第3話

 人間にとって、ロウロウと同義だ。


 最初に世界を創ったとき、神は、最も知恵ある生命に法を与えたのだという。

 知恵は善にも悪にも働きうるゆえ、法が必要だと深慮したらしい。

 その生命がすなわち、人間である。


 法を守ることは神への信仰を守ることであり、信仰の表現たる法の厳守は、現実の生活を守ってくれる。

 人間は最初のうち、様々な言語と表現で法を記し、崇め奉っていた。民族が異なれば法が異なるのも当然であり、神の呼び名もまた違って当然だったのだ。


 しかしあるとき、その状況を問題視する一団が現れた。

 神が唯一絶対なら、その現し身である法や呼び名も、唯一絶対であるべきではないか?

 様々な法や呼び名が氾濫するのは、神から与えられた言葉を誤って使用する者がいるからだ。神聖なる法を記し適用するのに、誤った言葉を使っているようでは困る。

 ここは正しい言葉と法解釈を手にしている我々が、全ての人間を真の信仰に導く手助けをし、間違いを正してやる必要があるだろう――。


 そうした義務感に駆られて精力的な布教活動を開始し、今や世界規模の広がりを見せるようになった宗教集団が、現在のサスキア王国にも根を張る、ラーフィー神殿である。

 エゼルディアの父であるサスキア国王が殺された場所は、そのラーフィー神殿の関連施設だった。王宮内に備えられた、王族専用の礼拝室で殺されていたのだ。

 王女エゼルディアの短剣によって。


「最初に見つけたのは私よ。礼拝室でお父様とお会いすることになっていたの。

 約束の時間に行ったらお父様が、主祭壇の前の床に倒れていて……」


 まずは事件の概要を教えてほしい。アンルーにそう言われてエゼルディアは、当日のことを語り始めていた。

 不可思議な力で突然目の前に現れた彼のことだから、やはり不可思議な力で事件のことも知っているのかと思いきや、そうではないらしい。

 人間の弁護士と同じように、まずは事件の流れを知り、証言を集めて真実を見極める必要があるのだという。


「私はすぐに駆け寄って、肩を揺すって顔を覗き込んだのだけれど、お父様はもう息をしていなかった。口元と胸が血で真っ赤に染まっているのが見えたわ」


 当時の情景がまざまざと思い起こされ、エゼルディアは喉を鳴らした。

 王宮の一角に据えられた、堅固な石造りの古い礼拝室。

 天井近くには縦長の細い窓が並び、色ガラスのモザイク画が嵌め込まれている。

 正面には神ラーフィーを奉る主祭壇があり、赤い絨毯の敷かれた中央通路の両脇には、王族が祈りを捧げるための長椅子が三列ずつ置かれている。

 国王の遺体はその中央通路から主祭壇へ至る直前、左右に張り出した翼廊の中央部に、入り口の扉に背を向けてひっそりと転がっていた。


「悲鳴を上げたらすぐに、外で礼拝室の扉を守っていた近衛兵が二人と、近くにいた大神官のザビド様が駆けつけてくれたの。

 動揺している私に代わってザビド様が、近衛兵の一人に宮廷医師を呼ぶよう、もう一人には不審者がいないか調べるよう、命じてくださったわ。

 それを聞いて私は、犯人がある場所に隠れているかもしれないと思った」

「ある場所?」

「ええ。主祭壇の下に造られた、秘密の地下室よ。歴代の王だけに入り口が伝えられる、大神官様も知らない場所なの。古い神が奉られていた頃の名残だとか……」

「歴代の王しか入り口を知らないのに、なぜ犯人が隠れたかもしれないと?」

「私とお父様はその日、一緒に地下室へ入る予定でいたの。先に到着したお父様が入り口の扉を開けていたなら、犯人がそこに飛び込んだ可能性もあるでしょう?」

「なるほど。それで扉は?」

「しまっていたわ。近衛兵が調べた別の扉も問題なかったし……」


 礼拝室内の鍵は全て国王が管理することになっているが、その鍵も全て国王の遺体から見つかった。それを伝えると、アンルーは少し考えてから口を開いた。


「君たちが周囲を探索中に、隠れていた犯人が入り口の扉から外に出た可能性は?」

「ないと思うわ。礼拝室はとても小さいから、変な人がいたらすぐにわかるはずよ」

「実際に見た方が早いな。ちょっと礼拝室に立っている自分を想像してみてくれ」


 数拍置いてからそれが自分への指示だと気付き、エゼルディアは目をしばたたかせた。

「想像って、私が? どうして?」

「君の記憶が移動に必要だからだ。今の君は物質や空間に縛られることのない存在だ。よく知る場所なら想像だけで移動することができる」


