第10話:宿泊先におけるセオリー
温泉。
かつて我が日ノ本の国において医を担う聖地であった。動物が傷を癒した伝説、万病に効くとされた逸話、物語には事欠かぬほどその存在が信仰の対象だったのだ。
時代が下り、各家庭に風呂やシャワーが備え付けられてなお、温泉の存在感は色褪せず僕ら日本人の心に深く根付いている。
温泉は素晴らしい。
歳を経るごとにそう思う。
「……あー」
「……疲れたなぁ、紅葉」
「……あー」
沁みる。疲れた体にこれ以上ない薬である。今なら万病に効くのも信じられる。如何なる薬よりも今は、この湧き出る熱水泉が愛おしい。
心も体も癒される。こうなって来ると――
「なあ、キョウ」
「なんだー?」
「ふと思ったんだけどさ」
「……なんか久しぶりな気分だ、その入り」
「よくラノベでも漫画でもアニメでもさ、温泉ものって鉄板だろ?」
「ああ、そうだな。俺結構好きだよ。肌色多いし」
「俺は着衣の方が好きだからあまり好きじゃない」
「その情報要らなかったぁ」
「お互い様だろ」
失敬な。人は衣服を身にまとうことで獣から人足り得ると言うのに。これだから絵師と言う連中は駄目なんだ。肌色のことしか考えていない。
センシティブな連中だよ、まったく。
「まあ、話を戻すけど、温泉と言えば?」
「覗き」
「そうだね、覗きだね。でも、俺たちはリアルで覗きの現場に遭遇したことがない。これはゆゆ式、おっと、由々しき乖離だと思うわけだ」
「そんなの言ったら全部そうだろ? 学園もので主人公が窓際固定なのはもはやいじめだし、転校生のために席を作っておくならまだしも主人公の隣が空き席とかどんないじめだよって話だし、スキー合宿で遭難するのもどこのスキー場のどんなコースだおい、って感じだし、高校の文化祭の分際で盛大過ぎるし、生徒会の権力なんてミジンコほどもないのに強力過ぎるし、あと、何だろ。無限に出てきそう」
「……高校に恨みでもあるの?」
「ない。ないけど望みを持たせる描写はさ、その分現実との差に苦しむことになるから、出来れば希望を抱かせないで欲しいかな、と思う」
思ったより闇が深いぞ、と僕は思った。話を切り上げるのも視野か、と思ったがキョウのそれから、と促すような視線に断念する。
なんか察した感出して話を切り上げる方が闇に触れそうで怖かったから。
「と言うかまあ、それらと違って覗きは普通に犯罪だから。昨今ではラッキースケベでも避ける傾向にあるけど、受け手が望んでいるのかなかなか消える気配はない。必ずどこかのラブコメで温泉会が生まれ、受け手を喜ばせている」
犯罪に関してはファンタジーと言う抜け道もあるからね。僕は嫌いだけど。そもそも温泉に対する価値観が日本的過ぎるのも気に食わない。休むな、遊べ、泳げ、飲め、それじゃあナーロッパじゃなくてナパンだろうが。いや、ニャパンか?
どうでもいいか。
「……で?」
「オタクは業が深いなぁ、と言うお話」
「オチが弱い。どうした逆張りクソオタク」
「……疲れてるからこんなもんだろ」
「疲れていてもオチを付けろ。俺は嘆かわしいよ」
「……じゃあ、温泉っていいよな、で」
「覗きを肯定する、ってコト!?」
「もうそれでいいわ」
覗きダメ、ゼッタイ!
○
フィクションにおける宿泊施設での王道は覗き、そして女子部屋への侵入であろう。前者は犯罪だが、後者は例え至ったとしても未成年同士ならたぶん、犯罪にも条例違反にもならない、ような気がする。うろ覚えだし、童貞だから関係ないけど。
そして女子部屋への侵入は陽キャにとってそれほどファンタジーではない。と言うか何ならよくあることだし、逆に女子がやって来ることもある、らしい。
現実ってマジでクソだわ。あー、早くカタストロフィ起きないかなぁ。
と、まあ、僕のような陰キャにとってフィクションであったはずが――
「ウェーイ! しまっち、飲むぞー!」
まさかの現実になった。
野生の田中、酒瓶二刀流にて襲来。
「……え、どういう関係?」
「……川崎で、少し」
「か、川崎ィ!?」
あ、こいつ今絶対にあっち系想像したな。このドスケベイケメンめ。
「ぶは、きょーちゃんドスケベぇ~」
気が合いますねえ。
「あ、いや、ちが。こ、こいつが川崎とか言うから」
「……オタクにとって川崎と言ったらチネ○ッタだろうが常考」
「あー、握手会で三十歳過ぎのおっちゃんがそれ言ってた!」
「ひゅ!?」
べ、別にちょっと古めの作品も網羅しているだけで、年齢相応の作品も観ているから。ちょっと最近名作シュタイン○・ゲートを見直したから、樽の口調が移っただけだし。別に常用しているわけじゃないから(早口)。
「まあまあ、とりあえず飲もう!」
でん、と畳の上に聳え立つ二本の酒瓶。日本酒二刀流、しかもこっちの地元に合わせてきたのか、加賀○と手○川じゃねえか。
と言うかこの人に僕、地元言ってたっけ。
「俺、下戸なんですけど」
よく考えたら地元は言ってないけど下戸なのは言ったよなぁ!?
