第4話 貴方の見ていた景色

 八重子はひとしきり私の涙を拭うと、腕を伸ばして私の体を優しく包んでくれた。彼女の首筋に顔を埋め、息を大きく吸い込んだ。お菓子みたいな甘い香りと、肌の匂い。


 彼女は私をきつく抱いて離さない。それは息も出来ない程で、私は僅かに身を捩ったが、彼女が力を緩めることはなかった。離れようとすればするほど彼女は腕に力を込めた。

 

 八重子は声を上げて泣いていた。どうして、とか許さない、とか譫言のように繰り返している。息をするのも忘れてしまうくらい、子供みたいに大声で泣いていた。右の肩が彼女の涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったけど、嫌な気持ちはしなかった。むしろ、心の底から嬉しかった。


ーー泣いてくれてありがとう。


「貴方が生きてて……良かった。二人ともいなくなってたら、私はきっと生きていけない」


 ようやく解放してくれたと思ったが、八重子は私の両手をきつく握ったまま離さない。八重子の長い睫毛が涙で濡れている。目の縁に黒子があるのを、今更知った。透き通るような白目は、今は可哀想なほど真っ赤に充血しているけど、焦茶色の瞳は相変わらず綺麗。


 ああ、これがあの子の見ていた景色だったんだ。


「お願い。もう私の前からいなくならないで、誰も……お願い」


 八重子はいつになく真剣な表情で、私が頷くまで目を逸らそうとしなかった。彼女は悲しんでいるというより、凄く怒っているようだった。


 大人たちは八重子になんと伝えたのだろう、心中? 事故? 正しい正解はきっと誰もわからない。私はあれからほとんど誰とも話していない。


 八重子はあの夜、報せを聞いてすぐに駆けつけてくれた。彼女は自分を責めていた。何もかも、自分の所為だと。


 私がいなくなればよかった、ぽつりと呟く私の言葉に八重子は目を見開いた。みるみる顔が青褪めて、唇を震わせながら"二度とそんなこと言わないで"と低い声で言った。


 それからの八重子は、行き場のない怒りをどうにも出来なくて、何かにじっと耐えるようにぎゅっと拳を握っていた。握り締めていた掌には爪が食い込み痣のようになっていた。血が滲んだ後もある。


「大丈夫、八重子。私はずっとそばにいる」


 朝岡依桜は死んだ、あの子は


「約束して、ずっとそばにいてね」


 それがどこまで続くかはわからない。本当のことを知ったら、八重子はきっと離れていく。私のことを二度と許さないだろう、きっと死ぬほど憎まれる。


 私は許されないことをしたのだから。


 今日はやけに風が強い。風で岸辺に戻されてしまった花束が、くるくると螺旋を描きながら足元にコツンと当たった。


「私には、どうすることもできなかったの」


 私は再び花束を押し出した。今度こそ、最愛だった姉の所まで届くように。




 



 

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冬桜心中 桐野 @kirino_m

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