第5話 うぃんうぃんな関係
「ど、どど、どういうことですか?」
あまりの出来事に、私は口がまわらず、どもってしまった。
「言葉の意味ですよ」
桐谷さんは相変わらず気持ちいくらいにいい笑顔を見せてくれる。
「あなたは私に対して、あらゆる金銭的な責任を負うことができない。一方、私はこのままでは生活もままなりません」
要は支払い能力がないと言われているので、私は口を噤むしかない。
それに、桐谷さんの右腕のギプスは確かに生活に支障をきたすものだ。
「そこで提案です」
桐谷さんが左手の人差し指をピンと伸ばして見せる。
「お医者様には、全治三ヶ月と言われています。そこからリハビリも兼ねて、六ヶ月で完治らしいです」
「ろ、六ヶ月ですか」
一ヶ月くらいで骨ってくっ付くものだと思ってた。
今が五月だから、ギプスが取れるのが七月で、完治が十月ということになる。
その間、桐谷さんは不自由な生活を送ることになる。
「はい。だから、その間だけ、私の身のまわりの世話をしてください」
「私が、桐谷さんのお世話ですか……」
「そうです」
まるでもう決定事項であるかのように頷く桐谷さん。
確かに、賠償金代わりに自らを差し出せばいいのだから願ってもいないことだけど、私にも譲れないものがある。
「あの、私もそうしたい気持ちはあります。むしろ、それで賠償金を払わなくて済むのなら、お願いしたいくらいです。でも――」
「でも?」
「桐谷さんがどこに住んでいるか分かりませんが、そこからアパートを毎日往復していたら私、大学もアルバイトも行けなくなってしまいます」
桐谷さんと顔を向かい合わせ、まっすぐに思いを告げる。
「こんなことを言うのは、本当におこがましいことだと思います。でも、私は大学にも行きたいし、そのためのアルバイトもしたいんです」
ずっと辛い思いをしてきたけど――でも、やっぱり、好きなんだ。
ファッションの勉強も、コンビニのアルバイトも、始めた頃は楽しかった。
「警察への訴えを取り下げてくれたことは、本当に感謝しています。治療費は私がぜんぶ負担します。できる範囲でなら、桐谷さんの要望にも応えます。だから、お願いです」
私は座っていた状態から後ろに下がって桐谷さんとの間の距離をあけると、頭を下げた。
「大石さん……」
あまりにも自分勝手で、呆れられるどころか今からでも警察を呼び戻されたって文句は言えないけど、それでも私は失いたくない。
「大石さんにとっては、それだけ大事なことなんですね」
「……はい」
沈黙が流れる。
桐谷さんがどんな表情をしているのか気になったけど、私は頭を上げるわけにはいかず、ただ反応を待つことしかできなかった。
「羨ましい」
――え?
