第一章

第一章 1

 重い音が背骨をゆるく叩いてくる。微睡みの世界の中で聴いていた音が、近づいてくる。ひりつく瞼が開けることに気づいてそうすれば、薄暗い空間に影が浮かび、捉える間もなく視界の端に逃げていく。瞬く度に、その影は生まれ、消える。

 ただ宙を眺めて過ごす。やがて邪魔な影は生まれるのをやめた。眼球が動く範囲で辺りを確かめた。木造りの小部屋だろうか。よく見えない。この体は簡素な寝台に横たわっているらしい。足が向いた方に扉が一つ、空気穴のような小窓から流れ込んでくるのは、緩やかな風と、人の話し声。そして波音。

 薄い記憶を手繰り寄せる。死に損なったのか。それとも、死んで別の世界にやって来たのか。判らない。夢見る感覚に馴染みすぎてしまった。

 近くの小卓の上には、燃え尽きた蝋を囲む風よけの丸硝子と、満ちた水呑コップがあった。やたらと重く感じる体を起こし、自然とそちらへ伸びる手を、伸びるのに任せる。

 手が痙攣し、掴みかけた水呑を取り落とす。硝子が高い音を立てながら床で砕け散った。水が、乾いた床板の色を濃くしながら広がっていく様子を、ただ眺める。

「何か落ちた」

「目が覚めたのかもしれない」

 そんな会話が聞こえ、小部屋の扉が開いた。人影の背後をすり抜けて入り込んできた陽光に、瞳が焼ける。

「水か。新しいものを持ってくるから、少しだけ待ってな」

 そう言って、その人は消えた。男の声だった。この部屋の中で、誰かと話した記憶が朧げにある。夢だったかもしれない。だが、いずれにせよ、それはあの人ではない。

「レナート、目が覚めたようだから行ってやれ。俺は水を取ってくるから」

「分かった」

 レナート――アウリー人の名前だ。呼びかけられて応えたその声には、聞き覚えがある気がした。明朗そうな若者の声だ。半ば駆けるような足音をさせて、多分そいつが近づいてくる。閉じきられていなかった扉が無遠慮に開け放たれる。眩しい。

「おはようさん。自力で座れるようになったんだな。具合はどうだ? 顔色も良くはなったみたいだが。日焼けがつらそうだな。ちょうど塗り薬を切らしちまってんだよ」

 僕を見下ろす青年の瞳は、海の色をしていた。二重に見えるその姿に目を凝らす。瞳は鮮やかにきらめいていた。褐色の緩い巻毛は、短髪に見えた。だが、彼が割れた水呑を見下ろしたとき、項のところでまとめられている長髪だと分かった。僕よりも若いということはなさそうだが、大して年は離れていない気がする。海色がやたらと主張してくるのは、たぶん目が大きいからだろう。先よりいくらか焦点は合ってきたものの、細かい部分はぼやけて分からない。だが、古典的なアウリー人らしい特徴を備えた顔立ちをしているように思える。つまり、眉が濃く、睫毛が長く、鼻は高いが、やや短く、唇は血色が良くて、厚め。背丈はたぶん僕と変わらないが、露出した腕や首元、革帯が締められた腰回りの形を見る限り、僕よりもずっと健康的な肉付きをしている。

「自分の名前、言えるか?」

 彼がアウリー人なのだとしたら、ここはファーリーンと盟友関係を保ち続ける、アウリー王国の領域かもしれない。アウリーとフォルマが直接的に争うことは少ないが、友好国の敵であるフォルマに対して、アウリー人が好印象を持っているとも考えづらい。僕は自分が持っているフォルマ人の名前を答えることは控えるべきだと考えた。そう考えられるくらいには、この頭は働いた。

「……忘れた」

 そう答えれば、目の前のアウリー人――おそらくそうだろう――は大げさに首を傾がせた。

「おかしいな。昨日は答えてたのに」

 無駄な抵抗だったか。昨日、この人と話したらしい。だからこの声に聞き覚えがあったのだろう。何を話したのか、全く思い出せないけれど。よほど朦朧としていたのだろう。名前を誤魔化そうなんて頭はきっと働かなかった。素直に答えてしまったに違いない。

「まあ、本当に忘れちまったなら仕方ないし、答えたくないなら、それはそれでいいさ。とにかく、その様子なら昨日話したことは覚えてないってわけだな。なら、改めて俺の名前を教えておくよ。レナートだ。よろしく」

