トウコ

越窪やまと

灯子



 母が死んだ。蝉の声がうるさいくらいに響いている、真夏のことだった。笑っちゃうくらい突然で、彼女らしいと言えば彼女らしい終わり方だった。パッと咲いてパッと散る、太く短く華やかに。

 正直その時のことはあまり覚えていない。救急病院で見た白を通り越して青い肌と、母が好んだ真っ赤なリップがやけに艶めかしかった。

 葬儀は滞りなく進んだ。参列者は少なくて、碌に顔も知らない親戚が口々に「アラ、トウコチャン、ずいぶん大きくなったわね」なんて決まり文句を吐くのに頭を下げていればもう夜で。いつの間にか用意された食事が親戚の口に運ばれていくのをぼんやり眺めていた。


 あの人が現れたのはそれからすぐのことだった。

 「ここの二○一号室って浅井さんのお宅でいいのかしら」

 これまたぼんやりしていたら終わった四十九日の法要の何日か後。中学校から帰ると家の前に女の人が立っていた。体のラインを惜しげなくさらしたワンピースに、足がつりそうなくらいのピンヒール。母さんと似たような系統の、派手な格好をした女の人だった。

 

「そう、ですけど」

 「よかった。ねえ、ここの人っていつ頃帰ってくる?」


 長い髪を煩わしげにいじりながら女は問うた。話を聞けば、母さんに用があるのだそう。


 「浅井京子のことでしたら、先日亡くなりまして」

 「あら、そうなの」


 残念だわ。女は少し目を見開いて、そのままぽつりとつぶやいた。


「よかったら、あがっていきませんか」

「え?」

「ここ、日影が無いから暑かったでしょう。待ちぼうけさせて、そのまま帰らせるのも気が引けますから」

 

 お茶でも飲んでいきませんか。

 そう言うと、彼女はしばらく私を眺めた後にふわりと微笑んで、じゃあお邪魔しちゃおうかしら、と言った。


 女はトウコと名乗った。私もトウコと名乗った。すごい偶然ねえ、とトウコさんは笑う。


 「でもだめよお。こんな怪しい人すぐに家に上げちゃあ」


 打って変わって真面目な顔で叱られた。言われてみればその通りで、なんだかきまりが悪くなった私は、でも、と小さい声で反論する。


 「でも、母さんの知り合いなんでしょう」

 「まあねえ。でもあなた、京子……お母さんの知り合いって名乗っても、本当にそうとは限らないじゃないの」


 ぐうの音も出ない。


 「って、説教しに来たわけじゃないのよあたしは」


 とりあえずで出した薄い麦茶を飲み干す。溶け出した氷がからん、と鳴った。

 お線香あげさせてちょうだい、と言われて、隣の部屋に案内した。


 「京子、ずいぶんいいの用意してもらったのねえ」


 親戚の人が用意した、この部屋には大きさの合わない立派な仏壇。


「ああ、なんか親戚が、仏壇くらいって」

「そういうこと」

「はい」


 トウコさんはそのまま母の遺影を見ていた。マスカラとつけまつげで縁取られた目元。影が差した横顔が、ひどくきれいだった。


 トウコさんがあまりにもそのまま動かないものだから、私は隣でどうしたらいいのかわからなくて、でもなんとなくその場にいてはいけないような気がして。あたふたと洗濯物を取り込んだり、居間で明日の授業で当てられそうなところを予習したりしていた。


 「遅くなっちゃった。帰るわね」


 どのくらいそのままだったのか、居間に戻れば夜と呼んで差し支えない時間。見送りに玄関まで出ると、高いヒールに片足をつっかけたままトウコさんは言った。


 「また来てもいいかしら」


 頷く。じゃあまたねえ、と間延びした声が残った。


 「今日はちゃんと持ってきたのよ、手土産」


 そう言って差し出されたのはとらやのようかんだった。渋っ。


 「あっ今微妙な顔したわね! オバサンだって思ったでしょ!」

 「してない、してないです! 思ってません!」


 慌てて首を振る。見た目とギャップがありすぎるとか思ってないったら。


 「お茶、用意しますね」

 「あら、そ。」


 ふん、と鼻を鳴らしてトウコさんは靴を脱いだ。相変わらずのピンヒール。

 

