第5話
糸川は、艦長室でペンダントに入れた写真を見ている。
妻と息子、そして自分が幸せそうな笑顔で写っている。
妻は遅くできた息子を産んでから病気で亡くなっている。
随分と寂しい思いをさせたと思っている。
一等海佐ともなれば陸上勤務も多くなるが、それでも時には潜水艦に乗り巡航することもある。
一度出航すれば70日以上は帰ってこれない。
更に世界の均衡が失われ始めた頃は殆ど家には帰っていなかった。
そんな頃に初めての子供ができた。
妻は40歳を越えてからの初産だった。
病弱な妻の体を思い、子供を産まないことも考えてと、妻と相談した夜もあった。
それでも、彼女は頑として彼の意見を受け入れようとは思わなかった。
それは何度話し合っても同じであろうことは糸川には分かっていたので、話し合いは一回きりだった。
殆ど家にいない自分、結婚した始めの頃からそうだった。
潜水艦乗りの合言葉みたいになっている会話がある。
「帰って家があったら御の字さ」
一回の巡航で離婚する夫婦が10人に一人はいる、と言われている。
決して大袈裟な話ではない。
それぐらい離婚率が高いと言うことだ。
妻は寂しかったのであろう、それくらいのことは分かる。
結婚初期は糸川も艦長として毎回70日間の潜航に何度も出て行った。
一等海佐になってからは潜水艦くらまの艦長を引退してはいたが、それでも世界情勢が明らかに危うくなってからは艦長に復帰したし、その時のくらまの艦長は後続している中型巡航型潜水艦いつたきの艦長になった江島一等海尉であった。
今は副長として糸川の補佐役をしている、いわば艦長代理として一個艦隊を動かせる権限も許されている。
江島にはできる限りのことを教えてきたし、江島の考え方が妙に合うのか、戦争が始まる前からの戦友であったかのように付き合いができた。
糸川の妻は糸川の思った通り、息子を溺愛した。
常に一緒に居るようだった。
妻からの e-mail や手紙に電話、息子の事ばかりが書かれていたし、話は別の用件であったはずなのに、結局は息子の話に方向が進んで行った。
そんな妻と息子の幸せな生活も5年で幕を閉じた。
最後の5年間、永遠であって欲しかった5年間を、妻にとってはやっと寂しい思いから解放されたあまりにも短い生活であったこと、糸川は苦痛を越えられないでいる。
「あの子を宜しく頼みます」
それが妻の最後の言葉であった。
息子は戦争が始まる前に南米に住む知り合いに預けている。
糸川はアルゼンチンへ一人で行く息子の顔を覚えている。
健気にも必死で涙を堪えていた。
息子を元気付けるためにも、自分は泣いてはいけないと思っていた。
自分が泣けば、必ず息子の頑張りも壁が崩れて、自分の胸に飛び込んでくるであろうと思った。
それでも良い、と何度も思ってしまった。
この国で、二人きりで手を取り合いながら最後を見守って、日本の最後を迎えるのも良いであろうと。
その考えを改めさせたのは妻の一言しかない。
「あの子を宜しく頼みます」
息子を乗せた旅客機を、機影が消えるまで見続けた。
ウルグアイに着けば迎えに行くつもりである。
約束をしたキャッチボールをするために。
鞄には小さなグローブと大きなグローブ、そして軟式の柔らかめのボールが入っている。
「サッカーでも良かったんだがな、どうしてキャッチボールなんだろう」
糸川が不思議そうに思っている頃に、艦長室の扉を叩く音が聞こえる。
「入っていいよ」
扉を開けたのは江島であった。
糸川は江島が入ってくる前にペンダントを胸にしまっている。
「艦長、放射能濃度が10%以下になりました」
「診療用放射線レベルだね、出るか。浮上準備を全艦に伝えてくれるかい」
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