36. 恋するのは、乙女だけじゃないんだが
「……知らない天井」
紅坂未来は保健室のベットで目を覚ました。
体は動かさず半分閉じた瞳で、朧気ながら記憶を遡る。
(えっと我は……なんで保健室に……いるんだっけ……)
じっと考えた末に紅坂は事の顛末を思い出し、勢いよくバッと上体を起こした。
「そうだ、勝負! 我と青春部のマラソン勝負してたんだ!」
「目を覚まして第一声がそれとは、恐れ入ったな」
予期せぬ声に驚き紅坂が横を見ると、少し離れた事務机でアリサが微笑んでいた。
窓から吹き抜ける夏風に綺麗な金髪はふわりと舞い、ガラス細工の様に大きな真紅の瞳が優しく輝いている。
(綺麗な人……)
ドキン。紅坂の胸が大きな鼓動を打ち、瞬く間に顔が紅潮する。
そして霧掛かった記憶の中で、紅坂は自分がトラックに轢かれかけた事。それを間一髪でアリサに助けられた事。……お姫様抱っこまでされて腕の中で寝落ちしてしまった事まで思い出した。
「ふぁん⁉︎ ……っていうかその……我がいろいろ迷惑をかけてしまって……すみません」
「何、気にする事はない少年。君たち生徒の健康・安全を守るのが私の仕事だ。それに私としても汗まみれでベッドを使用する訳にもいかず、勝手に服を脱がせて汗を拭いてしまったからな」
アリサは風を感じながら何気なく語るも、紅坂は小さく口を開けて震えていた。
(服を脱がせて汗を拭いたって……⁉︎ わ、我の事を少年って……⁉︎ )
美少女の様な紅坂を初見で男子で見破る人間は、親類を除いて一人もおらずほぼ不可能といえる。
紅坂が急いで胸元を確認すると、体操着の下に巻いていた封印(包帯)が無い。
アリサが自分の事を『少年』と読んだ事も辻褄が合う…………最も恥ずかしい推測が紅坂の脳裏に過ぎる。
「か、勝手に拭いたって……も、ももももしかして下半身も……⁉︎」
「まさか。安心してくれ、私もそこまで短慮な人間じゃない。もちろん上半身だけ汗を拭かせてもらった」
「え……それじゃ、見た目だけで我の事を男子ってわかって……?」
「当たり前だろう。紅坂君は確かに少し顔は女子らしいが、筋肉量の発達や脂肪のつき方を見れば一眼で男子とわかる」
初めての展開にポカンと驚く紅坂に対し、アリサは事務椅子から立ち上がって嘆息する。
未来でエリートスパイとして活動していたアリサにとって、相手の心理状況を把握したり変装を見破る観察眼はもはや無意識に行っていた。
アリサが穏やかに微笑みながらベッドに腰掛けると、紅坂は布団に顔を埋めて真っ赤な顔を隠す。
(始めてだ……我の事、ちゃんと男子って気がついてくれた人……)
ドクン。ドクン。
紅坂の心臓が、再び激しい鼓動を打ち付ける。
そしてはじめて体感する感情の正体に、紅坂本人も薄々気がつき始めていた。
そんな紅坂の様子を気にかける事なくアリサは横に腰掛け、紅坂の手に触れ手先から順に優しく触れてマッサージを始める。
「な、何やって……」
「昏倒した理由は完全にオーバーワークだ。何が紅坂君をそこまで突き動かすのかわからないが、精神に対して完全に筋肉が対応しきれていない。確かに運動では根性と呼ばれるメンタル面で良成績を残すことがあるのは事実だが、それで身体に怪我を負っては元も子もないだろう」
「わ、我は別に……」
「今回こそダウンしてしまったが、それでも全身の肉付きを見ればわかる。バランス良く整った筋肉は、日頃からトレーニングを重ねている証拠だ。正直……驚いた。これほどまでに純粋無垢で健康的な肉体は久しぶりに見た。私では手の届かない青き果実の持ちうる美と言うやつだな」
「………………」
ドクン。ドクン。ドクン。
アリサが触れる度、紅坂の鼓動は呼応するように大きく体内で響く。
紅坂のキャパシテが限界を越えるその瞬間、アリサがぽんぽんと優しく紅坂の頭に手を乗せた。
「頑張れ、少年」
「…………はい♡」
ハッキリと紅坂未来が恋愛感情に溺れた瞬間だった。
比喩表現でなく瞳の中に♡を映す表情は、恋に落ちた少女以外で表すことが出来ない。
ベットから立ち上がり再び事務机へと身を翻すアリサの姿にうっとりと惚けていると、
「何を盛ったメスの様な顔をしているのかしら」
「うわぁぁぁぁああああ⁉︎」
入口から声が聞こえ、目を白黒させた紅坂が大絶叫をあげる。
保健室の入り口には気まずそうな歩夢と、呆れて腕を組む詩織が立っていた。
「ちちち千秋⁉︎ なんでここに⁉︎」
「一応、青春部として活動中に起こった事故なのだから、部長として私が無干渉で放置する訳にもいかないでしょ」
羞恥心から目端に涙を浮かべていた紅坂だったが、歩夢を見つけると親の仇の如く睨みつける。
「信乃方ぁ……歩夢ぅ……!」
「なんで俺が悪役みたいなんだよ! 勝手に倒れたのは紅坂先輩だろ⁉︎」
「全く……心から軽蔑するわ歩夢くん」
「千秋先輩は基本的に俺のこと軽蔑してるでしょ!」
流れるように便乗する詩織に、思わず歩夢は悲しいツッコミを入れる。
ちなみにリンと鈴音がここにいないのは、倒れた紅坂の荷物を取りに教室へ向かっている為である。
