第8話:テスト、家系、釣り堀、笑顔

「ロケ、八月頭だってさ」

「ふーん」

 結局、僕がやらかしたあの一件はキョウも時田さんも触れることなく、いつも通りの日常が過ぎていった。若干の居心地の悪さを感じつつも、あちらがわざと触れないようにしているのにこちらから何かするのもなぁ、という感じ。

 あんなの二人とも冗談半分だったのだから、笑って受け流せばよかっただけだった。最悪押し付けられても、一文字も書けませんでした、それで終わり。

 わざわざ空気を悪くする意味はない。

 脚本はアニ研の脚本チームが修正しており、廃墟関連のセリフを削除、修正し元の流れにしっかりと組み込んでいた。まあ、元々廃墟に関しては絵面の都合が大きく、背景が差し代わるだけと考えれば大した変更ではない。

 それよりも今は、

「反応薄いな」

「今は目先のことに集中してるんでな」

「……違いない」

 普段ちゃらんぽらんな私立文系の大学生も、年に二回だけはシリアスにならざるを得ない期間がある。そう、テスト期間である。

 七月中旬から末にかけて行われる前期試験。一月中旬から二月初旬にかけて行われる後期試験。ここだけはお猿さんではいられない。

 講義では日本語を忘れたお猿さんの如くウキャウキャ言っている連中でさえ、日光猿軍団程度には大人しくなるのだからことの深刻さがわかる。

 人間には程遠いが。

「レジュメ、足りねえ」

「其処は気合で乗り切るしかないな」

「……B,いや、Cならいけるか」

「それだけあればな。問題はこっち、ジェンダー論だ」

「……まさか誰も出ていないとは」

「あまりにも出席率が悪過ぎて途中から出席の取り方を変えたとか」

「……それ、もう詰んでない?」

「噂が真実なら、な」

「まあ、必修系じゃないから最悪なしでいいか」

「語学は?」

「英語は気合いだ。第二は持ち込み可だけどどうする?」

「任せろ。この前、それに備えてフランス人の知り合い(ファン)に一枚絵と引き換えに手伝いを頼んでいる」

「……え、ええ? いや、でも、俺はそれご相伴にあずかれないだろ」

「親友を見殺しにするかよ。二人で持ち込んだことにすれば行けるだろ」

「い、行けるかそれ?」

 という具合に真面目に勉強、もとい上手くやる方法に全力を尽くすのが私立文系を生きる秘訣である。そして、本当にひどい話であるが、

「○○先生の講義、確か××先輩がゼミ生だ」

「つまり、全出席か」

「ああ」

「先輩! ××さんと友達でしたよね!?」

「まあ、この時期だけな」

「……ジュース一杯」

「ラーメン」

「……くっ、背に腹は代えられないか」

 この時期、真面目な学生は急激に『友達』が増える。大体、彼らも辟易しながら対応するのだが、たまにぶちぎれて大惨事になることもある。

 まあ悪いのは全部普段サボり倒している連中である。

「さて、残る問題は――」

「……学生殺し、持ち込みなしのテストだな」

「ああ。どうする、キョウ」

「決まってんだろ」

「だな」

 二人は即座に決断を下す。諦める、つまり端から捨てれば無傷と言う論理である。まさに無敵の戦術、この繰り返しが僕らの知能指数を低下させるのだ。

 今更詰め込むほどの時間はない。厳密にはまだまだ時間はあるがやる気が出ない。ならばもう徒手空拳、裸一貫で勝負する。

 大体は撃沈するが、稀に適当に書いた文章が刺さることもある。そのわずかな可能性、自らの才覚にすべてを賭す作戦である。繰り返すがほぼ散る。

 ちなみに、やり過ぎると必須単位でなくとも単純に単位数自体が足りなくなるため、多用は自らの命を縮める行為となる。

 すでに僕もキョウも、そこそこ後がないのは内緒だ。後期の自分に期待。

 私立文系の大学生が唯二頑張る期間の一つが、今である。


     ○


「……あれ?」

 僕は前期期末テストに挑んだ。裸一貫で持ち込み不可のテストと戦い微塵もわからず無残に散った、その記憶はある。