「……ああ」

 そこで、先ほど水を持ってくると言って一瞬姿を覗かせた男が戻ってきた。片手に新しい水呑と、もう片手には木桶を携えている。

「お待たせ。取っ手付きの容器にしたよ。手に力が入りにくいようだから」

「……ありがとうございます」

 明らかに年長の男にはやや畏まった態度をとりつつ、水を受け取って、口をつけた。冷たさが額の奥に響く。なぜ、こんなに冷えているのだろう。気温はズフールと変わらない気がするのに。井戸から汲み上げたばかりの水だって、ここまで冷えているだろうか。

 僕が床に散らかしてしまった硝子片を、年長の男は木桶に放り込む。彼を見下ろしながら、レナートは言った。

「気づいているかもしれないが、ここはアウリー王国の領海だ。つまり船の中ってことだな。海に浮いていたお前を見つけて引き上げた。今はウェリア島に向かってるところだ」

 ウェリア島――、アウリー南部キュアス諸島の中枢とされる島だ。島全体が都市として発展していると、本で読んだことがある。

 しかし、ここがキュアス諸島の海域なら、僕は随分な距離を流れてきたことになる。果たして何日掛けてここまでやって来たのだろう。この時期のマスィール海流は速いが、それに乗ったのだとしても、身一つで、生きてここまで流れ着くなんて到底現実的ではない。が、現にどういうわけか流れ着いてしまったらしいのだから、奇妙なことだ。

「それで、名前はどうする?」

 レナートが僕の隣に座って訊いてくる。容易に距離を詰めてくるので、少しばかり身構えてしまった。よく話に聞くところのアウリー人らしいと言えば、そうなのかもしれないが。

「なあ、お前の名前だよ。この先、名無しじゃあ困るだろ」

「何でもいい」

「へえ。じゃあ『リオン』がいいかな」

 レナートは予め考えていたみたいに、迷いなくその名前を口にした。リオン。どこか馴染みがある。記憶を掘り起こそうとして、ふと思い出した。

「雷神……?」

「よく知ってるな。そうだよ、『リヨン』の人名形だ」

 よく知ってるな、ということは、やはり彼は僕を帝国の人間だと思っていないのだ。この容姿を見ただけならば、まずファーリーン人だと認識されるはずだし、ファーリーン人なら雷神の名には馴染みがあるはずだ。その雷神の名は〈アルビオンの書〉で見かけた。リーン人にとっての主神が初めに生み出した原初の神。ファーリーン人なら知らないはずがない。つまり僕は昨日、朦朧とする中で確実にフォルマ人の名を答えてしまったのだ。

「帝国の神の名前が嫌じゃなけりゃな」

 僕――フォルマ人にとっての神は唯一だ。レナートのその言葉は、僕をフォルマ人と認識しているがために出たものに違いない。僕は雷のためだけの神を信仰はしないが、雷に神力を見出して神格とする風習を否定する気もない。

「構わない」

「なら良かった。初めの印象でそう思ったんだ。海に浮いてるお前が、やたら人間離れして見えた。血の気が失せてたからかもしれねえが……。昔に見た、絵に描かれた雷神の姿と重なってさ」

「いきなり飛び込むから、何事かと思ったよ」

 大まかに片付けを終えたらしい男が、苦笑を交えた声音で言った。頭に巻いた藍色の布から覗く、レナートよりも明るい茶髪。緩い巻毛がちになるのは、アウリー人の傾向なのだろう。瞳は若いオリーブの実のようだ。年齢はたぶん、三十代の半ばくらいだろうか。声質や話し方から温厚さを感じ取れる。

「人が漂流していると思ったら、そりゃあ慌てるだろ」

「あの距離から、よく人だって分かったものだよ。人だと気づいたって、身一つで近くに島もない、普通は船も通らない場所じゃあ、まずは死体かもしれんと思うだろ。脇目もふらずに助けに行くだなんて、なかなかできない」

「そこまで考えなかったんだよ」

「考えたほうが良いな。せめて一言声を掛けてくれ。錯乱したのかと思うだろう」

「錯乱したにしては、飛び込みも泳ぎの身ごなしも、なかなか華麗だったと思うぜ」

「そこまで見てなかったな」

「なら見たほうが良い。いくらか安心できる」

 二人のやり取りを聞き流しながら、僕は少し冷たさの和らいだ水を含んだ。

 ふと、僕は自分が着慣れた服を身に着けていないことに気づいた。最後に着ていたのは、白い絹の長衣だったはずだ。けれど、今この体を包んでいるのは、おそらく綿糸で紡がれた布地の、丈が腰辺りまでしかない薄茶の上着と、硬い紺色の脚衣。

