第37話
誰もいないラウンジに腰掛けると、
「先生、どうなされました?」
と糸川が話出す。
「艦長の御子息のことは聞きました。それで、これを持って来たんです」
そう言いながら、石田医師は小さなポットをテーブルの上に置いた。
「これは?」
という問いかけに
「ハロセンです」
「というと?」
「外科手術で使うガス麻酔です。普通は5%に気化させて使います。それでも1分以内に眠りにつけますが、鼻腔から離すとやはり1分くらいで目が覚めます」
「どうしろと?」
「私は、放射能汚染濃度が50%を越えると、これを直接吸い込むつもりでした。数十秒で眠ったまま即死です」
「・・・・・・・・。」
「多分、こちらの病院では医療品は既に不足状態でしょう。対症療法もろくにできない状態だと思います。艦長、怒らずに聞いて欲しいのです。勿論、ご使用にならなくても結構です。これは、最後の手段として持っていて欲しいのです」
「なるほど・・・。」
「艦長、私たちはお互いに、どんな人生を歩んできたのでしょうね。私は、貴方を尊敬の念を持ってお付き合いして来たつもりです。そして、今、互いに見つめなければならないものを、直視しなければならない現実を突き付けられてしまいました。艦長、私に医者としてできることは、もう何もない。他に何もないのです」
「先生、ありがとう。必要になるかどうかは分かりませんが、いただいておきましょう」
「これで安心して、潜水艦に乗れます」
「先生も行かれるのですか?」
「はい、ウルグアイの軍医も乗船するようですが・・・。日本人も乗ります、軍医として船医として、日本人として彼等の面倒を見てやりたいのです」
「最後の最後までお世話になります」
石田医師は軽く頷くと、
「それでは、糸川艦長、さようなら」
「乗組員達をよろしくお願いします」
糸川は、深く頭を下げた。
糸川にとっては、ウルグアイに着くまでの潜航では、その潜水艦の中では、乗組員の健康状態だけではなく、精神の異常についても相談に乗ってくれた信頼できる医師であった。
そんな掛け替えのない人物が、また一人、糸川から去って行った。
石田医師は、グレーのスーツを着ていた。
靴音を鳴らしながら病院の廊下を真っ直ぐにエントランスへと歩いて行った。
兵舎に着けば軍服に着替え、潜水艦の医務室に行き、薬品の整理と調達をするつもりである。
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