第16話:逆張りクソオタク

「……あれ?」

 お茶をしに行くと言われた。暇だから後について行った。やることもないし、バイトあるとか嘘だし、おごってくれるならいいか、って。

 そうしたら何故かラブホテルの中にいた。

「……」

 目の前にはシャツ一枚になった美人な先輩。下を履いているのかどうかは要審議。童貞の僕には判別不能である。正直、イケそうな気配しかない。これが陰キャにとって伝説のワンチャンか、と馬鹿みたいなことを考えていた。

 こういう思考を横道に逸らすのも一種の逃避か。

 魔性の女性に睨まれた童貞。蛇対蛙より勝ち目が薄い。当然僕は蛙側だ。

「あの、俺、帰ろうかなって」

「ないない。ここまでついて来てそれはなし」

「いや、でも」

「あとはそれを、ここに、入れるだけぇ~」

「……」

 魔性の指が僕と彼女自身の下腹部を指さし、往復する。どうやら履いていない可能性が極めて濃厚になった。

 面白い先輩だと思っていた。何だかんだと真面目に演技もしていたし、美人な先輩から陰キャ弄りをされるのも悪い気分ではなかった。

 だけど、今初めて僕は、女性を前に恐怖している。

 喰われる前の獲物の気分。

「今から童貞君のアイデンティティを失うわけだけど、どういう気分?」

「……に、逃げたいです」

「あれれ、お姉さんに魅力ない? 結構モテるよ、田中さん」

 そんなの見りゃあわかる。だから怯えているんだよ、こっちは。って言うか何でここまで呑気についてきたんだ、僕は。

 せめてラブホに連れ込まれる前に逃げていれば――

「そう言えば合宿ぶりだねえ。あの時の野球拳は面白かったなぁ。あ、あのイケメン君元気にしてる? 今もまだ、お友達?」

「……まだ、友達って、どういう意味ですか?」

「そのまんま。だって君と彼、釣り合わないでしょ。どう見ても」

「外見の話なら――」

「違う違う。あの子は勝ってる。君は負けてる。眼がね、違うの。自信に満ちて、光り輝いていて、眩しくて……だから田中さん、あの子は好みじゃない」

 彼女の魔性の舌から紡がれる言葉は、僕にも共感が出来た。友達だと思っていなかったわけじゃない。会話は楽しかった。僕が一方的にクソみたいな話をしていただけだった気もするけど、楽しそうに相槌を打ってくれていたし、居心地だって悪くない。でも、ふとした時に彼女の言う違いに、劣等感がなかったかと言えば嘘になる。

 どうしたって考える。学校じゃ何もしない者同士、対等な関係だけどあいつは家に帰ったら神絵師で、俺はただのクソオタク。

 其処に差がないわけがない。

 もちろん、顔面偏差値にもかなりの開きはあるけれど――

「田中さんにもねえ、そういうお友達はいたよ。ほら、一緒に見た映画に出ていた子。あの子、声優に転身して上手くいっているみたい。凄いよねえ、格好いいよねえ、前から声いいなぁって思ってたんだぁ。だから、あの後ブロックしたぁ」

「……」

「他にもたくさん。アイドルってね、地下だろうがメジャーだろうが、基本的には周りからちやほやされてきた子がなるの。田中さんもそう。昔からくっそモテたし、もう本当に女王様気分。神かな、って思ってた」

 いつの間にか隣に座り、手を重ねられる。

「原宿でスカウトされてぇ、まあアイドルも悪くないかって。別にやる気もなかったけど、負ける気はもっとなかった。だって男子ってちょろいし、所詮はその延長線でしょ? だから、楽勝。サクッと稼いで欲しいバッグでも買お、って」

「……あの、手」

 それがギュッと握り締められる。強くはない。だけど放す気もない。そんな強さで、横を向けば流し目で煽られる。

 いつでもどうぞ、と。

「だけどみーんな女王様だった。田中さんなんて可愛い方よ、マジで。どいつもこいつも目がぎらついていて、何が何でも登り詰めてやるって……そういう子は大体、上のステージに行く。田中さんみたいなのは下へ落ちるだけ」

 負け犬の眼。親近感が湧く。僕はその感情を知っているから。

 だけどなぜだろう。なぜか――

「最初はねえ、頑張っていたような気がするんだぁ。レッスンとかも真面目に受けていたしぃ、ボイトレとかよく褒められたなぁ。あ、これでも歌超うまいから。ま、素人の中では、だけど。ってかさァ――」