 しかしなぜ、晴天より降り注ぐ灼熱の陽光とコンクリートジャングルが蓄えた炎熱にサンドイッチされながら、釣り堀にいるのか、これがわからない。

「来てますよ」

「……?」

「アタリが」

「むおッ!? お、重い、な、なんて生命力!」

 強烈な手応えが僕を現実に引き戻す。忌まわしき記憶と共に。


 時は少し遡り、二限の時間に行われたテストを終え、僕のテスト期間はこれにて終了となった。酸いも甘いも経験し、僕はまた一つ階段を登ったのだ。

「……さすがにやばい」

 留年への階段を。

 小中高と別に褒められた生徒ではなかったが、それでも出された宿題は一応やっていた。比較的真面目な方だったのだが、それは学校特有の拘束力あってのことだったのだろう。いやまあ、高校の時は半分拘束力なんてなかったけど。

 色々あったから。大したことじゃ、ないけれど。

 今考えるべきは後期の自分。前期と同じノリで生きていればきっと、三年は大変なことになる。英語はまあ、振り分けの段階で最低に近いクラスを引いたため問題なく、第二も先生が面白がってくれたおかげで助っ人作戦は上手くいった。

 が、次からは禁止事項に盛り込まれるそうで、あの搦手はもう使えない。

 シンプルに単位が足りない。今回ギリ行けたと思っている単位がギリ行けていなかった場合、さすがに覚悟を決めねばならないかもしれない。

 親に土下座する覚悟を。

「島崎さん」

 そんな中、構内のベンチで天を仰ぐ不審者である僕に声をかけてきたのは、

「……ああ、時田さん。おつかれー」

 時田真琴であった。

「お疲れ様です。テスト、どうですか?」

「……まあまあ、スタンダード」

「ぷっ」

 このネタわかるんかい。この子が笑う姿、よく考えたら初めてかもしれない。前やらかした時は気まずいと思っていたけれど、その後も普通に呼び出されたし特に詰められることもなかった。今じゃ以前の通りの距離感である。

 友達未満、知人以上、くらいか。

「私は先ほど終わりました」

「俺もそうだよ」

「では、祝勝会でもしましょうか」

「……俺、たぶん勝ってないけど」

「では反省会を」

「ちなみに時田さんの出来は?」

「……優勝、ですかね」

「そりゃご立派」

 友達未満、知人以上の時田さんはどうやら、忙しいにもかかわらず期末試験を全クリした模様。バイタリティがね、違うんですよ。

 生き物としての差を感じます。

 その後僕らは祝勝会と称し、またもラーメン屋に来ていた。ここではまだ記憶がある。訪れた店は我らが愛する市ヶ谷モンキーパークの最寄りにある『家』、文字通り家系ラーメンの店である。

 家系ラーメンとは横浜の吉村屋を源流とし、枝分かれしていったラーメン界の一大ジャンルのことである(一部過激派は店主の修業先であったラーメンショップこそが源流と主張する)。豚骨醤油に中太麺、チャーシュー、ホウレンソウ、海苔、最後に鶏油(チーユ)をひとつまみ、これが家系ラーメンのスタンダード。

 味変が出来るのも嬉しいところ。

 しかし、家系の真骨頂は別にある。

 それは――

「「ライス、大盛りで」」

「あいよー」

 このラーメン、凄まじいほどに白飯との相性が良いのだ。ラーメンライスと言うのは一部界隈で持て囃されているが、個人的には健康バランスの観点からも炭水化物過剰であり、おすすめしない。ただでさえ脂質も多いのだ。

 そもそもラーメンとライスに本来シナジーはない。粉物をおかずに白飯を喰らう一部地域の人々が如く、ノイジーマイノリティでしかないのだ。

 だがしかし、家系と白飯は違う。あとついでに富山ブラック。

 まるで白飯を食べるために創り上げられたかのような圧倒的な塩分。濃度こそ今どきのラーメンでは珍しくないが、時代背景を鑑みれば当時では濃度も圧倒的なものがあっただろう。まあ、塩分の前では影も薄いが。

