棚氷

洞田 獺

棚氷

 地平面まで続く氷上に一筋の黒線が蠢いている。糸を構成するのは膨大な数のペンギンだ。彼らはきっと強迫症を患っているのだろう——窮屈そうに苛立たし気に、しかし確かな熱狂を持って一直線を描いている。その行進は軍隊の行軍のように整然としていない。所々解れたように弾き出た一羽がいる。だが、そんな個体もまたある方向を目指し進んでいく。純然たる個でありながら流れに逆らう者はいない。それが何より異様で不可解だった。極の巨大な太陽がじりじりと世界を焼く。その白黒のコントラストは現実に投射された陽炎のようであるが、その幻想は地を踏みしめて着実に進んでいる。彼らは何処から来たのだろう?そして何処へ向かうのだろう?

 暖かなテントの中で姿見とにらめっこ。橙のランタン光の差す中で、寝起き頭もぼんやりしている。わたしは氷の雨みたいにしゃっきりさせて念入りに慎重に衣服を重ねてみる。ママにはもっとおとなしめな色にしなさいって言われたけれど、やっぱりこの赤色がわたしのトレードマークだから。ちょっとかさばるけれどお気に入りの、真紅のダッフルコート。だってこの赤色がわたしになる。この雪原の何処にもないその赤色が、だだっ広いだけの荒涼としたこの世界の目印となるの。遠く離れた誰かがその赤色を見るでしょう。きっとそれはわたしだけの世界。あなたはわたしだけを求め訪れるのでしょう。でもわたしが止まることはないのです。あんまりかっこいいひとだったら後ろ髪を引かれるけれど、だから顔がはっきりわかる前に逃げ出すの。追いつかれたらわたしの負け。冒険はそこで終わり。でもわたし速いのよ。パパもママも追いつけないくらい速いから、結婚はまだまだ先のことになりそうね。

 テントの外へ首だけ出してみると、今日がその出発の日だってわかった。全部をまっさらにする白い大風も、今日は鳴りを潜めて私を応援してくれている。パパとママが起きる前にすぐにでも行かなければ! 急いで口いっぱいにフレンチトーストを詰め込んで、残りのベーコンサンドは布でくるんで。口の横にいじらしく張り付いたメープルシロップを舐めとったら、穿きなれたスケート靴で飛び出そう。普段とは違って背にはリュックがあるから最高速は出ないけれど、甘く暖かな体でつめたい風を切る爽快は、冒険への高揚も相まって、初体験のよろこびだった。わたしはペンギンたちの向かう方を目指し駆けていく。いつかその先を見なければいけないと、パパやママや先生が教えるより先にまるい心が知っている。わたしはあのテントを置いてどんどん駆けていく。一瞬額を打った冷気からマフラーで口元を隠すと、心残りだった甘さに牛乳が欲しくなるけれど、もう家には帰らないって決めていたから迷わない。立ち上る朝日に、その赤さがわたしに劣っていることの優越に、今は全てを投げ出して、秘密の果てにいこう。

 どこまでもどこまでも走ったけれど、依然として果ては見えてこない。残念ながら周りにはあのころと変わらない真っ白な地平線と黒いもこもこしたペンギン。なんて簡素で単純でつまらない世界なんだろう、とひとりごちてみる。神様にやる気がなかったのかしら。わたしは火照った体がちょっとつらくて、休憩のためのしりもちをつく。ほんのりと尾骶骨が痛い。柔らかな雪は想像よりも薄く、知らない手触りだった。こんな小さなところが変わっているなんて偏屈なのね。わたしは仰向けになって地面と仲違いする。所々に突き刺さった銀色の逆さまのドラム缶からは時折湯気が出て、辺りに回った水っぽいにおいが小雪になって空を覆う。ドラム缶から悲しそうな声が背中を伝って心の中へ入ってくる。しんしんと降る雪は私を少しずつ埋め、未だ見たことのない夜の姿を予感させる。きっと肺の底まで空気が落ち込んで戻りたくないの。そんなにも真っ暗なの? そうぼうっとしていると得体の知れない冷たさで胸が疼いてたまらなくなった。いいや、夜にはきらぼしが舞っているから、わたしは大丈夫なんだ。奮い立たせた心より体が過敏に反応して、思わず飛び起きてそのまま滑り、ペンギンたちの列に飛び込みそうになる。寸前でブレーキをかけて止まると、彼らの姿が間近でありありと映る。まるでわたしがいないみたいに彼らは行進に執着していて、転びかけの体制も相まって恥ずかしく悔しい。その羽毛は黒く黒く、触れたらわたしが消えてしまいそうなほど。そうしてただ必死な彼らを見ていると、わたしも行かなければという切迫感が湧いてくる。止まる、留まることが怖くなって、果てへ行くためのことから目を背けられないのは冒険の副作用かな。わたしはまた呼吸を整えて地を蹴った。

