第4話 欲しいのはあなた
今の私はまるで夢遊病のように、気がつけばドアを前にしていた。
そのドアは屋上に通じていて、患者の憩いの場のひとつとして庭園が設けられている。
そのドアを開けるため、ノブに手を伸ばす。
「大石さん!」
その声に、私はまるでノブに触れようとして静電気にやられたかのように、ビクッと体を震わせた。
そのまま手を引っ込ませ、肩越しに振り返る。
私がのぼってきたであろう階段の踊り場にいたのは、
「桐谷さん……」
左手を太股につき、さっきまで感じていた淑やかな印象を消し去るほどに、ぜぇはぁと息を荒げ、背中を丸めていた。
まっすぐだった髪が、頭を振ったように乱れている。
「どうして……」
「また、どうして――ですか?」
「え?」
呼吸が落ち着いたのか、桐谷さんが背筋を伸ばし、私を見つめる。
「大石さんこそ、こんなところまでどうして来たんですか?」
「それは……」
言えばいいはずなのに、言えない。
「外の空気を感じたくて」
「一階からわざわざ屋上までですか?」
分かりきった嘘を、桐谷さんが笑みで返してくれる。
「それよりも、私と少しお話しませんか?」
桐谷さんが階段を一段のぼる。
「警察のことですか?」
「やっぱり、聞こえていたんですね」
少し困ったような笑みを浮かべる桐谷さんに、今度は私も笑って見せた。
だけど、私が見せた笑い顔は、自分を嘲るような、ひねくれた笑みだった。
「私、罪を償えないんです」
「え?」
「桐谷さんに、ひどい怪我を負わせてしまいました。私、これからどうなるんでしょうか? 逮捕されて、刑務所行きでしょうか? それとも、賠償金を払わないといけないんでしょうか? それとも、それとも……」
「大石さん?」
桐谷さんが階段をゆっくりとのぼってくる。
「でも、私、そんな大金、持ってないんです。生きてるだけで精いっぱいで、でも、だったら何のために生きてるんだろうって思うようにもなって……好きなことをやりたくて大学は入ったのに、全然好きなことができなくて……その好きなことも、好きになれなくなってきて……毎日まいにちアルバイトでお金を稼がなくちゃいけなくて、そればっかり考えて……私、もう……なんのために……そう思ったら、私なんてもう生きていたって――」
顔を俯かせ、両手で覆い隠す。
それでも吐露した感情は止まることなく、私の口を動かす。
ずっとひとりで抱え込んで、誰にも相談できなくて、口にすることすらなかったこの思いを、見ず知らずの――それどころか自転車でぶつかって怪我をさせてしまった相手に話している。
「がんばりましたね」
目の前が陰ると同時に、私は引き寄せられ、そして抱きしめられた。
顔を覆っていた手をどかすと、そこに映ったのは、ギプスだった。
「大石さんはずっと、がんばってきたんですね。えらいです」
桐谷さんの左手が背中にまわされていて、私を抱き寄せる。
片手だから、振りほどこうと思えば簡単にできるのに、私はしなかった。
その手が、子どもをあやすように、私の背中を撫でてくれていたから。
ずっと、がんばってきた。
がんばって、生きてきた。
誰のためじゃない、自分のため。
だから、がんばってるなんて、そんなことは誰かに向かって言うことじゃない。
生きることは当たり前で、だから当たり前のことを誰も褒めたりはしない。
私がんばってると言ったところで、みんなもがんばって生きているのだから。
それでも、こうやって誰かにがんばっていることを認めてもらえて、それがただた、嬉しくて……。
「う、あ、ああ、ああああああああああああっ!」
決壊したダムにように、私は涙が涸れるまで流し続けた。
その間、ずっと桐谷さんは私を抱きしめ、やさしくあやしてくれた。
「うう……ぐすっ……」
「落ち着きましたか?」
「は、はい」
流しに流した涙がようやく止まり、しゃくり上げながらも落ち着くと、桐谷さんがそっと離れる。
「では、まず結論から話しますね。これ以上、大石さんが余計な不安を感じないように」
結論、そして余計な不安を感じさせないように――ということは、早速支払い金額を告げられるのだろう。
「お、お幾らほどになるのでしょうか?」
「ふふふ」
そう訊ねる私に、桐谷さんが声を上げて笑った。
笑うときの所作や声まで上品だ。
「お幾らほどになると思いますか?」
