第56話 泥の魔族
「こいつが最後の一匹か!」
マットウェルが大きな瓦礫を両手で持ち上げ、屋根から落とした。それは両目を潰された狼の魔族の背中に当たり、狼はぐぅ、とうめき声を上げながら体を反らせる。先程落とした岩や瓦礫は泥の魔族の所に落ちたが、泥の中に沈み込んでしまった。ダメージがあったかどうかは分からない。
「マット、助かった!」
ディルンムットが声を上げる。
「ウルヴ達を頼む!!」
マットウェルがラフィを見ると、体が泥に絡めとられ、身動きが取れない状態だった。口の周りにも泥が覆いかぶさり、呼吸も出来ない。息子の方はもう尻尾しか見えていない。急がなければ危ない状態だ。
「放せよこの野郎!」
マットウェルは剣を抜き、屋根から飛び降りる。落下の勢いで威力を上げようとした。
ざくっ!!
二匹の体を傷付けないよう余裕を持たせ、泥の体に一筋の空間を作り出した。普通に泥を斬っても刃まで入ってしまう。しかし、勢い良く振り下ろす事で、泥を切り離し、元に戻るまでのわずかな時間を稼いだ。
切り離された泥は、本体と繋がっていないとただの泥になるらしい。強く締め付けていた力が緩む。その一瞬を逃さず、マットウェルは急いで息子の尻尾を思い切り引っ張り、泥から出そうとした。ラフィはまだ意識があったので、自力で身をよじり、抜け出そうともがく。
泥は触手のようにその身を伸ばし、マットウェルを捕えようとしてくる。足を掴まれた。
「邪魔だこのぉ!」
剣で斬ると、掴んでいた泥は形なくどろどろと地面に流れていく。まだ泥の触手は伸びて来るが、彼は必死にラフィの息子を泥から遠ざけ、纏わりつく泥を落としていた。
「おい、おい!」
ぐったりとするラフィの息子。弟も駆け寄って来た。マットウェルは体を揺らすが、反応が返ってこない。腕を持ち上げてもどさりと落ちるだけ。口から泥が溢れて流れていた。
「目を開けろ! 死ぬな!!」
『兄さん、兄さん!!』
この町へ来る時、背中に乗せてもらったウルヴだった。最初はマットウェルを乗せる事に渋い顔をしていたが、気遣いながら走っていた事に気付いていた。実は優しい奴だったと知り、嬉しかったのだ。
うっすらと、わずかに目が動いた。
「もう大丈――……」
その瞳を見て、マットウェルは言葉を失ってしまった。弟が兄を必死に呼びかけているが、その声も遠く聞こえるようだった。
『兄さ、うわっ!』
弟も泥に足を掴まれてしまった。が、すぐに泥は弾けて辺りに散らばる。ウルヴの弟は目を
『マット……』
「兄さん守ってろ!」
マットウェルが魔族に向かって走り出した。泥は標的をマットウェルに変えたようだ。いくつもの触手が伸びて来る。彼はそれら全てを薙ぎ払った。
「許さねぇぞ、てめぇはぁ!!」
剣を振り下ろす。
泥の中から人間の手が見えたのだ。一人ではない。よく見れば、足、靴、人の一部が泥から飛び出している。泥はすぐに元の形に戻り、彼らを隠してしまった。
「人間を喰ったのか……。ああああぁぁぁ!!」
マットウェルが魔族へ向かって行く。泥の魔族はその濁った茶色い体を大きく広げ、彼を飲み込もうと覆いかぶさろうとする。すると、太陽の光でその体は透け、中にいる人や瓦礫が見えてしまった。その光景があまりにおぞましくて、恐ろしくて、マットウェルは体が一瞬硬直した。
(まずい!)
喰われると思った瞬間、物凄い力に体が引っ張られた。何だと見れば、白い毛が視界を覆う。
「ラフィさん!」
『戦いを止めるな。その身がすくめば命取りになるぞ』
美しい毛並みはボサボサで、泥で茶色くなっていたラフィ。なんとか泥から抜け出せたようだが、ぜいぜいと呼吸が荒い。触手がマットウェルとラフィを襲う。なんとか避けながら距離を取っていた。
『魔族でも生きている限り、心臓となるものがあるはずだ。我が泥を吹き飛ばす。それらしい物を全て斬れ!』
「了解!」
ラフィは思い切り息を吸い、吐き出した。それは衝撃波のように泥を波立たせ、爆発させる。しかし、所詮は泥。散らしただけで、倒せないのは承知の上だ。
爆発によって、泥の中に取り込まれていた人が数人飛び出した。いずれも、もう生きてはいない。どさりと落ちる音はとても重苦しく、マットウェルの耳に届くも、視線は真っ直ぐ前を向いていた。
「あれか!」
マットウェルが走り出す。泥の中に赤い石が見えた。それはごつごつと
びしゃっ!
泥を踏みつけ、魔族の心臓へと向かって行く。魔族も心臓を砕かれてはたまらないと、自在に操れる残りの泥をかき集め、マットウェルへと放った。
(足を止めるな、戦いを止めるな!)
泥が迫って来る。魔族との戦いは、いつも死と隣り合わせ。その恐怖とも戦いながら、マットウェルは赤い石めがけて思い切りアルゴスの剣を振った。
ばきっ!
石に亀裂が入る。まるで悲鳴を上げるように、震えながら超音波のような高い音が鳴り響く。
「うぅっ!」
黒い狼の魔族を拘束し続けているディルンムットも耳の痛みに呻いた。狼の魔族は目から血を流しながら、拘束から逃れようと首を振っている。超音波など、全く気にしていないようだ。
(耳が痛ぇ……。頭の筋が切れそうだ……)
至近距離での超音波は意識が吹っ飛びそうだった。マットウェルは必死に剣を握り、力を入れた。思った以上に固い心臓の石。がき、と亀裂がまた広がる。
「もう少し……。うぐっ!」
泥が彼の全身に巻き付いた。そして思い切り締め上げてくる。ギリギリと体に食い込み、泥が口の中に入ってこようとして、とても気持ちが悪い。鼻からも入ろうとするので、左手で鼻と口を覆った。
(い、息が……)
両腕に力を入れ、締め付けに抵抗するも、剣にも泥が巻き付き奪おうとしてくる。片手で剣を持っているので危ないが、それでもマットウェルは手を放さない。
(や、やば……)
意識が途切れそうになる。マットウェルの手が震えだした。
『希望か……。我も信じるとしよう……』
ガアアァァ!!
ラフィが再び衝撃波を放った。しかし、先程よりも威力が弱い。マットウェルまで吹き飛ばすわけにはいかないのだ。体に巻き付く泥を飛ばす事が出来ればそれで良い。マットウェルの体から泥が離れていく。そのチャンスを逃さぬよう、剣を両手で握り、思い切り力をこめた。
「あああああああっ!!」
がきんっ!
石が砕けた。マットウェルから離れた所まで押しやられていた本体の泥は、大きな波のように彼の頭上にその体を持ち上げると、次の瞬間、力がなくなったように一気に落ちた。心臓が砕けたせいで、自らの意思で動く力を失ったのだ。しかし、最期は道連れだと言わんばかりに狙いをマットウェルに定め、生き埋めにしようとしていた。その泥の中には、瓦礫も含まれている。
「っ!」
マットウェルに、全ての泥が落ちた。
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