「……この服」

 頭が冷え切っていく。誰かからの返事を求める気持ちと、何も知りたくない気持ちの狭間から、小さな呟きを押し出した。

「そういや、そろそろ乾いたかな。上等な服だったが、海水に浸っちまったからな」

 僕の曖昧な言葉を、隣に座ったレナートは容易に拾い上げる。

「着替え……」

 僕はまた、先と同じような呟きを繰り返す。不安と恐怖に襲われてまた思考が混濁する。

「俺の替えだ。とりあえず、それ飲んじまった方がいいぜ。思ったより元気そうだが、海水も幾らかは飲んでるだろうし、暑いし」

 レナートが僕を促した。何も触れてこない。自力で着替えられたはずがない。ならば、手伝ってもらったか、全て誰かに任せたことになる。多分、レナートだろう。ならば見たに違いない。なぜ言及しない? なぜ距離を詰めてくる? 気色悪いと思っているくせに。吐き気がする。消え去りたい。なぜ生き延びてしまったのだろうかと、僕を殺してくれなかった海への憎しみが湧いてくる。

「昼過ぎ――あと四刻くらいでウェリアに着くんで、そうしたらまずは病院に行こうぜ」

「嫌だ」

「嫌か」

 僕は咄嗟に拒否した。レナートの反応は、まるで初めから僕が嫌がることが分かっていたかのようだった。

「嫌なら、なあ……? ディラン、こいつの様子を見た感じ、どう思う?」

「素人目なら平気そうには見えるかな」

「ならいいか」

 レナートが軽い調子で言ったが、男は頷かなかった。

「そういうわけにはいかんだろう。第一、身元不明者を引き上げてしまった以上は、官憲に届け出さないと」

 アウリーの政府に身元を探られたら、どうなるのだろう。『リオン』なんて偽名を使ってやり過ごせるのか。そもそも僕はどうしたいのだろうか。きっと、フォルマからの流れ者だということは遅かれど暴かれるだろうし、そうしたらきっとあの国に送還される。それから? 恩人の元へは帰れない。全ての善意を裏切り逃げておいて、どんな顔をして許しを請えばいいのか。かと言って、彼以外に頼れる人もいない。要は、あの国に僕の居場所はもうない。

「もう一度海に放り込んで」

 僕は二人のどちらか――或いはどちらへも頼んだ。そうしたら、レナートが身を乗り出し、硬い口調で言った。

「よしときな。溺死なんて碌な死に方じゃねえ。別嬪が台無しになるしな」

「第一、それは聞けない頼みだよ」

「僕を引き上げたことなんて、他の誰にも知らせる必要なんてないじゃないか……!」

 無意識に、声へ圧が掛かる。僕を海へ再び投げ込むことで彼らが犯罪者になるのなら、初めから見つけなかったことにしてしまえばいいのに。久かたの感情の昂りを、隠す余裕がなかった。

「まあまあ、別にウェリアに着いたからって、すぐに報告しなくたっていいだろ。適当に理由つけて、何日後とかにでも顔出せば」

 レナートが言った。僕の様子を見兼ねたのだろうか。幾らかの融通を利かせようとする彼の態度に、僕の熱くなりかけた感情は長持ちしなかった。

 急に何もかもがどうでもよくなる。飲みきる気にならずに半分残した水呑を小卓に置いて、壁にもたれた。体がだるい。自分の感情の起伏を制御できない。疲れる。

「大丈夫か?」

 レナートに訊ねられても、答える気になれない。億劫で仕方がない。

「怠いなら、少し眠るといい。島に着くまで、まだ時間がある」

 僕は頷く代わりに、薄く開いた瞼を緩慢に伏せた。軋みわずかに浮く寝台の感触。レナートが立ち上がったのが分かった。

「着いたら起こしに来るからな」

 終いにそう言って、レナートたちは部屋から出ていった。

 一人になった小部屋の中で、また薄目を開けた。脚を寝台に上げるのが面倒で、僕は結局レナートが退いた場所に上体を倒した。視界に入る貧相な腕、日焼けとは無縁だった肌が赤くただれているそのさまを、暫く眺めていた。

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