◇真っ向勝負のリーガル・レッスン

 小説を書こう――という考えにタナカが至ったのは、きわめて自然な流れであった。

 それは創作に行き詰まった彼にとってひとつの打開策であり、またあるしゅの防衛本能が見せた最後の開拓地でもあった。



 ひとえに「書籍」を世に出したかったのだ。

 それが目的。

 だから内容など何でもよかった。

 自身の日記でも何かに対する評論でも、書けることならば何でもよかった。

 このたぎる思いの、吐き出し口の受け皿は、書籍であるべきだと信じてやまなかった。



 ただ、できれば小説がやりたいと思っていた。

 心地よい空想の世界にのみ生きる価値を見いだしていたタナカにとって、それは自己の証明につながることにほかならなかった。



 頭の中に無数に浮かんでは消える世界観の断片――

 それらを書籍として残しておきたいと願ったタナカの気持ちを、果たして誰が非難できよう。


 しかし、一体何ゆえにタナカが創作という名の界隈へ行きつくことになったのか。

 まずはそのいきさつを記さねばなるまい。



 それは極めて哲学的な問いに始まり、そして裏返って同じ場所へと収斂するメビウスの輪である――という表現は、わきまえのない通人の浅知恵であろう。物事はもっと平易な言葉で説明されるべきなのだ。



「何かを発表したいというのは、ひとえに自己顕示欲の表れだ。確かに、作家になりたいと思っていた時期もあった。思えば青臭い日々であった。あの頃は本気で俺ならばなれると思い込んでいたものだ。ああいうのを青春というのであるならば、俺は確かに青春を謳歌していたといえるのかもしれない……」


 そんなことを一人で考え続けた。



「――で、結局のところ何がしたいのだろう」


 そんなタナカの疑問に答えたのはネットワークだった。


「同人誌が良いんじゃない」


 タナカの率直な問いかけに、ネットワークの「向こう側」はそう返してくるのだった。

 果たして、それは彼にとっては未知の分野であり、なぜか甘美な誘惑にも思えた。

 そのときから同人誌への妄信的な追随が始まった。



 そういうわけで、タナカは同人誌を読まねばならないことになった。

 そうでなければ同人誌を作ることなどできないように思われたからだ。

 作るならば少しでも良いもの、売れるものに仕上げたかった。

 タナカは達成欲求だけは人一倍だったので、そういう努力は惜しまなかったのである。


 とにかく――市場の調査をするべく、ネットワークで得た知識だけを元手に、慌てて電車に飛び乗り、同人誌の即売会が開催されている会場へと向かった。そこは東京流通センターと書いてあった。



「同人誌をください」


 たまたま目に留まった卓の前で、タナカはそう言った。

 同人作品の即売会というやつは、大抵の場合どこもだだっ広いホールで行われているもので、そこには数々の出展者がひしめき合っているのだった。


 どこから調査すべきかという考えはそのときのタナカにはなかった。

 だから手っ取り早く目についたところで訊いてみたのだった。


 その卓に座っていたのは女性で、しかも若かった。

 自分より年下だろうかとタナカは考えていた。

 射干玉ぬばたまのつややかな黒髪を丁寧に切りそろえた髪形は古風で、着ているものもまたやや野暮ったさを感じさせるものの、でもそれがまた無性に可愛らしく、よく似合っているように思えた。


 とにかく、こういう女性がガールフレンドだと嬉しいなとタナカは思ったが、すぐその隣に座っていたチリチリの天然パーマ頭で、しかも月の裏側のようなあばただらけの顔をした〈進撃の巨人〉みたいなでかい女――であろうと思われた――が、前にしゃしゃり出てくるなり、「これ新刊なんです」と押し迫ってきた。


「ええっと、これが同人誌?」


 しどろもどろに応答するタナカ。

 するとその〈巨人〉は、そうですこれが今回の新刊です。三日前にぎりぎり入稿して今朝刷り上がったばかりなんですよォ――と、舌足らずな声でまくし立てると、島中しまなかから出てこようというのか、ダッシュで駆けていった。


 卓内に一人残った〈黒髪〉が、

「わざわざうちに来てくれてありがとうございます」と話しかけると、タナカはもうそれだけでどぎまぎしてしまって、それが社交辞令にすぎないと分かっていても何だか浮き足たつのを止められなかった。同人誌即売会、最高。