 半信半疑ながらもエゼルディアは礼拝室を思い浮かべ、そこに自分自身を立たせた。想像だけで移動できるなんて、そんな魔法みたいなことができるのだろうか。

 首を捻る間もなく、周囲の風景が変わっていると気付く。


「……嘘みたい」


 碧い瞳を見開き、紛れもない礼拝室の中を見回しているうちに、アンルーは正面の主祭壇に向かって歩き始めていた。

 手を引かれ、つんのめりながらエゼルディアも後に続く。

 主祭壇の手前、中央通路と翼廊が交差する部分に立ち止まり、彼は床に視線を落とした。


「敷物が汚れているな」

「血の跡よ。お父様はちょうど、この辺りに倒れていたの」


 目を伏せて祈りの言葉をつぶやき、エゼルディアは翼廊の左右を指差した。

「翼廊の突き当たりに、それぞれ扉が見えるでしょう?

 右が聖具室、左が王族の墓所へ続く地下階段への入り口よ。どちらも近衛兵が調べて問題なかったわ。それとほら、本当に小さな礼拝室でしょう?」

 腕を伸ばして、周囲をぐるりと指し示してみせる。


 古い歴史を持つこの礼拝室は、非常に素朴で簡素な造りだ。

 奉納された聖像や絵画、小祭壇などは腕の確かな職人の手によるものだが、主祭壇に配置された品々を凌駕する大きさではない。犯人が隠れていれば即座に気付いたことだろう。

 アンルーも周囲を見回し、納得したように頷いた。


「それで、三つの扉を確認した後、どうなった?」

「宮廷医師とロザリンデ様……私の義理の母にあたる王妃様がやって来たわ。

 医師がお父様の容態を確認し始めたとき、ロザリンデ様が急に悲鳴を上げて、長椅子の下を指差したの。そこに血の付いた短剣が転がっていたのよ。柄の紋章ですぐに、私のものだとわかったわ」


 当時の衝撃が苦々しく蘇り、エゼルディアは唇を噛んだ。

 その短剣は、自分の誕生日に父が贈ってくれた品だった。

 まさか、当の父を殺害する凶器になってしまうとは。


「真犯人に盗まれていたということか?」

「いいえ、短剣は王宮内の工房に研ぎに出していたの。

 鍛冶師の話では、事件の直前にたまたま工房に立ち寄ったお父様が、出来上がった私の短剣を見て持ち去ったんですって。これから王女に会うところだから、自分が渡すと言って」

「つまり王は、凶器を自分で持ち込んだわけだな。

 それなのになぜ、君だけが疑われた? 短剣を携えた王と礼拝室内で会う機会が、君にしかなかったのか?」

「短剣を使う機会が私にしかなかったからよ。礼拝室の扉を守っていた近衛兵二人が、私が現れる直前にお父様と会話をしているの。会話ができたということは、そのときまでは生きていたということでしょう?」

 嘆息混じりの説明に、アンルーは首を傾げる。


「近衛兵たちが嘘をついていた、という可能性もある」

「彼らは国王への忠誠が厚いし、そんな嘘をつく理由が見当たらなかったの」

「証拠はないのか? 忠誠心だけが根拠では話にならない」

「物証はないけれど……」


 宮廷の事情を知らない彼が腑に落ちないのも当然だ。

 近衛兵たちのことを詳しく話そうと、エゼルディアは頭の中を整理し始めた。

 しかし結局、その暇は与えられなかった。

 礼拝室の入り口で突然、扉の開く重々しい音が響いたのだ。

 現れたのは、紺色の神官服を着た老人である。


「ザビド様……!」


 エゼルディアは思わず彼の名を口走ったが、先方がこちらに気付く様子はない。

 今の自分は幽霊のようなものなのだろうと、それで予想がついた。普通の人間には姿が見えず、声が聞こえもしないのだろう。


「関係者か?」

 アンルーに問われて、エゼルディアは彼を紹介した。

「大神官のザビド様よ。悲鳴を上げてすぐ、近衛兵たちと一緒に駆けつけてくださった方」

「君を神明裁判にかけた張本人だな」

「そうだけど、別に恨んではいないわ。他に方法はなかったと思うもの」


 自分が玉座についたら、神明裁判は撤廃する予定でいるが、現時点では仕方のないことだと思っている。

 疑いが晴れないまま無罪放免になったら、王妃を初めとする敵対勢力の面々が黙っていなかっただろう。


「ちょうどいい。まずは彼に話を聞こう」

 言うなりアンルーは、ザビドに向かって歩き始めた。


「でも、私たちの姿は見えないんでしょう? どうやって……」

 その問いかけは、すぐに無意味なものとなった。

 ザビドが急に立ち止まり、怪訝な顔つきでアンルーを見上げたからだ。


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