第3話 二人で一緒に
それから二ヶ月程経ったあの夜、夕食の前に父と憂依はリビングで大喧嘩をしていた。今までにないほどの騒ぎで、依桜は驚いて一階へ降りると、固く閉じられた扉に耳を押し当てた。
女子校に入れたことが間違いだった、これは思春期の気の迷いだ。
多分そんな言葉だったと思う。すぐになんの話か理解することが出来た。ゆっくりと扉を開ける。僅かな隙間から中を窺うと、母がソファに座り込んですすり泣いていた。
まるでドラマの中みたい、依桜はどこか冷静な頭でそんなことを考えていた。
いつかはこんな日が来ると思った。私たちの狭い世界を、大人たちが知らないままでいられる訳がない。
手続きは済ませた、父は唸るように呟いた。途端に弾けるように憂依が部屋を飛び出した。すっかり油断していた依桜は驚きのあまり、勢いのまま後ろに倒れ込んだ。ぶつけた肘がズキズキと痛んだ。
「憂依……っ、待ちなさい! 依桜……? なんだ、聞いていたのか」
依桜はそれに返事をせずに、憂依の後を追いかけた。片方の靴紐が解けそうになっていたが、構わず走り続けた。
息を切らして、何度も足をもつらせながら走っても憂依との距離はどんどん離れていってしまう。
憂依は真っ直ぐに湖へと向かった。そして、少しも歩を緩めることなくじゃぶじゃぶと湖へ入っていってしまう。とっぷりと暗い水面が寄せては、憂依の体を飲み込んでしまう。
「憂依、待って……!」
依桜も一瞬躊躇ったものの、すぐに同じように湖の中へと歩いていった。氷のように冷たい水が肌に張り付いて、体温をどんどん奪っていく。体が思うように進まない、冬用の制服が水をたっぷりと吸っていて余計に足取りを重くさせる。
湖の真ん中辺りまで来ると、ようやく憂依が立ち止まった。咄嗟に掴んだ手を、憂依は決して振り払わなかった。
二人は向き合うように立つと流されないように、二度と離れないように、お互いの両手をしっかりと掴んで体を支えた。
「依桜……」
憂依の目は泣き腫らして真っ赤になっていた。
「憂依……ねぇ、一体どうしたの?」
本当は知っているくせに、自分の声がひどく白々しく聞こえた。
依桜は憂依の手を引いて岸辺に誘おうとしたが、彼女は杭で繋ぎ止められているかのようにびくとも動かない。無理に引けばきっと振り払おうとする諦めて憂依の気持ちが落ち着くのを待った。
ちゃぷん、ちゃぷんと、水面が揺れる。いつの間にか湖の匂いも濃くなっているようで不安を煽られる。
憂依はそんなことを気にする素振りもなく、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「お父さんが八重子との関係を……知ってしまったの。春には永遠にお別れ、私たちは引っ越すことになる」
「そんな……!」
突然の事実に思わず声を上げる依桜だったが、厳格な父ならやり兼ねないことだった。それに、以前から共学の有名進学校に通わせなかったことを後悔しているようだった。
「……帰ってちゃんと話し合おうよ。きっとわかってくれるから」
「わかってくれるって、誰が?」
憂依は声を荒げた。大丈夫、大丈夫だから。依桜は震える憂依を落ち着かせようと、呪文のように繰り返した。
「私の恋はね……"気の迷い"だって。八重子のご両親にも知られて、彼女は私と別れるって言ってた。さっき電話を掛けたの、でももう話もさせてもらえなかった」
憂依はさめざめと泣いた。依桜はしばらくの間、憂依の手を離さずにじっと寄り添っていた。
「……ここから先は深くなるの。足が絡まって、もう上がってこられないんだって」
湖の際にある冬桜が目印、これは昔から言われていることで二人の視線の先には、境界線のように細い枝が手招くように下がっていた。
全ての木々が枯れる中、ぽつりぽつりと白い花が風に揺れている。いつの間に咲いていたのだろう、明るい内には気付かなかった。
冬桜よりも先に進むと、水深が深くなるばかりか生い茂った水草に足を絡め取られてしまうらしい。そのまま上がってこられなかった人が何人もいる。
だから、この湖の下にはたくさんの死体が沈んでいるらしい。それを、呪いや祟りだとかいう人も言るが、本当のことはわからない。
月明かりの下でぽっかりと咲いた白い花が、まるで死の淵で揺れる行燈のようで、依桜は恐怖のあまり叫び出しそうになった。
「ねぇ、憂依お願いだから、「依桜、私と一緒に来てくれる?」」
もう帰ろう、その言葉は簡単に風に掻き消されてしまった。
「……一人じゃさみしい」
憂依の腕が依桜の腰へとするりと巻き付いた。ざらりと冷えた頬を、依桜の頬へと確かめるように触れさせる。
どのくらいの時間そうしていただろう、二人はどちらからでもなく体を離した。憂依は瞳を閉じたまま、静かに涙を流していた。僅かな月明かりを頼りに、青褪めた憂依の震える瞼をただ見つめていた。
私にはどうすることもできなかった。憂依の手がゆっくりと私の体を抱き込む形で、湖の中へと誘った。ゆっくりと湖の底へと沈んでいく。
息が続かなくなって、私は自然と水面へと手を伸ばした。絡まる水草を夢中で蹴り付けている内に、体がゆっくりと浮上していく。
あと少し、そう月明かりに手を伸ばすと、誰かがもう片方の私の腕を掴んだ。私はその手を引き離すと、湖の底へ、底へと向かうように押し込んだ。
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