◇王の眠る島

 岩礁がんしょうに打ちつける波の音が、その部屋を絶えずどよもしていた。

 湿気に満ちた薄暗い部屋だ。四方を囲む壁はてらてらと光り、まるで何かの粘液で濡れているようである。それはぼうっと青白く発光し、室内をほの白く照らし出してもいた。


 ここは〈神勅の間〉と呼ばれている。

 波音がするたびに、磯臭いそくさい風がどこからか吹き込んでくるので、どうやらどこかの海辺らしい事がわかる。相当に古い時代に作られた神殿を思わせる岩屋であり、大広間ほどの面積があった。



「王よ。偉大なるエトナスの王よ。我ら〈島の民〉に勅命を――」


 厳かな声で傅くのは禿頭とくとうの神官たちだ。

 かれらの控える眼前には、一人の人物が玉座と思しき豪奢な椅子に座っていた。


 その人物の下腹部は驚くほど膨らみ、そして突き出ていた。

 長いこと陽の光を浴びていないのか、肌の色つやも悪い。また全身に青いつるのようなものが巻き付き、それによって玉座に縛りつけられているようにも見えた。静かに瞑目している。


 ややあって、静かな声が〈神勅の間〉に響き渡る。

 神官たちが王と呼ぶその声は、一日に数回「お告げ」をする。それが勅命であり、〈島〉の安寧あんねいを維持するための戒めでもあった。


 王の命令は絶対だ。時に、生贄いけにえを差し出すことも命じられるが、神官たちをはじめとした〈島の民〉は何の疑いも持たず、それに従っている。


 生贄。

 なんと残酷な命令だろうか。

 王がその力の源泉としているいにしえの神への供物くもつである。

 そしてそれは、王の血族であっても例外ではない――。


「新たなる王は、御后おきさき様をも贄とされた――」


 神官たちがまことしやかに噂するそれは、つい先月に下された勅命であった。

 無慈悲な王。だが、その力は絶対だ。太古から島を守護する邪神ジール・ズーの力を唯一制御できる、それがエトナスの王と呼ばれる存在なのである。



 俺は王をたおさねばならない――。

 これが、青年の秘めたる野望だった。

 彼の名はユーナス。先日成人の儀を迎え、二十歳になったばかりの剣士だ。これからはエトナス王の臣下として、魔獣から〈島〉を守るために剣を振るう……そういう人生のはずだった。


 だが――。


 王が、彼の母を生贄に選んだことに、青年は納得していなかった。

 邪神ジール・ズーへの供物として捧げられる生贄……。選ばれたかれらがどう扱われているのか、それは知る由もない。だが、もう二度と帰ってこないことだけは確かな事実だったのである。


 だから俺は王を許せない。

 そう思っている。



 〈島の民〉でありながら、戒律にそむこうというユーナスの想いは、誰にも知られてはいけない類のものだ。

 だから、そういう意味では王に近づくことの許される剣士として徴用が決まった時は内心飛び上がって喜んだ。復讐を果たす絶好の場が近づいたからである。彼はいまも日々ひび爪を研ぎ澄まし、機会をうかがっている――。



 その時、可憐な声が背後でした。


「ユーナス様!」


 駆け寄ってきたのは小柄な体躯の娘だった。

 彼女の名はレムリット。王に仕える神官の娘である。

 年の頃は十七、八といったところか。ぬばたまの艶やかな黒髪を浅い位置で一つに束ね、琥珀色の縁取りのされた貫頭衣を帯で止めている。履いているのはガガガ蛾の幼虫の吐き出す糸を編み上げて作ったサンダル。質素な身なりの者が多い〈島の民〉において、かれら貴人は気取ったいでたちだ。


「レムリットか。どうした」

「お父様がお呼びなの。ユーナスも、これから王のもとで働くことになるでしょう? だから、今日はこれから〈神勅の間〉に赴く皆の末席に加わって、勉強をしなさいって……」

「ほほう」


 ユーナスの顔がほころぶ。

 〈神勅の間〉に入れる――それはつまり、王の側に近づけるということを意味していた。王への復讐をもくろむユーナスにとってはまたとない機会が訪れたのである。


「ありがとう、レムリット。すぐに行くと御父上に伝えてくれ」


 ユーナスはきびすを返しながら、湧き上がってくるものを抑えるのに必死だった。

 今の彼は憎悪に満ちた復讐者だ。

 端正な容貌かおが醜く歪んでくるのを自覚する。そんな顔をレムリットに見せるわけにはいかなかった。



〈島〉は常に薄暗い。上空に絶えず渦を巻く暗雲が立ち込めているからだ。外界との交流もまったく、ない。この辺りの海域は海流が激しく蛇行する難所とされており、他国の船が近づく事を許さないのだ。