 塩と白飯のシナジーを今更説明する必要はないだろう。塩むすびは一種の芸術、おそらく人類最古の最強コンボであったと思う(無学無教養)。

 さすがに白飯と食べるために開発された歴史的背景を持つ富山ブラックには一歩劣るものの(本物の富山ブラックは桁が違う。塩分の。本物はメンマで『刺す』のだ。食した者だけがわかるお話である)、家系も白飯がセットなのは疑いようがないこの世の真理。ひたひたにスープを吸わせた海苔と白飯の相性は神の領域。

 僕も初めて食べたラーメン専門店は地元の家系だった。○番ラーメンの味噌、と言う名の味のしない野菜ばかりを食べさせられていた僕にとって、家系との出会いは衝撃的であった。天地がひっくり返ったと言っても過言ではない。

 愛ゆえに長々と語ったが、とにかく僕は家系が大好きなのだ。

 たぶんみんな好きだろう。嫌いな人いるのかな。

 しかし、

「……ぐっ」

 この女、やはり只者ではない。ここは学生街の家系ではよくある白飯おかわりし放題の店、当然、僕らはおかわり前提にペース配分をする。

 開幕、この時田真琴、備え付けの高菜だけで一杯の白飯を半分以上始末したのだ。高菜だけで、大盛りの白飯を半分も、である。

 そして平然と、当たり前のような顔で着丼した瞬間、少量のスープと共に白飯をかっ喰らい、瞬時に白飯を消し飛ばした。

「~~~っぅ!」

 化け物め、と僕は顔を歪めた。僕もそこそこ食う方ではあるが、この店でのレコードは三杯が限界。それ以上はラーメンの方が持たないのだ。僕らが頼んだのは並ラーメン麺固め脂多め味濃いめである。この並でどれだけイケるのか、これが男子学生における『家』での戦いなのだ。キョウは三杯と小ライスでスープが底をついた。僕も限界まで腹を空かせたが、結局ラーメンが底をつき三杯に終わった。

 だが、この女はあろうことか掟破りのラーメンをほぼ消耗せずに一杯を終わらせたのだ。何食わぬ顔で、何てことしやがる、と僕は戦慄する。

 其処からはもう圧巻。ラーメン相手は女子にのみ許された可愛らしいちびちび食いをしながら、隣の白飯は江戸の民もびっくりの豪傑食いを披露する。

 僕もつられておかわり連打。この前の『豚』では後れを取ったが、家系には僕も一家言ある。幼少期に受けた衝撃、自分をラーメン好きにしてくれた恩返し、この勝負は負けられない。男の子の意地を見せる。

「「おかわり!」」

 ラーメンの残量には大きな差がある。ここはもうやるしかない。まともに勝負すれば負ける。僕は決心する。大きく息を吸い、『家』の匂いを鼻腔から気道、肺へと取り込む。そして、白飯だけを喰らった。

「ッ!?」

 初めてあの時田さんが顔を歪めた。かつて僕ら人類は知った。飲食店のダクトから放たれる匂いで白飯を喰らうことが出来ることを。偉大なる先駆者の後を、僕は征く。二度も陰キャがお洒落女子にラーメン屋で敗れてたまるかよ。

 僕は勝つ。強い奴に勝ちに来た。

「おか、わりィ!」

 そして、記憶が途切れた。


 釣り堀に来た理由はたぶん、腹ごなし。限界を超えた僕を引きずりいつもの外濠ベンチへ。その後何故か暇を持て余した彼女に連れられ釣り堀、と言う流れであったと思う。正直自信はない。何せ意識がもうろうとして、ね。

