第24話
毎朝の日課である。
糸川は今日もウルグアイ軍用車で海軍病院へ向かっている。
忘れていた訳ではないが、ベッドで寝ている息子にキャッチボールようのグローブをプレゼントするのは如何なものだろうかと考えていただけだが、この日の朝は決心した。
いつかはキャッチボールが出来るんだと励ましてやるのも良いだろうと。
病室へ入ると息子は眠っていた。
多分、この世界状況から考えると、ろくに薬も与えられていないであろう、そう思いながら糸川は息子のベッドに近づいていくと、
「おはよう、お父さん」
と息子が答える。
なんだ起きていたのか、と思う。
英語は糸川よりも上手に話せる。
が、日本語はほとんど話せないだろうなと分かる。
子供の成長は早いものである。
日本にいる間は英語など全く知らなかったのに、生きていくために言葉を覚え、それも孤独と戦いながらの勉強であったのだろう事ぐらいは想像できる。
不意に涙が出そうになったのを堪えながら、糸川も英語で息子に話しかける。
スペイン語を教えるのではなく英語を教えてくれたフェルナンデス少佐の家族に感謝しつつ。
ただし、呼び名はいつものままだ。
そう、日本にいた頃のままに、
「幕僚長、機嫌は如何かい」
この呼び掛けに「もう、家の中で、そんな呼び方はしないで」と叱言を言っていた妻を思い出す。
その顔は笑っていた、そう笑って叱っていた、と糸川は思い出す。
「変わらないよ」
と息子は答える。
「変わらないことは大切なことさ、今日はお見舞いを持ってきたぞ」
「なに?」
「これさ」
そう言うと糸川は、紙袋からグローブを二つと軟式ボールを見せる。
「覚えてくれてたの?」
「当たり前さ」
と言いながらも息子も覚えていてくれたのか、と年月は過ぎて行っても忘れ去られることのないものに不思議さを感じる。
「僕、キャッチボールが出来るようになれるかな」
「当たり前さ」
幕僚長は小さい方のグローブを左手にはめてみる。
そこへ糸川が軟式ボールをグローブの中に収まるように投げ入れる。
「ナイスキャッチ」
「うん、ありがとう。でも、早く治らないと死んじゃうからね」
「え? どうして?」
糸川は、一瞬、息子は自分が白血病であることを知ってしまったのかと思う。
「もうすぐ放射能がやってくるんでしょ、そしたら皆んな死んじゃうんだ。廊下で誰かが話してたのが聞こえたんだ」
そうだったのかと安堵の息を吐くが、それでも結局は同じ事なんだと思い直す。
「そうか、まぁ、心配することはないさ。放射能なんて父さんが潜水艦で吹き飛ばしてやるさ」
「嘘ばっかり、潜水艦にそんな機能なんてついてないよ」
「そんなことはないさ、父さんが日本から乗ってきた潜水艦は特別な装置を積んでいるんだ。ところで、前から聞きたかったんだが、どうしてキャッチボールなんだい?」
糸川は放射能から話を逸らすためもあって、以前から疑問に思っていたことを尋ねてみる。
「お母さんが言ってたよ、お父さんはハイスクールの時、コウシエン、に出たことがあるんでしょ? それって大変なことなんだって」
「なんだ、そんなことを聞いてたんだ」
「うん、他にも、お母さんといる時は、お父さんの自慢話ばっかりだよ、もううんざりしたよ」
糸川は、目に涙が溜まるのを感じる。
どうも涙脆くなってしまったものだと自嘲する。
まさか息子と、いつも一緒にいながら、彼女がそんな話をしていたなんて想像もしていなかった。
自分を愛していてくれたことに、今更のように気付かされる。
糸川は息子のサイドテーブルに立て掛けてある写真を見る。
3人とも笑っているが、不意に妻が生きているように笑ったかのように見えた。
愛しているよ、いや、私はこんなにも愛されていたんだ・・・。
「ねー、お父さん? 本当に放射能を吹き飛ばせるの?」
「え?ああ、本当さ。父さんは、世界中の放射能を撃退するために日本からやって来たんだ」
「本当かなぁ」
「本当さ」
「信じられないよ」
「本当だって!」
その後、二人は少しだけ笑うと、最後は声を出して笑い合った。
「本当なんだけどなぁ」
「絶対、嘘だよ」
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