第2話 貴方になりたい

「依桜は本当に絵が上手だね」


 口を開けたまま、憂依は素直に感動していた。二人は美術の課題の為、この湖に来ていた。

 家の前の道は湖畔遊歩道へ続いていた。別荘地からは離れているから静かで落ち着いている。人通りも少なくて、二人のお気に入りの場所だ。水面がキラキラと反射するのを日が暮れるまで眺めていた。


 美術の課題は"お気に入りの場所をスケッチすること"。二人は悩む間も無くこの湖を選んだ。


 憂依は既にスケッチに飽きているのか、筆の動きが随分と乱雑だった。


「そうかな、憂依だって上手じゃない」


 憂依の絵は色を沢山使っていて、草や木が生き生きとして見える。遠くに浮かぶ小舟も描くことでカラフルで明るい雰囲気になる。飽きると雑に済ましてしまうのは彼女の悪い癖だけど、それさえも"躍動感"に変えてしまう。


「憂依の絵、好きだよ」


 対して依桜の絵は、色の数は最低限しか使用せず、あとはぼかしや滲みを利用してグラデーションにしてしまう。どこか物悲しさを感じるが、そこが良いと評価される。


「同じ景色を見ているはずなのに、私たちはどうしてこうも違うのかしら」


 憂依はぽつり、と独り言のようにつぶやくと足元に寄せた波に触れた。


 依桜も常々同じことを考えていた。この灰色の空の下、憂依はどうしていつも僅かにも光を見出すことができるのか。


 憂依は三十分程で書き上げてしまうと、後はぶらぶらと依桜の周りを歩いてみたり蟻の行列にちょっかいをかけたりしていた。そうかと思うと、立ち上がって大きく伸びをした。


「私、いつか依桜になって世界を見てみたいな」


 憂依はダンスでも踊るように、ぐらつく足場をものともせずにその場でくるくると回り始めた。白いリボンが風に舞うのが綺麗で、依桜はその姿をただ見つめていた。


 どうしてこうも、私たちは違ってしまったのだろう。


「あ、八重子だ」


 憂依が弾んだ声を上げ、大きく手を振った。


「やっぱりここにいた」


 青野八重子は二人にとって大切な幼馴染だった。だけど、今年のクラス替えで憂依と八重子が同じクラスになってからは、少しずつこの関係性が揺らいでいた。


 それに気付いた頃には、きっと既に遅かったのだと思う。二人の視線、肩の触れる距離、その全てが変わってしまった。


「美術は課題が多くて大変だね」


 八重子は依桜の肩にポンと優しく触れた。課題に集中する彼女を気遣ったのだろう。依桜は少しだけ顔を上げると、同じように微笑み返した。


 八重子がいると、それだけで世界がパッと明るくなる。風の音も、流れ着く落ち葉さえ特別なものに感じられた。


 八重子の広い上げた真っ赤な紅葉があまりに鮮烈で、依桜はどうしても作品に残したくなった。気づかれぬように、そっとキャンパスに描き足す。まだ、彼女に触れられる前、岸に流れ着く前の紅葉。


「選択教科、私も音楽にしたら良かったかな」


「音楽は楽しいよ、ずーっと歌ってばっかり」


 三年生になると、美術か音楽は選択で決める。依桜は美術一択だったが、憂依は最後まで迷っていた。


 授業中、窓を開けていると合唱が美術室まで響いて来ることがある。重なる声の中に、八重子の声を見つけられるとそれだけで幸せな気持ちになる。


 ーーもしも、それを隣で聴くことが出来たなら。


 八重子は歌うことが好きだった。鼻歌混じりに課題曲を歌う。私はその歌声を聴きながら、再び筆を走らせる。


 二人の手が自然と吸い付くように合わさる。絡めた指でリズムを取りながら、憂依は八重子の横顔を幸せそうに見つめていた。


 八重子は背がすらっと高く、女子ばかりのこの学校では所謂"王子様役"だった。憂依と並ぶと二人はお似合いのカップルに見えた。


 憂依の視線に気付いた八重子が恥ずかしそうに体をぶつけた。弾ける笑い声ばかりが楽しそうに響く。


 同じ見た目のはずなのに、彼女が好きなのは私じゃない方。


「……先に戻ろうかな。落ち着いて仕上げちゃいたいから」


「そう? 私はもう少し残る」


 憂依はそう言って、八重子に目配せをしていた。依桜はそれを見逃さなかった。


「依桜ちゃんは一人で平気?」


「大丈夫、家はすぐそこだから。ありがとう」


 八重子は依桜のことを依桜"ちゃん"と呼ぶ。依桜、と呼び捨てにすることもあるが、ちゃんをつける方が可愛らしいイメージに合うからと言ってくれた。


 慣れなくてくすぐったいけれど、依桜は八重子に"依桜ちゃん"と呼ばれるのが好きだった、だって特別な感じがするから。



ーー私たち、付き合ってるの。


 知ってた、そう答えた後の憂依の甘ったるい表情が鼻に付いたのを覚えている。それは今も燻ったままだ。


 彼女が誰かを、特に女の子を好きになるだなんて思ってなかった。厳しい両親に育てられ、何もかも完璧にこなしてきた。決められた道を外すことなく、秩序を守ることを良しとしてきた彼女が……それも、よりによって私の好きな人を。



「……ねぇ、八重子。抱き締めて」


 囁くように憂依がねだるのを聞いた。振り向かなくてもわかる。もうすぐ二人はキスをして、冷えた指先を温め合う。

 

「……私は憂依になりたかった」


 


 

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