「いや、これは会社の取材みたいなものでして。それで買うだけなんです」


 タナカは慌てて取りつくろった。

 同時に、〈巨人〉が無料配布のペーパーの束を持ってタナカの元へ進撃してきた。島中からここまでわざわざ出てきたのだ。有り難迷惑とはまさにこのことだなとタナカが思っていると、


「これが今回の新刊『超人同盟』で、こっちのが前回の『ムルムル異聞』です。ひょっとしてもう持ってますか」


「いや、どっちも持ってないよ」


 そうタナカが答えると、「じゃあ二冊お買い上げですね」と勝手に決めてしまった。

 袋は要りますかと聞かれたので、いや大丈夫ですと返答してタナカは二冊分のカネを払い、それから後ろ髪ひかれる想いで卓を振り返ると、〈黒髪〉がにこやかに微笑んでいた。


 タナカもぎこちなく微笑み返すと、今度は〈進撃の巨人〉がモナリザの微笑を浮かべたので、タナカは総毛立つ思いがしたのだった。




 帰りの東京モノレール内で、買ったばかりの同人誌をひも解いてみると、中身は何のことはない、恐れたような大それた堅物ではなく、女性らしいイラストに彩られた誌面であった。


 それは、繊細な文体でつづられた詩や、ちょっとした短編小説が掲載されている小さな花園でもあった。これならば安心して読める、そう思った。


 しかし、中身についてはよくわからなかった。

『超人同盟』と云うタイトルは何ぞや――というタナカの疑問はさておいても、要するに彼女たちが愛好しているアイドルユニットだかアニメーションだかについての、まぁ寄せ書きのようなもので、こういうものを仕上げるのは楽しいのだろうな程度のことしかつかめなかった。


 とはいえ、これだけの内容を一つのパッケージにまとめるというのは相応に大変な労力だろう。〈黒髪〉と〈巨人〉のどちらが形にしたのかは定かではないが、タナカにとってはじゅうぶんに感心する買い物であった。



 そんなわけで、同人誌を手に入れるという一世一代の大勝負を経たタナカは、自宅に戻ると「その日暮ひぐらしのなく頃に」というでたらめなタイトルでもって、やおらワープロソフトに文字を打ち込み始めた。


 鉄もキーボードも熱いうちに打つのがいい。

 今日得た刺激をそのまま打ち込むのだ。

 打ち込めば打ち込むほど目の前の壁は崩れてゆく気がした。


 でも、そびえ立つ疑問の壁というものは一つを破壊するとすぐさま次が現れるのが常であって、結局のところタナカは行き詰まってしまった。


 そもそも、どう書きゃあいいんだ?


 こんな根本的な問いかけが、今度はタナカの邪魔をしてくるのだった。

 仕方がないのでタナカはもう一度電車と東京モノレールを乗り継ぐと、東京流通センターへ行った。そこはまだ、即売会開催の真っ最中だった。


「あれぇ、さっきのお兄さん。また来てくれたんですか? 同人誌好きなんですねぇ」


〈進撃の巨人〉は相変わらずだった。

 思わず顔をしかめそうになったタナカであったが、後ろで〈黒髪〉がにこやかに佇んでいるのを見てしまったので、正直に「いや、俺は同人誌が作りたいんです」とだけ答えた。


「なあんだ、そうだったんですかァ!」


〈巨人〉が会場中に響き渡るような大声を上げたので、タナカは気まずくなって周囲に向かって頭を下げた。つまみ出されたらお前のせいだからなと思いながらも、〈黒髪〉が相変わらず自分の方を見て優しく微笑んでいるのを見てしまうと、声を荒らげることもできずに、ただ「ええ、まぁ」と苦笑するしかなかった。


 なので、タナカはできるだけ〈巨人〉には目線を合わせないようにしながら、卓内でかしこまっている〈黒髪〉へと近づいていった。


 彼女もまんざらでもなさそうで、結局のところ近くの喫茶店でお茶でも――というのは〈巨人〉が言い出したのだが――という流れになり、そのまま彼女らに教えを請う形になった。



