第一章 2

 レナートに声を掛けられて、いつの間にか眠っていたことに気づいた。先ほど襲ってきた酷い倦怠感は和らいでいたが、やはり体が重い。僕はようやく起き上がった。

「一人で歩けるか?」

 レナートの問いに答えがてら、僕は立った。これも彼の借り物らしい、少し緩い長靴越しに、木の床を踏みしめる。

 ぐらりと体の芯が揺れたと気づいたときには、視界が回っていた。倒れると思ったのも一瞬、衝撃に備えようとする心構えも間に合わない。だが、幾らかの時間が過ぎても、僕の体が木板に打ち付けられることはなかった。

「こうなると思ったよ」

 上から降ってくる声に目を開ければ、レナートの顔があった。背中を支えられていると気づくが早いか、押し上げられて重心を戻された。彼の手がなければ、小卓の角で頭を強打していたかもしれない。冷たい汗が少し滲んだ気がした。

「壁を頼って行くか? それとも、俺の手か肩が欲しけりゃ貸すぜ」

 倒れないよう壁に手をついた僕に、レナートの左手が伸べられる。深爪気味で、擦り傷の多い手だ。

「壁伝いに行く」

「そうかい」

 正直、壁は心許なかったが、レナートの手を取る勇気もなかった。だから、僕は力の入りにくい足腰を叱咤して、のろまな僕を待ちながら先導してくれるレナートについて行った。

 意識を取り戻して初めて、日の下へと出た。陽光は容赦なく僕の目を焼いて、頭に重い鈍痛を走らせる。

「なんだ? やたら眩しそうだな……」

 不審がるようなレナートの声が遠くから聞こえた。彼はすぐ近くにいる。分かってる。頭に照りつける光が熱い。瞼を突き破るほど強烈な明かりに襲われているのに、閉じた視界が急速に暗くなっていく。熱い頭皮の内側、頭の深いところから頸に、冷水を流し込まれるような感覚。息ができない。立っていられない。

「危ねえ!」

 壁越しに聞くような叫びを認識した瞬間には、僕の意識はまた遠くに行ってしまった。


――病院に連れて行くべきだ。あれは単に弱っているだけじゃないだろう。病持ちなら適当な処置を受けさせたほうがいい。

――自分の具合は本人が一番分かってるだろ。その上で『嫌だ』って言うんだ。もしかしたら、のっぴきならない事情があるのかもしれねえ。

 知った声同士が、遠くで会話をしている。浮上しかける意識とともに、体を起こす。僕はまた知らない場所にいて、寝台に横たわっていた。白い天井と、彫り込み模様の入った白い壁に囲まれ、透かし模様の布が窓からの風を受けて深呼吸するように広がる様子を眺めていたら、レナートが盆を持ってやってきた。

「起きられたのか」

「……ここは?」

「ウェリア島の、俺の家。丁度空き部屋があったんで。とりあえず、何か食った方が良い。何日も食わずじゃあ、立ちくらみも起きるってもんだ。ほらよ」

 亜麻布が掛かった僕の脚の上に、レナートは器の乗った盆を置く。

「……なにこれ」

「豆粥。同居人が下で料理屋やってるから、その厨房の端で作ってきた。魚介が平気なら、味は悪くねえと思うぞ。見た目はゲロっぽいけど」

 この人はいざ目の前にある料理を吐瀉物に例えられて、僕の食欲がそそられるとでも思ったのだろうか。鈍った嗅覚では薄味そうな料理の匂いも分からない。

 僕の心境に構う様子もなく、レナートは窓際の壁に寄り掛かった。

「お前、これまで使ってた薬とかあるか? 必要なものがあるなら、俺が医者に相談してきてやるよ。貰えるかどうかは分からねえけどな」

「……今はいらない」

 痛みを和らげるために焚いていた薬草は、その効果と引き換えに体の機能を狂わせる。瞳を光に順応させにくくするのも、血液の勢いを弱らせてしまうのも、脱力してしまうのも、意識が朦朧とし続けているのも、あの薬草の煙を吸い続けたせいだ。痛みがないのなら不要なもの。僕の腹の中にある不束な臓器は、とりあえずのところは眠りについたらしいから。