「……聞こえない」
「あ、あの時は下戸なら飲まなくていいって」
「あーあー聞こえませーん」
「あ、あの時? 紅葉、お前、この先輩と何してたんだよ!」
「な、何もしてないって!」
「おんやぁ、さてはイケメンのチミも、童貞だな?」
「ッ!?」
キョウが見たこともない表情で狼狽えている。これは大変珍しいことで、自分が無関係であれば外側からげらげら笑い観察したいところ。
しかし今、目の前には――
「うっし、野球拳すっか」
理を超越した野生の田中がいる。すでに出来上がった状態で。
「「ッゥ!?」」
「ルールは簡単。じゃんけんで負けた者が服を脱ぐ。か酒を飲むかを選べる」
「服って、浴衣だから二、三枚しか」
「やっぞ、チェリーボーイズ!」
「ぐっ」
「やるしかない、か」
確かに演劇研究会のリーサルウェポン先輩が言うように、野生の田中は僕ら如きの手に負える存在ではない。しかもすでに出来上がっているから尚更。
これはもう、仕方がない。あっちから言い出したのだから合法であろう。じゃんけんは苦手じゃない。三分の一で勝てる。
別に僕ら男は全裸でも問題ない。ノーリスク。
「じゃ、一回戦、しまっち対きょーちゃん!」
「「なっ!?」」
ノーリスクだが、メリットも消えたぞ、おい。さっき温泉でお互いの裸みたから物珍しさすらないんだが?
「負けた方は罰ゲームも追加ァ。全裸でお姉さんに異性の好みを告白ゥ!」
やりたい放題かよ、このクソアマ!
ノーメリット、ハイリスクになったじゃねえか。
「はーい、やーきゅうー、すーるならー」
「「……」」
親友同士、視線を交わせば意思疎通など容易だ。僕らはまだであって一年と少ししか経っていないけれど、友情に時の長さなんて関係ない。
僕らは繋がっている。理解し合っている。
ここから逃げよう。それで時田さんあたりにこの野生の酔っぱらいを引き取ってもらおう。それで元通り、僕らの安寧が戻って来る。
明日も忙しいんだ。今日は休もう、な。
「こーいうぐあいにしーなしゃんせー」
「「……」」
おい、早く逃げろよ。
「あうとー、せーふー」
「「……」」
こいつ、まさか、
「よよいのー、よーい!」
「チョォォォォオキィ!」「パァァァアアア!」
「はい、きょーちゃんの勝ち!」
「っし!」
こいつ、まさか、決勝戦でワンチャン掴みに来やがった。イケメンのくせにやることがせこいんだよ。お前は堂々と告白して彼女作れや。
「さあ、しまっちの選択はぁ?」
「一枚、脱ぐ」
「男気ィ! さあさあ、盛り上がってきました!」
「……紅葉、悪いな。卒業するなら、今日かなって」
「悪いがキョウ」
ばさり、まるで重りの如く一枚脱ぎ捨て、僕は畳に脱ぎ捨てる。ここからが本番だ。友情を捨て、女に走ろうとした報いを受けろ。
「お前は俺を怒らせた」
「……紅葉も、ワンチャン掴みに来たか」
「違う。俺は、お前をノーチャンにするため、鬼になると決めたのだ!」
「……そうか」
「勝つ!」
負けられない戦いが今、始まる。
○
「「きゅう」」
バタンキュー。両者、最後はパンツ一枚になってノックアウト。よく考えなくてもこのルールなら、最後の一枚になったら飲むしか選択肢はない。
どっちも酒は強くない。されど飲むより他はない。
この結末は必然であったのだと思う。
「あはははは。童貞っておもしろ!」
薄れゆく意識の中、僕らの醜態を肴に酒をぐびぐびと飲む田中さんの姿があった。あ、浴衣はだけて、見えそうで、見え、あとちょい、ちょびっと――
「あ、見る?」
「ぶっ!?」
「ぎゃはははは! 鼻血、出た。昭和、平成越えて昭和、今令和! ウケる!」
僕の脳裏に焼き付いたのは双丘が一つ、先っちょも見えた気がする。いや、気のせいか。例え気のせいでも、ありがたや、ありがたや。
「ばっちいからティッシュつめとこ。さーて、次は何処で遊ぼうかなぁ」
とりあえず思う。
「……」
野生の田中は僕らチェリーの手に負える女ではなかった、と。
やっぱヤリチンの先輩は見る目が違ぇーや。
翌日、寝坊した僕らは時田さんに死ぬほど怒られた。何かを察したのか、それとも田中さんがべらべらしゃべったのか、終始不機嫌だったので大変居た堪れない気分でした。ヤリチン先輩はお前ら最高、と褒めてくれたけど――
「……俺、真面目に生きるよ」
「……俺も」
これっぽっちも嬉しくなかった。
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