 そういうわけで、タナカと彼女たちは施設内にある、タリーズコーヒー平和島東京流通センター店にてテーブルを共にしていた。


 といってもしゃべるのはほとんど〈進撃の巨人〉ばかりであって、タナカも〈黒髪〉もただ相槌を打つだけだったのだが、それでも得るものは大きかったように思われた。



「――あの、君の名前はなんていうの?」


 渾身こんしんの勇気を振り絞ったタナカの質問に答えたのは、あろうことか〈進撃の巨人〉だった。いや、お前にはいてないんだが。


「ああ、この子――『モモコ』っていうの」


〈巨人〉は既にため口だった。


「驚き桃の木の『桃』に子どもの『子』ね。ちなみにあたしはシズエ。月にある静かの海の『静』に赤木春恵の『恵』よ」


 なにが「静かの海」だ。

 顔面クレーターの分際で――そうおもったが口には出さなかった。

 月は常に美しく光り輝く方だけを地球に見せて回っている。俺も常に美しいものだけを目に入れて生きていきたいものだ……。タナカは心からそう思った。


 果たして、「モモコ」ちゃんはその外見にたがわず読書が好きなようだった。

 薄めに施した化粧はやはり上品であり、こうして喫茶店の窓辺で文庫本など開いていていたら、もうそれだけで青臭い純文学が一本書きあがりそうなほどに「絵になる」のだった。


 驚いたのはそんな彼女は勤め先が、スナックだかクラブだかということであった。

 タナカ本人に水商売や夜の仕事への偏見はなかったが、それでも意外なことに変わりはなかった。なので、相応の驚きをもって受け止めていると、


「わたし、お客さんを喜ばすのがあまり上手じゃないんです」と返ってきた。


 見た目のせいなのかなぁ……と小首を傾げている。

 訊けば、そんな文学少女モモコちゃんは、やはりお客から、「本読むの好きでしょ?」なんて言われるのだという。


 なぜか。それはもちろん、そういう場にやってくるようなお客たちが彼女との話題に困るからに他ならなかった。


 まるで自分の娘と同じぐらいの可憐な少女――

 もちろんモモコちゃんは成人女性ですが――に向かって、「じゃあこれからホテルへ……」などと切り出せるおやじたちはそう多いわけもなく……当たり障りのない話題でお茶を濁された挙げ句、他の「いかにも遊び馴れているホステスたち」に客を取られてしまうのが常なのだという。


 人の世とはかくも残酷なものだ。

 多様性を重んじる社会が求められて久しいが、世の人々の関心はもっぱら「見た目の分かりやすさ」に特化しているといっていい。


『人は見た目が九割』なんていう本もあった。

 それぐらい、モモコちゃんの職場での立ち位置というのは大きな溝――あるいは壁にさえぎられた僻地に存在していたのだといえる。


〈進撃の巨人〉ことシズエよ、それこそお前がその壁をぶっ壊してやったらどうだ。そう思ったがもちろん口には出さない。



「壁ねぇ……」


 とタナカがつぶやくと、


「『バカの壁』かな……」

「えっ?」

「『ああ、こんな本が流行(はや)ったこともあったねぇ。僕読んでないけど――他にはどんな本読むの?』っていう流れになるのが常なんです」


 とモモコちゃんは哀しそうに一人呟くのだった。


「ははぁ、つまりお客としてやってくるおやじたちは、君と話題を共有できていないわけだ」

「本好きなんだ? あれだ、『世界の中心で愛を叫ぶ』――とかでしょ、みたいに訊かれます」とモモコちゃん。


「ふんふん」

「でも、『それを言ったら元ネタのハーラン・エリスンの方が好きですね』って答えたらそれで会話が続かなくなっちゃうんです」


 ははぁ、さもありなん。つまり――とタナカは切り返す。


「大江健三郎とか、そういうお堅いのを理解しているおやじ……おっと、お客がこないわけだね」

「ええ、まぁ、そういう感じです」

「そりゃあれだよ、ああいう人たちはビジネス書とか麻雀や競馬の攻略法とか――読むとしたらそんなのばかりだろうねぇ。あと、テレビの話題とか。野球とか、どうだろう」


 酷い偏見だなと思いながらも、タナカはそう言って気休めを言った。


「テレビ、あまり見ないです……」


 モモコちゃん、キミはあまりその仕事向いてないんじゃないの――

 という言葉を飲み込みつつ、タナカは必死で彼女のための救済策を模索している。

 隣ではシズエがほうけたような顔をして、おひやの氷をぼりぼりとかみ砕いていた。人が大勢、こちらを見ているような気がした。

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