 ドカ食い気絶部って本当にあるんだね。

「今まで何度も上を通ったけど、初めて来たわ、ここ」

「私もです」

「まあ、最寄りみんな飯田橋だもんなぁ。市谷キャンパスと言いつつ」

「私は市ヶ谷ですけど」

「へえ、西東京住み?」

「いえ、都営新宿線で東です」

「と、都営新宿線、だと」

「はい。あの誰が使っているのかわからない都営新宿線です」

「……なる、ほど」

「下宿先は親が勝手に決めていたので」

「あ、こっちの人じゃないのか」

「……まあ、はい」

「出身は?」

「……石川県です」

「え!? 俺と同じだ。知らなかった」

 まさかの同郷。驚き桃の木である。

「高校は?」

「二水ヶ丘です」

「へえ、頭いい。そりゃあテストも優勝するわなぁ」

「文系は真面目かどうかが全てだと思いますが。それに同じ大学ですので」

「まあ、それもそうか」

 学校的にもおそらく接点はない。と言うか、まあ、僕と接点があるわけがないのだけど。何せ半分、高校に通っていないからね、僕。

 だけどあんな田舎にこれだけのバイタリティを持つ子が生まれるんだな、とは思う。食事はさておき、アニメ制作なんて並大抵の根性じゃ不可能だ。

 今のSNS社会のおかげである種あった都会と田舎の精神的壁は少しだけ崩れた。やろうと思えば知識を集め、人を集い、挑戦できる時代である。

 それでもやる者は多くない。

 挑戦者とはそれだけ貴重な存在であるのだ。

「アニメ制作は高校から?」

「はい。高校の美術部に入って絵を勉強しながら仲間を探したのですが、高校にはおらず一人手探りでアニメーションを作っていました」

「時間かかったろ?」

「ですね。最初の作品は本当に拙くて、SEも全部フリーでしたし……それでも公開したら同世代の仲間が出来、其処から本格的に活動を始めました」

「見たよ。SFの。VRのヘッドセットを装着するところから始まる奴」

「ど、どうでした?」

「いや、普通に格好良かった。もちろん、年相応なところはあったと思うけど」

「……です、よね」

「あ、いや、良かったんだって」

 何故か消沈する時田さん。こういう時に釣り堀の鯉も空気を読むのか、ぴたりと当たらず気まずい空気だけが流れる。

「挑戦したこと自体が素晴らしい。月並みだけど、俺はそう思う」

「……」

「創作は勇気だ。自分の妄想を世の中にさらけ出すんだから……そりゃあ大変なことだろ。どんなジャンルでも、そうだ」

「……そうですね」

 どの口が言ってんだろう。自分で言っておいて、笑えて来る。だけど嘘は言っていない。創作し続けるのには勇気がいる。

 それが砕けることもあるだけで――

「将来はアニメ監督?」

「そのつもりです」

「展望をお聞きしても?」

「一度アニメ制作スタジオに所属し、その後に独立するつもりです。全員の気が変わらなければ、今一緒に頑張っている同じ志を持つ者たちと」

「高校からの?」

「はい。一度もリアルで会ったことはありませんが……仲間です」

「……本当に、時田さんは凄いなぁ」

 スキルがある。将来へのロードマップも現実に即している。もちろん並大抵の努力で到達できるものではない。アニメ監督の枠など簡単に手に入るものではないから。上は詰まっている。中堅も虎視眈々とその座を狙う。下からは彼女のような者たちが突き上げ、素人考えでも大変な挑戦だ。

 だけど、彼女には確固たるスキルと仲間たちがいる。すでにいくつも作品を世に送り出し、それなりの知名度がある。きっと、上手くいく。

 ただ妄想を思い浮かべるだけの甘ちゃんとは、違う。

「君の作品、俺は好きだよ。何でか、とても懐かしい気がするんだ。あんまり物語性の薄い作品は好きじゃないんだけど……何でだろうなぁ」

「……」

「俺なんかに言われても困るか。相変わらず一言多いし」

「いえ、そんなことはありません」

 今日はとても不思議な日だ。テストに敗れ最悪の心境であったと言うのに、いつの間にか釣り堀で釣りをしているのだから、人生はわからない。

 ただ一つ、わかるのは、

「私も島崎さんの逆張り、好きですよ」

 二度目の、彼女の笑顔が何故か、とてもエモくて目に焼き付いたと言うことだけ。

 ただ、それだけ。

「俺、今日逆張ってた?」

「こんな暑い日に釣り堀へ来るのは逆張りでは?」

「……俺じゃねえ」

「あはは」

 普段笑わない人が笑うのは結構ガツンと来るな。

 家系みたいに。なんつって。

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