 そして、急に押し倒される。

 これが男と女かよってぐらい、あっさりと力ずくで。握っていた手を使ってぐわっと。完全に蛇に睨まれた蛙だ。情けないぐらい、何も出来ない。

「愚痴聞くのタルいっしょ? さっさと一発やって、残りの愚痴はサァ、その後でよくない? すっきりしてから話させて、ね」

 掴まれた腕が、胸に当てられる。甘い匂いと柔らかい感触、シャツ一枚を隔てた先にワンチャンがある。と言うかこれ、どう考えてもノーブラだ。

「上へ、先へ行く子を見ていると惨めになる。わかるよね? しまっちは田中さんとおんなじ、負け犬だからサァ。だから、いいじゃん。楽しくやろうよ。緩く、適当に、流されちゃえ。そうしたら、楽になるから。ねえ」

 耳元に息が吹きかけられる。理性が消える。楽になる。本当にそうだ。惨めな気持ちになる。その通りだ。負け犬、何の間違いもない。

「おいで」

「……あっ」

 傷を舐め合う関係。陰キャな自分と陽キャの極みみたいな彼女が釣り合うとは思えない。絶対、どこかで破局する。でも、少なくとも彼女の傍は惨めじゃない。彼女の隣は傷つかない。破局しても、やっぱりなって笑うだけ。

 それでいい。ここまで来た。『普通』なら堕ちる。堕ちていい。

 そうしたらきっと――

「こっちへ」

 とても楽になれるのに。

 何で今更、浮かぶんだよ。何で今更、こんなダサいことを考えてんだよ。

「……いやだ」

「……? あっ、もしかして監督ちゃんのことが好きだった? 名前忘れたけど。でも、あの子もしまっちじゃ釣り合わないよ。イケメンの子と一緒ぉ」

「……ちがう」

「……?」

 浮かぶのは――

『あのほら、例のやつ。なんか全然売れなかったらしいよ』

『ああ、あの調子に乗ってたやつね。どうせそうなると思ってたわ』

『つまらなそうだしな、あいつ』

 学校のトイレで聞いた、物語のもの字も知らねえカスの言葉。アンチするならせめて読めよ。読んで他と比べろよ。それから何か言え。

 便座の上で一人、震えていたことを思い出す。

 怒りに。

『……』

 あれからもずっと色んな作品を摂取してきた。その度に思う。僕の作品はこいつらに勝てないのか。負けているのか。

 見れば見るほど膨れ上がる想い。

 読めば読むほど湧き上がる感情。

 言わないようにしてきた。これだけはあまりにもダサいから。結果は出た。冷徹な数字が全てを押し殺す。何も言えない。言っちゃダメだ。

 だけど、玉石混交の数多の商業作品を観て、読んで、感じて、思う。

「だって、僕は……」

 言うな。それを言ったらもう、

「……負けたと、思っていない!」

 終わりだよ、クソオタク。

「……は?」

 誰がどう見たって惨敗だ。何をどうしたって一巻打ち切りだ。そんな現実を前に何言ってんだよ、と思う。我ながら往生際が悪過ぎる。

 それでも――この作品よりも僕の方が。自分ならこうする。こうした方が良い。正解はこっちだ。なんでわからない。何でプロの癖にそんなこともわからない。

 出来ないなら、わからないなら、その席を寄越せ!

 そんな戯言を部屋の片隅で幾度思ったか。

 もちろんたくさんの素晴らしい作品にも巡り合ってきた。感動した。胸が躍った。そう来たか、と膝を叩いたこともあった。

 だけど、勝てないと思った作品はない。手も足も出ないと思ったことは一度もない。素晴らしい作品を生み出すクリエイターを僕は尊敬している。

 けれど、その上で『僕』が及ばないと思ったことはただの一度としてない。

 一度も勝ったことなんてない。何かを成し遂げたこともない者の言葉に何の力もない。今の自分が何を言っても、何を思っても、説得力なんて皆無だ。

 そんなことわかっている。客観的に見れば負け犬の遠吠えでしかない。

 それでも僕は、

「……僕は負けていない」

 逆張りクソオタクだから。

「いや、負けたって。そういう眼だったじゃん。今更ぎらつくなって、な。無駄だから。先に進むやつはこんなとこで足踏みしない。とんとんとーん、って進んでいく。わかるよね? わかるでしょ? わかるだろ、ああ!?」