 仮に近づいたところで……とユーナスは思う。

〈島〉の周囲に生息する魔獣の餌食になるだけだろう。

 海の中には肥大化したあぎとを持つ深海魚が多数生息しているし、仮に運よく浜まで辿り着けたところで、そこは人を飲み込む巨大な二枚貝や、鋭いもりを突き出すことで獲物を捕食する巻貝の縄張りである。〈島の民〉ですらうかつに近づけない、そういう魔境であった。


 そんな〈島〉の中心に、王の座す神殿はそびえ立っている。

 といっても表向きはただの岩窟だ。地下に向かって伸びる階段を抜けた先に、本殿、そして〈神勅の間〉は存在していた。



「王よ。偉大なるエトナスの王よ。謁見賜ります……」


 神官であるレムリットの父が厳かな口調で傅く。

 儀式の末席に加えられたユーナスも、まずはそれに倣った。

 やがて、くぐもった音とともに王の勅命が下される。

 その声は極めて静かであるが、背後に何かのノイズを乗せていた。水の流れるような、そんな音だとユーナスは感じている。


『……次の贄を用意せよ。若きむすめが必要だ。そう、貴様の娘だ』


 その声にレムリットの父がぴくりと反応する。

 こうべを垂れたままではあったが、その額には脂汗がにじみ、そして苦渋の表情をしていることがユーナスには手に取るようにわかった。小刻みに震えてもいる。自分の娘を差し出せと言われたのだから、それは当然の反応だった。


「お、王よ。おそれながら我が娘は、まだ成人の儀も済ませておりませぬ。何卒なにとぞお慈悲を……」

『ならぬ』


 にべもない返答。

 そして次の瞬間、禿頭の神官――つまりレムリットの父の五体はバラバラに引き裂かされていた。玉座からのびる、あの青いつるのようなものが伸びてきて、彼を引き千切ったのだ。それはまるで魔獣の触手だった。広間にどよめきが広がる。


「なっ……」


 それは、一切の口答えを許さぬ、王による見せしめだった。

 臣下に対する無慈悲な処刑。

 それがユーナスを駆り立てる原動力となった。瞬間的にカッと頭に血が上る。脳内でアドレナリンが分泌され、全身に力がみなぎった。


「貴様ーッ!」


 腰に携えた剣を抜き、玉座へと突進する。

 一瞬のことであり、止められるものは誰もいなかった。

 ユーナスは玉座に座る、そいつの喉元へと剣を突き立てる。

 ごふ……という、空気の漏れる音とともに、憎い仇敵はその息の根をあっさりと止めた。



「やった……ついに、やったぞ……!」


 肩で荒く息をする。ついにやってしまった。

 ぽたぽたと嫌な汗が流れ落ち、床にみを作った。

 だが、今は悲願を達成したという高揚感が彼を支配してもいた。

 これで生贄として捧げられた母も浮かばれることだろう……。

 ユーナスは、そう思いながらを見た。


 エトナス王――。

 妙齢の婦人である。

 子を宿やどしていたのだろうか。ぽっこりと突き出た下腹部の膨らみがそれを証明している。血色の悪い肌は、息絶えてますます土気色に変わっており、醜悪な有様だった。


御后おきさき様――!」


 神官の一人が叫んだ。たちまち数名が血相を変えて駆け寄ってくる。ただならぬ様子に、ユーナスはようやく冷静さを取り戻した。


「御后様……だ、と……?」


 訝しげに表情を曇らせる。

 まさか――。


「ユーナス……この、大馬鹿者め!」


 神官たちはかわるがわる女を介抱するが、もはや手遅れだった。

 その時、あの静かな声が〈神勅の間〉に響き渡った。

 全員がその場にかしづく。


『愚かなり、ユーナス』


 その言葉が、ユーナスのこの世で聞いた最期の言葉となった。

 瞬時に彼の五体は引き裂かれ、むくろとなって広間に転がる。

 彼を引き裂いたのは、あの青い触手だった。

 絶命の瞬間、ユーナスが見たものは、自分が手にかけた女の下腹部を割って現れる、血潮にまみれた嬰児の姿。その瞬間、彼は全てを悟ったのだった。



 まったく手を焼かせてくれる。

 エトナス王は心の中でため息をついた。

〈島〉の支配者として、母の胎内に宿ったかれは、彼女の腹の中から王としての勅命を下してきた。

 母を贄としたのは堕胎でもされてはかなわなかったからだ。玉座という名の拘束具に縛り付け、事なきを得ることに成功したが、まさかあの若造の手で殺されてしまうのは想定外だった……。


 だが、間もなく新たな借り腹も手に入る。

 レムリットと言ったか。成人前の娘の胎内は少し狭いかもしれないが、それは仕方がない。今のかれには新鮮な栄養を享受するための肉体が必要だったのだから。



 この〈島〉が変わることなどあり得ない、とかれは思った。

 我こそが永久不変の支配者なのだから。

 王は満足げに喉を鳴らした。

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