなりそうだ。なんて色々と考えながら、疲れやすそうなリオンに速度を合わせて、要件を満たせそうなエクアロの通りを目指した。

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