「わからない。わかっていたはずなのに……わからなく、なった」

 何で涙が流れる。本当に、意味がわからない。今じゃないだろ。つくづく格好悪い。今更悔しがって、何の意味がある。

 それでも心が、最後の一線にあった何かが――

「……あー、萎えた。ない、ほんと無理。しまっちって、もしかして馬鹿?」

 僕に負けを認めさせなかった。きっと、ずっと、僕は認めていなかったんだ。恥ずかしいから、ダサいから目を背けていただけで。

 その結果が逆張りなのだから救えない。

 ずっと、他者の創作物を見つめ続けてきた。何処かで自分と比べるために。もしかすると完膚なきまでに叩きのめされることを望んでいたのかもしれない。

 納得し、本当の意味で筆を折る。すっきりとした気持ちで。

「……かも、しれないすね」

 だけど結局、今の今までそんな気分は一度としてなかった。

 胸に渦巻くのは聞き分けの悪い子どもの駄々みたいな、無様な負け惜しみの数々。

「折角のワンチャン、逃すかね普通。とりま喰っとけよ、童貞」

 客観的に見たらなんと見苦しい足掻きか。

「ほんとですね」

 試合で負けたのに勝負じゃ負けていないとぬかす者と変わらない。

「……もうないよ?」

 でも、仕方ないじゃないか。

「……はい」

 自分の中の何かが、最後の一線で其処を譲ってくれない。諦めてくれない。

「……一生諦めないで足掻いてろ、バーカ」

 納得してくれないから。だから、貴女に寄りかかることは出来ない。

「……」

 そそくさと着替える田中さん。それを横目に僕は「あー、本当にノーパン、ノーブラだったんだ」みたいなことを思い浮かべていた。

 逃した魚は大きい。きっと、僕みたいな陰キャにはこんな機会二度と訪れない。

 今更ながらムラムラしてきたが、もう遅い。

「バーイバーイ」

 あの人は振り向かないで去って行った。金だけポイって捨てて。

 あの人に寄り添ったら楽になっていたのだろうか。傷を舐め合ったら救われていたのだろうか。また僕は間違えたのだろうか。

 何もわからない。何で、自分が彼女を拒絶したのかも言語化できていない。

 オタク失格だ。本当に、真っ白で、何も浮かばないんだ。いつの間にか半裸になっていた。気づかない内にあの人、握っていた手と逆側で僕の服のボタンとか外していたっぽい。どんだけ百戦錬磨だよ、と笑ってしまう。

 僕は馬鹿だ。度し難いほどの馬鹿だ。

 目の前のごちそうを拒絶して、遠くの何かばかりを見つめている。それが何なのかも忘れた癖に。あの手を握り返したら、彼女に身をゆだねたら、それが消えてしまいそうな気がした。わからない。自分でもわからない。

 ただわかるのは――また僕は人生の逆を張ったらしい、と言うことだけ。

 涙をぬぐい、自嘲する。

 『僕』は本当に、度し難いほどの逆張りクソオタクだ。


     ○


 ラブホテルから一人で出ると言うのはなかなか乙なものである。まあ、周りからはデリヘルでも呼んだのかな、と思われるだけか。

 どうでもいいや、そんなこと。

 これからどうしようかな、と頭が真っ白な僕は天を仰ぎ、首を振り、頭がすっからかんなことを確認する。何も出てこないポンコツである。

 どうしようかな、家に帰ろうか、さらにふらつこうか、気づけばかなり時間が経っていた。まだ終電には余裕があるけれど、のんびりと散歩するほどの時間はない。そんな時間に何をしようか。何がしたいか。

 答えは、少し離れたところにいた。

「……あ、あの」

 寒空の下、いつもと全然違うぶかぶかのコートに、あのお洒落さんは何処に行ったのか、と思うような髪型の時田さんがいた。

 随分、久しぶりに顔を合わせた気がする。実際久しぶりか。

「……キョウに聞いた?」

「はい。でも、場所がわからなくて、そうしたら田中さんから」

「なんて?」

「童貞に振られたからここに放置した、と」

「……わからない人だなぁ」

 本当のところはどういうつもりだったのだろうか。本気だったのか、冗談だったのか、今となってはよくわからない。

「あと、その、先日は申し訳ございませんでした」

「……逆でしょ。謝るのはあの場で癇癪まき散らした僕の方だし。申し訳ない。むしろ大丈夫だった? あの後、凄い空気だったでしょ?」

「だ、大丈夫です。みんな、その、全部はわからないですけど、どこかで躓いたことがある子たちばかりなので……転んだ痛み、少しはわかります」

「……そこから立ち上がったなら立派だよ、ほんと」

 色々とショッキングなことが多過ぎて、頭は混乱の極みにあった。あんなに怒ったキョウは初めてだった。最初の喧嘩よりずっと、厳しい顔をしていた。僕に発破をかけようとしてくれたんだと今ならわかる。あのクソイケメンは腹が立つことにイケメンではない僕よりずっと友達想いで、優しい奴なのだ。

 自分のことよりも友人のために怒ることの出来る、クソイケメンだ。

 からの人生最大の岐路、ワンチャン逃し。きっと僕は一生このことを後悔するんだろうな、と思う。まだ掌に感触が残っているから。

 何とかワンチャンを経て今に至ることは出来なかったかを模索するが、さすがにそのルートは見えてこない。とことん主人公適正はないんだろうな、僕は。

 だけど最後に、君が来た。

「終電まででいいんだ。少し僕に時間をくれないかな?」

「……はい」

 僕が主人公だったら、僕の好きなベタな展開だな、と思う。

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