薄い麦茶と個包装の羊羹を何個か持っていくと、トウコさんはすでに仏壇の前に移動していた。私も倣ってお線香をあげた後、場所を取りすぎるので箱から出した残りの羊羹を、ピラミッドみたいに積んでいく。数が多いので。私しかいないのになんでこんな、お徳用パックみたいな量を。


 「京子がこれ好きでさあ、あんな見た目のくせに。ひとりでめちゃくちゃ食べるのよ。トウコちゃんは羊羹好き?」


 好きですよ、と答えた。嘘。ほんとは食べたことない。ただの世間話なのだろうそれに、私の知らない母さんがいた。胸がざわざわした。


 「母さんとは、どういう関係だったんですか」


 前回からずっと気になっていたこと。トウコさんは顔を上げて、少し瞬きをして、また笑った。


 「ナイショ」


 「トウコちゃんってもしかして、麦茶しか淹れたことない?」


 顔を引き攣らせたトウコさんが言う。


 「え?」

 「だって、今日のお土産マカロンよ! ピエール・エルメの!」

 「はあ……」


 麦茶じゃダメなんだろうか。ダメなんだろうな。


 「よっしゃ、待ってな。次は紅茶も買ってくるから」

 「いや、私気にしないですけど……」

 「あたしが気にするのよ! まったく京子ったら。自分はグルメなくせに!」


 「ずっと思ってたんだけどさあ、京子嫌がりそうじゃない?この仏壇」


 何度目かの訪問。今日のお土産はポッキーイチゴ味。やっぱり母さんの好物。居間に広げたそれをくわえて、トウコさんは言う。


 「あっやっぱりそう思います?」

 「うん、センスないよ」


 小さな部屋の四分の一を埋めようかという大きさの仏壇。母が死ぬまで会うこともなかった親戚の用意した、やたら豪華な仏壇。それがなんだか、母のことをちゃんと見てくれる人が周りに誰もいなかったことの象徴のようで。嫌いだった。


 「母さん、前に言ってました。仏壇なんかいらないからねって」

 「うん」

 「そんなもの買うくらいならさっさと進学でも何でもしやすいところに引っ越して、好きなようにやりなさいって」

 「うん」

 「あんな地味で窮屈な箱の中に押し込められるなんて冗談じゃない。死んだあとだってごめんだわ。海にでも撒いてちょうだいって、言ってました」

 「うわ、言いそう」


 トウコさんはケラケラ笑った。


 「いっこも叶えられなくて、申し訳ないなあ」

 「んー。それはトウコちゃんが気にすることじゃないよ」


 死んだ後どうするなんてのはね、所詮残された側の自己満足よ。


 でもねえ! トウコさんは続ける。


 「この場合自己満足するべきはトウコちゃんよ。いっちゃん京子のそばにいたのはトウコちゃんなんだから。親戚のおっさんどもじゃなくてさあ」


 大真面目な顔。でもポッキーはくわえたまま。


 「チョコ、溶けちゃいますよ」

 「ちょっと、せっかく人が真面目な話をしてるのに! この子ったら!」


 さくり、最後の一口をかじる。真面目な顔のトウコさんは、大人みたいであんまり好きじゃない。


 「トウコさんと母さんって同い年ですか?」

 「何? 喧嘩なら買うわよ」


 トウコさんは、茶葉どころか紅茶道具を一式買ってきた。


 「いや、そうじゃなくて」

 「あたしのが下よ。三つ下」

 「みっつ」

 「そ」


 からん。少しだけ食器の触れ合う音。今日のお土産はビアードパパのシュークリーム。


 「ってことは、私とは二十ちょっとか」

 「あら、意外と近いわね」


 トウコさんは目を丸くする。遠いなあ、なんて思った。


 「紅茶、上達したじゃない」

 「そう?」


 少しだけ覚えた彼女の好み。トウコさんは甘党で、苦いのはあんまり得意じゃない。だから紅茶も長めに蒸らすのが好き。母さんが好き。


 「うん。おいしいわ」

 「ふふ、うれしい」


 トウコさんがちゃんとこっちを見て笑う。渋くて苦いだけの色水を量産した甲斐はあった。


 「トウコちゃん何してるの!?」

 トウコさんの前では背伸びがしたかった。

 今日はお化粧、してみるか、と思い立って、母の化粧箱を漁って、ネットの情報を頼りに顔に塗ってみた。化け物が生まれた。


 トウコさんと母さんの塗っていた真っ赤なリップは中学生には大人びすぎていて、顔だけが浮いているみたい。なんだかとっても恥ずかしくなった私はあわてて水で顔を擦った。トウコさんとの約束の時間は迫っていて、なのに無駄にもちの良い化粧品はなかなか落ちてくれない。半泣きになっていたところにトウコさんが到着したのだった。


