無賃さん
あじみうお
-1-
出張先の大衆酒場でのんでいると、ひとのよさそうなじいさんが話しかけてきた。
「お仕事の帰りですか?」
「はあ、まあ」
私はうなぎの白焼きをつまみに冷酒を飲んでいた。じいさんは、私のとなりに腰かけると空のコップを差し出してきた。
じいさんは、注いでやった冷酒をちびりとなめた。
「労働の後の一杯は格別ですな」
私は軽くうなずいて、じいさんと乾杯した。
「私の仕事はねえ、例えるなら、海辺で砂山をつくるような仕事なんです」
じいさんは唐突にそういった。
さっぱり意味が分からなかったが、私は聞くともなしに適当に話をつなぐ。
「海辺で砂山ですか?それは・・・金になるんですか?」
じいさんは、眉をあげてニヤリとした。
「すぐに波や風にさらわれてしまう砂山に金を払おうとする人がいると思いますか?」
私があいまいに首をかしげると、老人はうなずいた。
「むろんお金になどなりません」
「はあ?まあそうか、じいさんくらいの歳になれば、悠々自適の年金生活ってやつか」
「いんや」
じいさんはきっぱりと首を横にふった。
「いうなれば無賃生活」
「無賃生活?」
聞きなれない言葉に首をひねると、じいさんは勝手に身の上話を始めた。
「私に名前はありません。周りからは無賃さんと呼ばれています。この先の山裾の旅館に宿泊していたときに、崖崩れに巻き込まれましてね、土砂の中から助け出されたのはいいのですが、記憶が、飛んでしまったようなんです。それで毎日砂粒みたいな記憶の粒をかき集めようとするんだけど、あともうちょっとってところで、さあっとね波にさらわれるように跡形もなくなっちゃう」
じいさんは冷酒をごくりとやり、満足そうに息を吐いた。
「記憶喪失ですか」
私は驚いてまじまじとじいさんを見た。海辺で砂山をつくるような仕事というのは記憶を取り戻す作業の事をいっているのかもしれない。
「今は旅館の主人の厚意に甘えて、半分土砂に埋まってしまった旅館の、無事な一室にくらしています。無賃でね」
「まぁ命が無事でよかったですね。他にお客は?従業員とか大丈夫だったんですか?」
「幸い、客は私だけでした。潰れたのは離れの客室だけで、真夜中でしたから従業員も皆無事でした。私は豪雨の中を季節外れにふらりと訪れた客だったようです。宿泊者台帳も偽名でね。一体私は誰なんだろうねえ」
じいさんはいつのまにか、まだ手つかずだった私の冷奴を食べている。
「私はね、何もかも忘れちまったんだけど、どういうわけだが、書画骨董の鑑定だけはできるのです。それで、たまに旅館の主人に呼ばれてね、あれこれ鑑定してやります。そうすると、ついでに食事や風呂なんかもどうぞってなことになりましてね。衣服なんかもいただけたりするわけです。無賃ですよ」
冷奴を食べ終えたじいさんはゆったりと微笑んだ。
「それは、欲がないですねえ。鑑定料をとればいいのに。鑑定がないときはどうやって食べてるんです?」
「山に入ると、木の実や山菜、茸たけのこいろいろとれます。いざとなれば赤土も食えますしね。なかなかなめらかで美味ですよ。それから近頃じゃ、部屋のまわりの土砂をならして少しばかりの畑もつくりましてね、イモやカボチャを育てています」
じいさんは、残り少なくなった冷酒の入ったコップを大切そうに手で包み、人のよさそうな笑みを浮かべて私を見た。
「それからねえ、酒場にくるとこうして、話を聞いてくれる優しい人に出会ったりする。おかげで、私は酒も無賃で飲めるのですよ」
じいさんはそういうと、残りわずかの冷酒を飲み干し、「厠へ」といって席を立った。
店の奥、トイレの看板のある扉にじいさんは消えた。一向に戻ってこない。
「おかげで、私は酒も無賃で飲めるのです」
私は、じいさんの最後の言葉を復唱した。
私はじいさんが消えた扉に向かった。トイレの看板のある扉。開けようとしたところで店員に止められた。
「お客さん、そこ裏口。トイレはほら、右曲がって奥だから」
トイレの看板をよく見るとトイレマークの下には右向きの矢印が付いていた。
「冷酒一杯と冷ややっことは、欲がないねえ・・・」
会計後、店から出てきた見知らぬ男が近寄ってきた。
「あのじいさん、一晩に何軒もハシゴしてね、新顔を見つけては同じことしてるんですわ」
耳元に顔を寄せ、酒臭い息でささやくとニヤッと笑って路地に消えた。
無賃さん あじみうお @ajimiuo
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