「…………それで、青春部が我になんの用だ」
「事情は全て歩夢くんに聞いたわ、自分の体のデットラインくらい自分で管理する事ね」
「う、うぐぅ……」
詩織の容赦のない鋭い一言に、思わず紅坂は俯いて黙りこむ。
「……それと、歩夢くんから貴方がどれだけ青春部に対して本気だったのかも聞いたわ」
「え?」
思わぬ言葉に紅坂は視線を歩夢に移すと、歩夢は涼しい顔でウインクを返す。
紅坂にとって詩織は高校生活で唯一親しい人間であり、青春部に入りたいと熱望していることに嘘偽りはない。
紅坂がパァっと表情を明るくして再び詩織の方を向き直すと、呆れたように小さく微笑む詩織がわざとらしく肩をすくめる。
「そういえば、青春部に入部する為の3番勝負の結果を確認していなかったわね」
この瞬間といい、青春部設立の時といい、歩夢は薄々と詩織の不器用さを感じ取っていた。
(本当に素直じゃないな、この人……)
部活を立ち上げるほどに青春が欲しい詩織が、クラスで唯一話しかけてくれた紅坂を青春部にカウントしていない訳がない。
つまり紅坂と青春部の3番勝負の結果がどうなろうと、詩織は紅坂を青春部に加入させる――――そもそも、この3番勝負自体が詩織の照れ隠しによる茶番に過ぎないのだ。
素直になれない詩織と、本気でそれを信じ込んだ紅坂。双方のアンマッチさを感じつながらため息を吐き、歩夢は面倒臭い先輩たちに助け舟を出す。
「千秋先輩、そろそろ紅坂先輩に伝える事があるんじゃないですか?」
「……。それもそうね、いい加減に可哀想に思えてきたもの」
紅坂が嬉しそうにベッドから乗り出し、キラキラと輝く瞳で詩織を見つめる。
「そ、それじゃぁ我も……青春部に⁉︎」
「いやそれは普通に断るわよ」
「えぇ⁉︎」「はぁあ⁉︎」
詩織は不思議そうに首を傾げ、歩夢と紅坂の素っ頓狂な叫び声が保健室に響き渡った。
雪崩れるように慌ただしくベッドから跳ね起きた後、紅坂は躊躇なく数センチの至近距離まで顔を近づける。
「何で⁉︎ 我を青春部に入れてくれるんじゃないの⁉︎」
「入れる訳ないでしょう? 青春部の加入は、この3番勝負で勝利することが条件だった筈よ」
「でも最後の勝負は中止になったんじゃ……」
あまりに予想外な展開に言葉に詰まる紅坂に、詩織は得意げに答える。
「倒れた紅坂さんを助けたのも、ここまで運んできたのもアリサ先生よ? そしてアリサ先生は青春部の顧問。倒れた相手に塩を送る真似までしているのだから、もちろん青春部の勝利に決まってるじゃない」
「そんなぁ! これは我と青春部の戦いであって……ア、アリサ先生は関係ないでしょ……」
アリサが話題に出た瞬間に露骨に潮らしくなる紅坂。その表情を思わず歩夢は二度見した。
男子高校生が赤面するなど、通常なら筋肉質な絵面になるが、少女顔な紅坂となれば話は変わる。
(おいなんだその顔は! 少女漫画の恋するヒロインかお前は!)
ツッコミが追いつかない状況下で、とりあえず歩夢は詩織へ聞き返す。
「そうですよ! それに加入の話じゃないなら、さっき言ってた紅坂先輩に伝えたい事って何なんだったんですか⁉︎」
その言葉を待っていたと言わんばかりな詩織は、再び紅坂と数センチ程度の至近距離でドヤ顔で囁いた。
「この3番勝負、我々の青春部の勝利よ」
「そ、そんなぁああああああああああああ⁉︎」
涙目でプルプル震える紅坂と、それを見て嬉しそう口角をあげる詩織。
「…………酷すぎる」
先輩たちとは思えない惨状に歩夢が慄いていると、気の毒に思ったのかアリサがフォローを入れた。
「確かに今回の勝負は青春部の勝ちだが、紅坂君の健闘は確かに素晴らしいものだった。千秋部長、定期的に活動に参加するくらいは許可してもらえないだろうか?」
部長の千秋といえど、顧問のアリサの意見を蔑ろにはできないのか、心から不服そうな顔で「わかりました」と唇を尖らせる詩織。
「アリサ先生……♡」
一方の紅坂もまた、爽やかに笑うアリサへ目を奪われている。
(よし、もう帰ろう……)
いろいろな意味でブッ飛んだ先輩たちに振り回され続けた歩夢は、そう静かに決心した。
背後では詩織がアリサに対し紅坂の厨二設定の説明を始め、紅坂が何かを絶叫しているが聞こえないフリをする。
詩織の説明にアリサは「それは興味深い」と興味を持ち、紅坂がもはや人間とは思えない騒音を発し始めたが、当然聞こえないフリをする。
そして教室へ置いてきたリュックを回収するため、歩夢は保健室の扉に手を掛けた。
「…………え?」
その瞬間に歩夢の掌へ広がる、細やかで柔らかい弾力。その奥に鉄壁の如く硬質の不可思議な触感。
見上げるとそこには、顔の隅まで赤く染め上げた鈴音が立っていて、その横では驚いた様子でリンが歩夢の掌を見つめる。
そして歩夢の脳はようやく掌に収まった物質の正体を認識した。
――――this is an oppai
鈴音と歩夢はもちろん、保健室内からそれを目撃したアリサ、紅坂、詩織も目の前の光景に身体を硬らせた。
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