 「大人になりたいの」

 「なあに、急に」


 化粧箱から発掘したクレンジングで顔をぬぐわれながら事情を説明する。意外にも、彼女は笑わなかった。


 「大人なんかなるときゃ勝手になるんだから、そんなに急がなくたっていいのよ」

 「でも、トウコさんは大人でしょう」

 「……ほんとにどうしちゃったのよ?」

 「好き」


 母さんとトウコさんの間に入り込めない時間があるのが嫌だった。トウコさんの手土産が母の好物ばかりなのが嫌だった。何より、大好きな母さんを疎ましく感じた自分が嫌だった。全部私が子供だからだと思っていた。


 「好きなの……」


 「トウコちゃん、引き取れる人誰もいなかったの、ごめんね」 


 申し訳なさそうな顔を作った叔母の声をぼんやり聞く。四十九日の法要で「あんな女の娘引き取れるわけないじゃない」って叫んでいた人とは別人みたい。


 「それで、施設のことなんだけど――」


 適当に相槌を打つ。なんでもいいけど、大人だったら振り回されずに済むんだろうな。

 あれからトウコさんは来ていない。


 「こんばんは」

 「えっと、こんばんは?」

 「会いたくて来ちゃいました。トウコさん連絡くれないんだもの」


 家から電車を乗り継いで二時間。最後にあったときに見えた定期券から特定した、トウコさんの最寄り駅。もう二時間待って、見つけた。


 「ごめんね、色々立て込んでて」

 「ほんとに?」


 駅から徒歩五分のトウコさんの部屋は、一人暮らしの家にしては広くて、なのにこじんまりしていて、大人の女の匂いがする。


 「私もうすぐ引っ越すんですよ」


 今日は学校との面談の帰りだった。


 「なんか、施設? うち出て行かなきゃダメらしくて。お線香、あげられなくなっちゃうんです」

 「そっか」


 トウコさんは私を抱きしめて言った。


 「トウコちゃんは、どうしたい?」


 父親がいないこと。祖父母とは縁を切っていて、母さんの葬儀が初対面だったこと。ほとんど初めて会う親戚がみんな、母さんの遺体を見て眉をひそめていたこと。全部話して、安っぽい同情を引いて、トウコさんのところで暮らしたかった。けれども私はどうしようもなく子供で、どうしようもなく大人になりたかった。だからそんなことはプライドが許さなくて、結局そのまま施設に入ったのだった。


 引っ越し当日、わざわざ見送りに来てくれたトウコさんに、私は言った。


 「これが似合うようになったら、私のことちゃんと見てね」


 母の化粧箱から引っ張り出した真っ赤なリップ。中学生には大人すぎる、トウコさんが使っているのと同じリップ。


 「生意気言うじゃない」


 トウコさんは笑っていた。


 あれから数年。十八になって施設を卒業して、トウコさんの家まで行って、果たして彼女はもういなかった。


 その場で不動産屋さんに連絡をして、聞いたのは大家さんの電話番号。


 あの頃よりちょっぴり小賢しくなった私がいかにも純情な子供を装うと、大家さんはあっさり出てきてくれた。


「お忙しいところすみません。浅井灯子です。京子の、娘です。」

「ああ、浅井さんの。そっくりねえ。びっくりしちゃった」


 結局引っ越し先はわからなくて、お礼を言って駅に向かった。


 トウコさん、改め柳井塔子と母さんは、かつて同居していたのだと言う。

 

 柳井塔子、やないとうこ。名前を口で転がして、かかとの靴擦れをなぞる。


 リップに顔が負けることがなくなったって、十センチのピンヒールで走れるようになったって、もう塔子さんは会ってくれないのだろう。それこそ、真っ赤なリップが似合うようになってしまったから。


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トウコ 越窪やまと @ochikubo

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