37. 脳あるヒロインは、目を隠すんだが

「…………っ!」

「…………」

 鈴音は目を瞬かせて声にならない声を出し、対照的に歩夢は特段驚いたりせず静かにゆっくりとOPPAIから手を離す。

 それから歩夢はほんの一瞬、ほんの一瞬だけ目を閉じた。

(危なかった……相手の女子が鈴音でよかった……)

 死ぬほど彼女が欲しい歩夢にとってこのようなラブコメ展開はあまりにカロリーが高く、脳みそがフリーズして異星人の言葉でしか話せなくなってしまう可能性がある。

 その点、もはや妹として認知している鈴音だからこそ冷静に現状を察知できたのは幸運と言えた。歩夢にとってこのラッキースケベは実家で妹とぶつかってしまったくらいの感覚なのである。

 そして、いつだって思いやりを忘れない漢、信乃方歩夢は考える。

(俺にとっては些細な事でも、鈴音にとっては一大事かもしれないからな)

 揉んでしまった自分は納得がいくが、仮にも女子である鈴音が納得できるとは考えづらい。

 全ての人間は平等であるため、たとえ意図的でないとしてもOPPAIに触れてしまった以上は相応の見返りを払うべきだと歩夢は考える。

(やれやれ……仕方ない。鈴音のドジの尻拭いはいつも俺の役目だな)

 歩夢はそんな事を考えながら閉じた目を再び開けた。この間、閉じてから0.4秒の瞬きである。

「…………っ!」

 真っ赤な顔でオーバーヒートしている鈴音に、歩夢は爽やかに微笑んだ。

「鈴音、事故とはいえすまなかった――――」

 揉んでしまったのだから、同等の対価を。

 続けて歩夢は爽やかな笑顔のまま大きく胸を張って、

「お、俺の胸も揉むといい。最近は左胸の肉付きがいいからオススメだ」

「バ……バ……!」

 微笑む歩夢を前に、鈴音はワナワナと目端に涙を浮かべて、

「バッっっっっっっっっっっっっかじゃないの⁉︎」

 全校中に響くほど大きな声で叫んだ後、走り去ってしまった。それも紅坂の荷物を持ったまま。

 爽やかな笑みで硬直する歩夢に、多方面から軽蔑の視線が向けられる。

「流石に今のは無いですよセンパイ……意味がわからないし、シンプルに気持ち悪かったです」

「歩夢くん……君はもう少し、女性の心情を学ぶべきだな」

「すごいわね。今まで幾億の小説で狂人のキャラクターを読んできたけれど、流石にここまで理解不能な天然物は無かったわ」

 リンとアリサ、詩織と三者三様に罵詈雑言を浴びせられる歩夢は、反論する事なく大きく口端を引きつらせる。

「あの……我のバック……返して……?」

 紅坂は保健室の扉を観ながら、涙目で呟くのであった。 



 数時間後、水原家(水原剣術道場)の玄関。

 紅坂は鈴音から荷物を受け取り、鈴音は申し訳なさそうに何度も頭を下げていた。

「あたしが訳もわからず持ち帰ってきちゃったのに、わざわざ取りに来てもらうなんて……紅坂先輩、本当にすみません」

「うむ、別に気にする事はないぞ。元は倒れていた我の荷物を回収しに行ってくれていたのだろう? それに……あんなハプニングがあったのだから気が動転するのも無理は無い」

「あ、あんなハプニング……」

 紅坂の言葉で胸を揉まれた時の視界が鮮明にフラッシュバックし、再び鈴音の顔が茹であがる。

 それを見て紅坂は自分の失言に気がつき、急いで話を逸らそうと話題を探す。

「す、鈴音ちゃんの家は剣道道場だったのだな。幼い頃から剣道に打ち込んでいるならあの怪力も確かに頷ける!」

「そ、そうなんです! 大変ですけど、楽しいですよ!」

 いつもならば男子に怪力と敬称されればそれなりに怒る鈴音だが、露骨な紅坂の気遣いと男子とは見えない外見の効果もあり飲み込む事ができた。

 荷物を背負い込んだ紅坂は、クルリと扉の方へ踵を返す。

「それじゃ時間も遅いし、我はこれで」

「あ、紅坂先輩。もう暗いですし、駅まで送りましょうか?」

「ククク……案ずるな後輩よ。この闇夜の潤黒こそ、我の封印されし邪竜【ジャジヴァリス】の支配する世界……今日の様な忌々しき陽の光さえなければ、世界を混沌に堕とす事など実に容易い事よ……」

