◇出奔

 男には若くて美しい妻と、今年で七歳になる娘がいた。

 誰もがうらやむような理想の夫婦と近所ではもてはやされていた。

 夫婦仲睦まじく散歩するさまもまた、絵にかいたような理想像であり、男は幸せの絶頂にあった。


 娘もまた母親に似て美しかった。

 よどみのない輪郭が頬から顎にかけて走り、それは秀麗な顔立ちに繋がっていた。

 黒曜石のような両の瞳は大きく、綺麗な曲線を描いて落ちる二重瞼から伸びる睫毛の合間からは星が覗いているようだった。この子の将来が楽しみだね、と周囲の人々は男に言った。


 それが昨年の暮れの事だった。



 妻が娘を連れて家を出ていったのは年が明けてすぐの事だった。

 離縁である。

 理由はなんのことはない、男に甲斐性がなかった、ただそれだけのことだった。


「燃え尽きた、真っ白に」


 男の職業は小説家だった。

 売れもしない、そもそも注文も来ない小説を、日々頭のなかでだけ書き上げる彼に、甲斐性などあるはずもなかった。

 あら、それじゃあなたヒモね――どこかの大統領夫人が口にしそうなことを、近所に住む大家のばばあが言っているような気がした。


 いや、待て。おれはヒモじゃないぞ。そう言って男は四畳半一間のアパートを飛び出す。


 そして築二十五年をこえる安アパートの裏庭へと駆けていった。

 そこに置いてある植木鉢の、おそらくは何も植わってはいないであろう土砂だけが詰め込まれたそれを一つ一つひっくり返しながら、そうだこれがヒモじゃないかと男は安堵する。


 彼の目の前に現れたのは黄色をした軟体生物だった。

 ヒモムシ、と呼ばれるそれは、よく夜道などに落ちているのを酔っ払いが拾い上げて、その正体に感づくや「ぎゃあ」と悲鳴を上げて路肩に放り出され、そのまま息絶えてしまうほどにか弱い生物のことである。


 ほら、気になったあなたもそれこそ庭の片隅をほじくり返してみるといい。きっと、黄色の軟体生物がその先端についた口吻をパクパクとさせているのが見えてくるはずなのだから。箒でさっと掃いてしまえば、それで息絶えてしまう程度の存在。それがヒモムシなのだ。


「これがヒモやろがぁ!」


 そう言って大家のばばあの目の前に、死骸となったヒモムシを放り出したことで、男は安アパートすらも追い出される羽目になった。


 それでいい、それでいいのだと男は思った。

 この四畳半は俺には広すぎるのだ。どこか俺に見合う場所があるはずさ。斜に構えてアパートを出てゆく男の傍らには使い古しの鞄がひとつ。詰まっているのは夢と絶望だった。

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