どこか意地悪な笑みに、私は驚いた。
桐谷さんから感じた茶目っ気に、だけど私は気が気でなく、おどおどしてしまっていた。
「やっぱり、い、い、いち……いちお……お……おお……」
「一億?」
「うぅ……!」
まるで心臓を鷲掴みにされたかのような痛みに、私は思わず胸を押さえた。
「だ、大丈夫ですか!? 危ないですから、座ってください」
背中に手をあてがわれ、階段に座るようすすめられる。
私は階段を一段おりて座ると、その隣に桐谷さんが座ってきた。
そして、私の顔を覗き込むように首を傾げてみせた。
その際、黒髪を耳に掻き上げる所作はあまりに自然で、ゆるいウェーブがかった髪を肩よりも少し長い位置で揃えている私には真似できない動きだった。
「あの、気になっていたのですが、どうして一億なんて大金が出てきたんですか?」
そう言われ、私はスマホを取り出し、検索サイトのアプリをタップした。
最後に見ていたページが表示される。
それを桐谷さんにも見えるようにし、
「このサイトもそうですけど、他のサイトでもすごく多額の賠償金が支払われたって書いてあるんです。それに、私……保険に入っていなくて……」
「ああ、だからなんですね」
納得したのか、桐谷さんが何度も頷いて見せる。
「ダメですよ。保険には入っておかないと」
「うう、すみません」
「それに、これは相手が寝たきりになったとか、そういった継続的なケアが必要な事態になってしまった最悪のケースですから、あまり参考にはしないほうがいいと思いますよ。ネットやニュースなんて、極端なものしか取り上げませんから」
「は、はい……」
「保険も、何もなければそれが一番で、無駄に感じてしまうかもしれませんけど、いざと言うときのために必要ですから、やっぱり入っておくのが無難だと思います」
なんだろう。
叱られているはずなのに、叱られているような感じがしない。
これは、そう――諭されているのだ。
「でも、お金が勿体なくて……」
「う~ん。大石さんは、苦学生……なんですよね?」
「苦学生……と言われれば、そうなのかもしれませんが」
他の学生がどんな生活をしているのか知らないから、基準がそもそも分からない。
こんな気持ちを抱いていても、もしかしたら私は恵まれている方なのかもしれない。
私が同じ学生に自分のことを話さないように、他の学生も私には話さない。
楽しそうにキャンパスライフを送っているように見えて、実はとんでもない苦労をしている学生だっているのかもしれない。
そう思うと、私は自分を金銭面で底辺の人間とは断定できない。
「よければ、聞かせてください」
「え、でも……」
「袖触れ合うも多生の縁――と言うじゃないですか」
「袖どころか自転車と生身ですし、それに意味が全然違う――」
「いえ、こうしてぶつかりあったのも何かの縁です。だから……」
私の顔を覗き込む桐谷さんの瞳に、私は引き込まれるような魅力を感じ、
「楽しくもないですし、笑えもしない話ですよ」
「はい」
気がつけば、私は大学に入学してからのことを赤裸々に語っていた。
「――以上が、今日までの私のお話です」
「そうだったんですね。今日までずっと、大変でしたね」
「そんな大変なんて……それは桐谷さんの方です。私のせいで、利き腕が使えなくなって、生活だって不便になってしまいますし、お仕事だって、もしかしたら、それが原因でクビにでもなったら――ああ、やっぱり私のせいで、ごめんなさい!」
「落ち着いてください。お仕事の方は大丈夫ですよ」
「そうなんですか?」
「はい。でも、そうですね……生活面はやっぱり不便になってしまいますね」
困ったように笑う桐谷さんに、私はやっぱり申し訳なくて、もう穴があったら入りたいし、なんなら土をかぶせて埋めてほしいくらいだ。
「そうだ」
右手が使えていたら、ぽんっと両手を合わせていただろう。
そんな妙案を思いついたような満面の笑顔を浮かべる桐谷さんに、なぜか私は予感がした。
ここから、私の――いや、私たちの関係が、がらりと変わる、と。
「お金はいりません」
「え?」
お互いに顔を見合わせ、見つめ合う。
「欲しいのはあなたです」
「……」
私はしばし言葉を失い、
「え?」
と真顔で返すのだった。
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