第3話 先輩と、湖畔のロッジの宝箱
「秋晴れだね~」
「――そうですね」
今日の目的地は、山道からチラリと見えた湖だ。急ぐ旅でもない、こうやって目についた場所に向かってふらりとバイクを走らせる。
僕は気がつけば、このスタンスの二人旅を気に入っていた。
「わぁ!」
澄んだ水面を前に先輩は子どものような歓声をあげた。今日は風も穏やかで、ピクニック日和である。そうは言っても、僕と目の前の女性以外に、生きている人間などいないのだが。
「錦山君も入らない?」
いつの間に先輩は靴を脱いで、水に足を浸している。
(現実感が湧かないなぁ)
僕は貴重品となった煙草を、久しぶりにくわえた。火を点け、息を吸って香りを楽しむ。
その間も先輩は子どものように、水面を蹴っている。
(こうして見ると、無邪気な人なんだけど……)
この世界の崩壊の詳細について、深く知っているはずなのだが、僕に対して一切その話題を持ちかけたことはない。
「先輩! そろそろ昼飯にしましょう」
そう声を掛け、遠くに見えるロッジを示した。備蓄がありそうな建物はチェックする。でないと、また連日味気のないビスケットを齧るはめになるのだから。
「それじゃ、中を拝見しますか」
僕は今にも崩れそうなオンボロの扉の前に立つ。鍵を掛けていないどころか、ご丁寧に扉は来客を歓迎するかのように開きっぱなしになっていた。足を踏み入れるとギシリ、と床が軋む音がした。
ただ、机の上に置かれた小さな木箱が気になった。
「なんでしょう?」
「木細工、かな?」
アクセサリーでも入っていそうな薄い長方形の木箱。開いてみようにも、継ぎ目がわからない。バラバラのサイズの木のパーツを組み合わせて、しっかりと粘着剤で固定しているようだ。
先輩は手にとって、それをしげしげと見つめた。
「あ! ここが動くよ」
少しパーツが動いたことで出来た空間に、下のパーツを押すとそちらに移動する。その要領で動かし続けていたが、やがて行き詰まってしまった。
「知恵の輪みたいですね」と言えば「うん、これはちょっと時間がかかりそう」と先輩は真剣な表情を浮かべる。
動かしてはスライドさせ、行き詰まっては戻し……と試行錯誤をしている先輩をしばらく眺めていたが、ゴールの見えない作業に飽きてきた。
隣を離れ、改めて部屋を見て回る。
――と。
ただの布が落ちていただけと思っていたところが、その下に何かあることに気が付いた。
埃に備えて袖で鼻と口を覆って、布を持ち上げてみる。
そこにあったのは、子どもサイズのソファ――いや、動物用のベッドだった。サイズから見るに大型犬でも飼っていたのだろうか。
先輩と旅と始めてから、人間は勿論のこと動物、虫、魚……つまり命あるものに出会ったことがない。どういう訳か死体も残さず消えてしまっている。
(動物がいれば、狩りでも出来たんだけどなぁ)
以前食べた鹿肉のシチューの味を思い出すと、忘れていた空腹感が蘇った。しかし、振り返って先輩を見れば、真剣な表情で箱と格闘している。もう少しあのままにさせてあげようと、僕は埃っぽい家を出て外に行くことにした。
ロッジの階段に腰掛けてぼんやりしていると、遠くから何かの声が聞こえた。
はっきりと意思のある、声。緊張感が走り、立ち上がって音がした方向を見る。
金色をした物体が湖畔沿いを、ものすごい勢いで走ってくる。そのシルエットは近づくにつれて、明確になる。
「ワン!」
そう鳴いて、僕の前に座ったのは一匹のゴールデンレトリバーだった。よく見ると、身体のあちこちに枯れ草や葉っぱがついており、鼻先は土で真っ黒だった。
突然の出来事に、不覚にも僕は立ち尽くしたまま固まってしまった。
「生きてる、のか?」
ようやく絞り出せた声は、そんな愚問だった。
犬は、ゆっくりと近づいてきて靴の先の匂いを嗅いだ。
そして僕を見上げて、主人ではないことを改めて確認し、寂しそうに鼻を鳴らした。耳と尻尾は垂れ下がり、全身で落胆を表している。
「錦山君! 箱が空い……」
ロッジから出てきた先輩は、僕と犬を見て目を丸くする。鳴き声が聞こえない程に集中していたのだろう。先輩は今まで見せたことのない驚愕した表情を浮かべて固まっていた。
それを気にした様子もなく、犬は先輩にも近づいていき、くんくんと匂いを嗅いでは、また悲しそうに鼻を鳴らした。
「あぁ、貴方だったの」
先輩は呪縛から解き放たれたように、口を開き優しい声音で語りかける。身を屈めて、頭を撫でれば、犬は嫌がる素振りも見せず気持ちよさそうに目を細めていた。
「箱の中身は、なんだったんですか?」
先輩に歩みよると、一枚の紙を渡された。
――それは、写真だった。
老爺と若い夫婦。そして夫婦の子どもであろう、幼稚園生くらいの女の子。そして、彼女が抱きしめているのは、目の前にいる犬だった。
写真を裏返すと、そこには丁寧に書かれた文字が並んでいた。
モモ。一緒に避難できない代わりにこの写真を置いていきます
大事な大事な、私たちの家族
どうか、生き延びて
先輩は、汚れた金色の毛並みに顔を埋めるようにして、その犬を抱きしめていた。
「写真なんかより、本物に逢いたくて、探しに行ってたんだね」
ごめんなさい――。
先輩の唇から溢れた言葉は、全ての命あるものへの懺悔だったのかもしれない。
* * *
「で、連れて行くんですか? ソレ」
翌朝。僕が目を覚ますと、薄汚れていたはずの犬はピカピカの毛並みになっていた。一仕事終えて先輩は満足そうな笑みを浮かべる。
「首輪に“ニケ”と書いてあったの。ちょっと“錦山”に似てない?」
自分の名前をからかわれて、僕は「似ていないです」と口を尖らせる。
「私ね、笑われるかもしれないけど家族に憧れてたの」
先輩の生い立ちを僕は知らない。
「それにもしかしたら私と錦山君の間に子どもが出来るかもしれないでしょう? だから、この子はお姉ちゃん」
「ッ!?」
突然の爆弾発言に、目を見開き唇を戦慄かせる僕を見て、先輩は不思議そうな顔をした後、「あぁ!」と手のひらを拳で打った。
端整な顔を近づけ「伝えてなかったっけ?」と、唇を耳に寄せる。
――愛してるよ、錦山君。世界中の誰よりも。
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