その言葉に思わず顔をあげてしまった私に、だけど桐谷さんはいつもの微笑みを浮かべていた。
何度も見せられた笑みなのに、さっきの言葉を訊いた直後のそれは、どこか上辺だけの、仮面のようにも見えた。
「では、こうしてはどうでしょうか?」
私が引いた分、桐谷さんが距離を詰める。
「一緒に暮らしましょう」
「……はい?」
言っている意味が分からない。
「つまり、共同生活です。大石さんが一緒にいてくれれば、私の世話もできますし、大学もアルバイトも、私の部屋から行けば時間をロスすることもありません」
「え、でも――」
「もちろん、衣食住は保証します。家賃はいりませんし、食費も私が出します。アパートにあるものも全部、業者さんに頼んで運んでもらいましょう。そうすれば、アパートの家賃も払わなくて済みますし、その分、アルバイトも夜遅くまで毎日する必要もなくなります。勉強にも集中できますし、まさにいいこと尽くしです」
「ちょ、ちょっと、待ってください。そんなに色々言われても困ります」
なぜか活き活きと話す桐谷さんを、私はどうどうと宥めた。
「そりゃあ、私にとって、いいこと尽くしですよ。でも、桐谷さんの生活に干渉することになってしまいますし、お金だって負担してもらうことになりますし、そんなの悪いです。お受けできません」
「どうして好条件なのに断るんですか?」
首を傾げる桐谷さんに、ああこの人は心からいい提案をしたと思っているんだと、私は思った。
確かに好条件だ。
それどころか悪いところなんてひとつもない。
何よりも家賃と生活費が削れることと、勉強の時間が確保できることが大きい。
いや、大きすぎて、逆に怖い。
桐谷さんのような良い人が、何かを企むはずがない。
企んでいたとして、こんな取り柄もない私を騙して得になることなんてない。
金をむしり取ろうとしても、私は無一文だ。
「えっとですね。人には罪悪感というものがあります。そして私は、桐谷さんに対して落ち度があります。上からなんて見下ろせませんし、対等でもありません。そんな私に、よくしてもらえるのは本当に嬉しいです。でも、私は受け取れないんです」
「つまり、申し訳ない気持ちになる、ということですか?」
「そう、ですね。罪人である私は、得をしちゃいけないんです。恩を受けさせてもらっただけで充分なんです」
「でも、それだと私は不便な生活を強いられることになります。大石さんは、私がひとりでお風呂にも入れず、着替えもできず、料理もできず、果てには野垂れ死んでも仕方がないと言いたいんですね」
「それは……」
あまりに極端な考えではあるが、その通りだ。
自分を貫けば、桐谷さんは最低限の生活基準すら保つことができなくなる。
桐谷さんは警察の介入を断り、お互いの話し合いで決めると言ってくれた。
それなのに、私はそんな桐谷さんの厚意に甘え、自分を優先させてしまっていた。
それは信念とか矜持だとか、そんなカッコいいものじゃない。
こんなのは、ただのわがままだ。
提案自体があまりにも突拍子がなく、そのために否定してしまったけど、こうやって冷静に考えれば、どっちにとってもいい話だ。
デイケアのように日中だけの介護だけでは、二十四時間右腕が使えない桐谷さんのフォローはできない。
そのためには、誰かが桐谷さんと生活を共にする必要がある。
そして、その役目を追うのは――私だ。
「……甘えていいんでしょうか?」
「え?」
「あまりに好条件すぎて、罰を受けなくちゃいけない私が得なんかしていいのかって、やっぱり思ってしまうんです」
「罰……ですか」
「はい」
「う~ん」
桐谷さんが考え込むこと数秒。
「じゃあ、やっぱり賠償金を払ってもらいましょうか」
「へ?」
笑顔の桐谷さんに、私はさーっと血の気が引いた。
提案を受けなかったから、やっぱりお金で解決させる方法に変えられてしまったのか!?
ああ、だったら受ければよかったのに私の馬鹿!
「あ、あの~」
今からでも受けますと言え、私!
そう自分を叱咤し、私は頭を下げてでもお願いしますと言おうとしたところで、
「私が大石さんを世話役として雇います。住み込みです。給料は月払いです。その給料を、賠償金として毎月、私に支払ってください。そうすれば、私たちは雇用関係で結ばれているだけで、それに対して、大石さんが負い目を感じる必要もありません。つまり、うぃんうぃんの関係ですね」
そう言って、桐谷さんが左手の指を三本立てて見せた。
おそらくWin-WinのWを表しているのだろう。
だけど左手だけだから、うぃんだ。
「うぃんうぃんですか」
「うぃんうぃんです」
そう言って、私と桐谷さんはお互いに笑い合った。
笑って、私の心は晴れて、そして思いを決めた。
「分かりました。では、よろしくお願いします。雇い主さん」
「はい。よろしくお願いしますね。世話役さん」
そして私は、右手の指を三本伸ばし、Wをつくって見せた。
こうして私と桐谷さんは、うぃんうぃんな関係になったのだった。
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