「そうか。……なあ、気を悪くするなよ。一応、確認するだけだ。伝染るものか?」

「伝染らないよ」

「だろうな。うちにはどうも、心配性なのがいるからよ。訊いておけってうるせえんだ」

「……気にするのは当然だと思うけど」

 異国から流れてきた人間が、何度も倒れていれば気にもなるだろう。まして、船という限られた空間で共に過ごした時間があるのなら尚更だ。けれど、きっと海から引き上げた僕を着替えさせたのはレナートなのだろうし、その時に僕の体を見て、多分何か思ったのだ。いずれにせよ、彼は僕の異常を周りに言って回るようなことはしなかったようだ。

 豆粥を見下ろした。銀色の匙が添えてある。道具を使っての食事はあまりしたことがないが、とりあえず手にとってみた。掬い部分が大きい。僕は細かく揺れる匙で、粥の上澄みを取った。大麦らしきものの欠片が混ざったそれを、口に運び入れる。

 もう何年と口の中にまとわりつく苦味のせいで、何を食べても気持ちが悪くなる。この料理の本来の味も、正直よく分からない。

「どうだ?」

 と訊かれても、気の利いた感想は言えない。きっと良いものだとは思う。僕の舌が馬鹿だから分からないだけで。

「悪くないんじゃないの」

「なら良かった。食い慣れたら、下で出してるものを勧めるぜ。島じゃあ結構評判の良い飯屋だからさ。それと、動けるようになったら体を洗ったほうが良い。一応、引き上げた時に真水を掛けたが、塩気が残ってると荒れるからな。この部屋を出て右手側の向かいが浴室だ。着替えは……、また俺のを貸しても良いけど、同居人のものでもいいぜ。ローブみたいな服が多いから、そっちの方が楽かもな。背丈も身幅も大して変わらねえ感じだし。女物だが」

「貸してもらえるなら何でもいい」

「じゃあ、とりあえずあいつのを置いておくよ。そんなに女々しい感じにはならねえと思う。後で好きなものを買いに行けばいいさ」

「この家、二人で住んでるの?」

 女性の同居人がいるのなら、関係性によっては僕は非情に邪魔なのではないだろうか。そう思って訊けば、レナートは首を横に振った。

「いいや、三人だ。親父と、その娘と、俺。まあ、それぞれ誰とも血は繋がってねえけどな」

 軽い口調でそう答えられる。ならその女性は義理の姉――か、妹ということか。どうも、複雑な家庭なようだが、他人のことを言えた口ではないので、僕も軽い相づちを打つだけにしておいた。いずれにせよ、案じていた関係ではないらしいので、多少は居座らせてもらっても良いのかもしれない。

「明日、この下で俺らの仕事の打ち合わせがあるんだ。ほとんど雑談だがな。下りられたら顔出してみろよ」

「……そうだね」

 多分、あの船に乗っていた人たちが集まるのだろう。なら、礼くらい言っておくべきだ。『やはり死にたい』と僕がまた本気で思ったなら、それは僕自身が改めてけじめをつければいい。波が打ち付ける崖下に落ちた時に死ぬはずだったのに、失敗したのはどう考えても運のせいだ。異国まで流れてきたのも運のせい。レナートの目に留まったのも、多分運のせい。でも、僕を引き上げて世話をしてくれたのは、彼らの善意に違いない。

 レナートが作ってくれた豆粥を食べ、一休みしてから体を洗った。浴室では、壁の高いところから首をもたげるようにしている、無数の細穴が空いた金属の円盤から降り注いでくる温水に戸惑った。噴水の一種か? どういった仕組みなのか分からない。見たこともない。アウリー王国は魔道が発展しているから、これもそういった類のものなのだろうか。全身鏡に背を向けながら、とにかくは体に残っていた海塩を洗い流せば、硬くなっていた髪が少し元に戻った。用意されていた服に袖を通してみる。確かに、女性物といっても装飾がなく、僕がフォルマで着ていた服と似たようなものだ。それから部屋に戻って、また眠った。夜中に二回ほど目が覚めたけれど、はっきり覚醒したときには、窓から朝日が差し込んでいた。

 久々に、意識が明快であることに気づいた。自分を自分だと思える感覚は、数カ月ぶりだったかもしれない。

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