「はぁ」

 アニメやラノベを全く読まない鈴音にとって厨二病は理解できず、何か理解できないけれど楽しそうだなと鈴音が適当な相槌を打つ。

「そ、それじゃぁ! 我帰るから! またね!」

 一方の紅坂も、鈴音のようなリアクションには歩夢や詩織のように詰ってくるのとは違う恥ずかしさがあり、扉から涙目で逃げるように飛び出していった。

(あの先輩、いつも涙目だな……)

走り去る紅坂の背中を見送ってから扉を閉めると、ポケットのスマホが大きく震えた。

《着信――――水原リン》

 鈴音は予想通りの相手に苦笑いを浮かべつつ、応答ボタンに指を当てる。

「はい、もしもし?」

 嫌な予感がしながらも鈴音が恐る恐るスマホを耳元に当てると、

『何やってるんですかママー!! 』


「うわビックリした⁉︎」

 爆発音の様にリンの大声が耳元で炸裂した。

『ビックリしたのはボクの方ですよ! 事故的に胸を揉まれるなんて、センパイに異性として意識させる絶好のチャンスだったんですよ⁉︎ なんであんな美味しいラブコメイベントをなんで逃すんですか? 』

「いやだってその……流石に歩夢が相手でもまだ……恥ずかしいし」

『はず? ええ? なんて言いました? センパイとラブコメイベントするのが恥ずかしいんですか? 』

 スマホ越しに素っ頓狂な声をあげるリンに、鈴音は顔を真っ赤にして小さく震えた。

「そりゃ恥ずかしいでしょ! す、好きな人にいきなり胸を揉まれたんだよ⁉︎」

『いえ未来のパパ、つまりセンパイとママは実の娘であるボクが面倒臭いと思うくらいにイチャイチャしていたので想定もしてませんでした……』

「うわぁああ⁉︎ やめて! あたしの知らないあたし恥ずかしい話をしないで!」

 鈴音が恥ずかしさを紛らわす為に両手を忙しなく動かすと、スマホ越しにリンのため息が聞こえた。

『ママ。忘れた訳じゃ無いとは思いますが、未来から来たボクとアリサには大事なミッションがあるんです』

「そ、それはもちろん」

『ミッションをクリアするには、ママとセンパイにイチャイチャしてもらって付き合ってもらうのが一番確実で早い方法なのは説明した通りです』

「そ、それもわかってるってば!」

『なら、当然センパイとのラブコメイベントに恥ずかしがっている場合じゃ無なく、むしろ積極的にラブコメするべきだという事も知ってる筈ですよね』

「う…………」

 鈴音本人も当然理解はしていたが、あの場の出来事はあくまで事故であり歩夢の意図的なものでは無い。意図的な対象に見られていないのはなんとも物悲しいが。

「でも流石にこのまま歩夢と会うのは気まずいし……歩夢もあたしと会うのは気まずいだろうし」

『確かにいきなりママがセンパイにデレても不信感がありますし、ここから挽回して行きましょう。とにかくまずはセンパイとの気まずい感じをどうにかしなくちゃですね。ラブコメの王道展開のヒロインを真似てみればどうでしょうか?」

「ラブコメの王道展開って、あたしほとんどラブコメなんて読んだ事ないよ……。具体的に何をしたらいいの?」

「それはママが考えてください。ボクもセンパイの近くでフォローできそうなタイミングを伺ってますから」

 リンの適当な回答に、思わず鈴音はスマホ凝視した。

「自分で考えろなんて、そんな適当な――」

「センパイのメインヒロインに成るんですから、そこはママの頑張り所ですよ」

 鈴音の言う事を聞かずにキッパリとそう告げた後、リンは通話を切ってしまった。

「ちょ、ちょっと⁉︎ リン⁉︎」

 何も表示していないスマホを、鈴音は不安げにジっと見つめる。

 そのまま力なく廊下の壁に背を預け、小さく自信なさげに呟いた。

「こんなんじゃ……あたし、歩夢のヒロインになれないよ……」

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