◇王の眠る島
■
湿気に満ちた薄暗い部屋だ。四方を囲む壁はてらてらと光り、まるで何かの粘液で濡れているようである。それはぼうっと青白く発光し、室内をほの白く照らし出してもいた。
ここは〈神勅の間〉と呼ばれている。
波音がするたびに、
「王よ。偉大なるエトナスの王よ。我ら〈島の民〉に勅命を――」
厳かな声で傅くのは
かれらの控える眼前には、一人の人物が玉座と思しき豪奢な椅子に座っていた。
その人物の下腹部は驚くほど膨らみ、そして突き出ていた。
長いこと陽の光を浴びていないのか、肌の色つやも悪い。また全身に青いつるのようなものが巻き付き、それによって玉座に縛りつけられているようにも見えた。静かに瞑目している。
ややあって、静かな声が〈神勅の間〉に響き渡る。
神官たちが王と呼ぶその声は、一日に数回「お告げ」をする。それが勅命であり、〈島〉の
王の命令は絶対だ。時に、
生贄。
なんと残酷な命令だろうか。
王がその力の源泉としている
そしてそれは、王の血族であっても例外ではない――。
「新たなる王は、
神官たちがまことしやかに噂するそれは、つい先月に下された勅命であった。
無慈悲な王。だが、その力は絶対だ。太古から島を守護する邪神ジール・ズーの力を唯一制御できる、それがエトナスの王と呼ばれる存在なのである。
■
俺は王を
これが、青年の秘めたる野望だった。
彼の名はユーナス。先日成人の儀を迎え、二十歳になったばかりの剣士だ。これからはエトナス王の臣下として、魔獣から〈島〉を守るために剣を振るう……そういう人生のはずだった。
だが――。
王が、彼の母を生贄に選んだことに、青年は納得していなかった。
邪神ジール・ズーへの供物として捧げられる生贄……。選ばれたかれらがどう扱われているのか、それは知る由もない。だが、もう二度と帰ってこないことだけは確かな事実だったのである。
だから俺は王を許せない。
そう思っている。
〈島の民〉でありながら、戒律に
だから、そういう意味では王に近づくことの許される剣士として徴用が決まった時は内心飛び上がって喜んだ。復讐を果たす絶好の場が近づいたからである。彼はいまも
その時、可憐な声が背後でした。
「ユーナス様!」
駆け寄ってきたのは小柄な体躯の娘だった。
彼女の名はレムリット。王に仕える神官の娘である。
年の頃は十七、八といったところか。ぬばたまの艶やかな黒髪を浅い位置で一つに束ね、琥珀色の縁取りのされた貫頭衣を帯で止めている。履いているのはガガガ蛾の幼虫の吐き出す糸を編み上げて作ったサンダル。質素な身なりの者が多い〈島の民〉において、かれら貴人は気取ったいでたちだ。
「レムリットか。どうした」
「お父様がお呼びなの。ユーナスも、これから王のもとで働くことになるでしょう? だから、今日はこれから〈神勅の間〉に赴く皆の末席に加わって、勉強をしなさいって……」
「ほほう」
ユーナスの顔がほころぶ。
〈神勅の間〉に入れる――それはつまり、王の側に近づけるということを意味していた。王への復讐をもくろむユーナスにとってはまたとない機会が訪れたのである。
「ありがとう、レムリット。すぐに行くと御父上に伝えてくれ」
ユーナスは
今の彼は憎悪に満ちた復讐者だ。
端正な
■
〈島〉は常に薄暗い。上空に絶えず渦を巻く暗雲が立ち込めているからだ。外界との交流もまったく、ない。この辺りの海域は海流が激しく蛇行する難所とされており、他国の船が近づく事を許さないのだ。
仮に近づいたところで……とユーナスは思う。
〈島〉の周囲に生息する魔獣の餌食になるだけだろう。
海の中には肥大化した
そんな〈島〉の中心に、王の座す神殿は
といっても表向きはただの岩窟だ。地下に向かって伸びる階段を抜けた先に、本殿、そして〈神勅の間〉は存在していた。
「王よ。偉大なるエトナスの王よ。謁見賜ります……」
神官であるレムリットの父が厳かな口調で傅く。
儀式の末席に加えられたユーナスも、まずはそれに倣った。
やがて、くぐもった音とともに王の勅命が下される。
その声は極めて静かであるが、背後に何かのノイズを乗せていた。水の流れるような、そんな音だとユーナスは感じている。
『……次の贄を用意せよ。若き
その声にレムリットの父がぴくりと反応する。
「お、王よ。おそれながら我が娘は、まだ成人の儀も済ませておりませぬ。
『ならぬ』
にべもない返答。
そして次の瞬間、禿頭の神官――つまりレムリットの父の五体はバラバラに引き裂かされていた。玉座からのびる、あの青いつるのようなものが伸びてきて、彼を引き千切ったのだ。それはまるで魔獣の触手だった。広間にどよめきが広がる。
「なっ……」
それは、一切の口答えを許さぬ、王による見せしめだった。
臣下に対する無慈悲な処刑。
それがユーナスを駆り立てる原動力となった。瞬間的にカッと頭に血が上る。脳内でアドレナリンが分泌され、全身に力がみなぎった。
「貴様ーッ!」
腰に携えた剣を抜き、玉座へと突進する。
一瞬のことであり、止められるものは誰もいなかった。
ユーナスは玉座に座る、そいつの喉元へと剣を突き立てる。
ごふ……という、空気の漏れる音とともに、憎い仇敵はその息の根をあっさりと止めた。
「やった……ついに、やったぞ……!」
肩で荒く息をする。ついにやってしまった。
ぽたぽたと嫌な汗が流れ落ち、床に
だが、今は悲願を達成したという高揚感が彼を支配してもいた。
これで生贄として捧げられた母も浮かばれることだろう……。
ユーナスは、そう思いながら
エトナス王――。
妙齢の婦人である。
子を
「
神官の一人が叫んだ。たちまち数名が血相を変えて駆け寄ってくる。ただならぬ様子に、ユーナスはようやく冷静さを取り戻した。
「御后様……だ、と……?」
訝しげに表情を曇らせる。
まさか――。
「ユーナス……この、大馬鹿者め!」
神官たちはかわるがわる女を介抱するが、もはや手遅れだった。
その時、あの静かな声が〈神勅の間〉に響き渡った。
全員がその場に
『愚かなり、ユーナス』
その言葉が、ユーナスのこの世で聞いた最期の言葉となった。
瞬時に彼の五体は引き裂かれ、
彼を引き裂いたのは、あの青い触手だった。
絶命の瞬間、ユーナスが見たものは、自分が手にかけた女の下腹部を割って現れる、血潮にまみれた嬰児の姿。その瞬間、彼は全てを悟ったのだった。
■
まったく手を焼かせてくれる。
エトナス王は心の中でため息をついた。
〈島〉の支配者として、母の胎内に宿ったかれは、彼女の腹の中から王としての勅命を下してきた。
母を贄としたのは堕胎でもされてはかなわなかったからだ。玉座という名の拘束具に縛り付け、事なきを得ることに成功したが、まさかあの若造の手で殺されてしまうのは想定外だった……。
だが、間もなく新たな借り腹も手に入る。
レムリットと言ったか。成人前の娘の胎内は少し狭いかもしれないが、それは仕方がない。今のかれには新鮮な栄養を享受するための肉体が必要だったのだから。
この〈島〉が変わることなどあり得ない、とかれは思った。
我こそが永久不変の支配者なのだから。
王は満足げに喉を鳴らした。
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