 あなたがそこに居たのはいわゆる偶然というものだろうけれど、わたしが近づいて行ったことには世界の真理があるなって思った。遠く遠くに見えた火はわたしのかたわれのようで、揺蕩うように歌うように燃えていたからあなたが男の人だということに気づけなかった。小振りの氷塊に腰掛けるあなたわたしが来るとは夢にも思わずに、ただ火にかけた小鍋を緩慢に混ぜている。あなたが着るには大きすぎるレモンのロングコートはその表情を隠して、近づかねば目元の作りしか分からないほどだった。うかつにもわたしは男の人に追いついてしまったのだと気づいたのは、その向かいに腰掛けたときのことで、十分前の手遅れを恨むことしかできなかった。そうしてしょぼくれるわたしを不思議そうに見つめるあなたは、不思議にわけを知らないらしい。無口なあなたがくれたコーンスープは極端に薄味だったけれど、お腹が温まればお話がしたくなったから、わたしはママから教えてもらった約束について教えてあげた。もしもわたしが男の人に捕まったら、それとも捕まえてしまったら、わたしは結婚しなければいけないと。結婚すればわたしが固く四角く縮こまって、冒険ができなくなることもあたりまえだけど教えてあげた。そんななんでもないことを頷きながら聞くあなたは、お返しに冴えたアイデアを教えてくれた。嘘をつこうって。きっと僕たちは性別も知らぬ他人で、降り積もる大雪の一粒みたいに分からないんだって。嘘はよくないことだけど、そうすればまだちょっとだけ冒険ができる。そんな魅力的な言葉は生まれて初めてで、顔も上げられずに返事をしたの。あなたは口をつぐんだまんま。そんなしじまがわたしとあなたの間を抜けて、昼も夜も無い白氷の世界の最奥まで吹いていった。いつだって遥か先から聞こえているわたしたちへの問いかけ。冒険は続かなければいけない。あのペンギンたちが果てへと歩を進める限りは。

  あなたと冒険をすることになるのを、わたしはとっくに気づいていたかもしれないわ。予感は運命のようで、期待は鼓動そのものだった。駆ける度たなびく吐息の白線がふたりを繋ぐ。心なしか速足になる。後ろゆくあなたを振り返るのは野暮というものでしょう。走るよりも跳ぶように、跳ぶよりも飛ぶように。ふたりが誰も見えないくらい速くなったころ、突然果てに着いたのです。

 それは果てというにはあまりにもがらんとしていて、残念や幻滅よりもずっと真綿で首を締めるような寂しさだけが全てだった。足元にあった氷の大地には端っこがあって、その外にはどこまでもどこまでも水が溜まっている。大風がびゅうと吹いて、肋骨を下から透かすような恐怖に凍って砕けそうになった。あなたの声が聴きたい。あなたはずっと無口だ。何者かの問いかけでもいいのに、風の音がいやにうるさい。さいはてのことを誰も教えてくれなかったの? いいや、誰もが知っていたの。ただ恐ろしくてだあれも言えなかっただけ。人はここを想って涙を流すことすらできやしない。今まで列になっていたペンギンたちが見える。彼らはこのちっぽけな氷の端っこに固まっている。わたしたち子供がずっとずっと逃げてきた先は袋小路になっていたらしい。わたしはそれでも諦めきれずにその一群の先端へ、氷の大地の終わりへと足を進める。滑って先へ、氷の崖のぎりぎりまで来て初めて、わたしは彼らが固まっていたのではないことに気付いた。彼らはまだ進んでいる。端っこのペンギンが苦しそうに、悔しそうに張り付いているのを、無慈悲にも群集が押し込んでいく。一人は皆に潰されて、金属の鎖でぐるぐるに縛られて、さよならも言えずに今、壊れた音を立てて落ち沈んでいった。結局この水溜まりは夜だった。きらぼし一つ見えぬ心の裏の夜だった。次々にペンギンたちは落ちていく。無抵抗のものもいる。わたしを見て何か言いたげなものもいる。落ちず他を突き落としているものもいる。わたしはもうやめにした。あなたを振り向いて、結婚の約束を持ち掛けようとした。

 でも、やっぱりそれは我儘だったみたい。ペンギンたちとおんなじように、わたしの後ろにも長い長い列が、地平線の、世界の果てまで続く列ができていた。彼らは押し合いへし合い必死の行軍を続けている。男も女も、わたしよりずっと幼い子も長身の人もいる。わたしは泣きたくなって、でももう終わりの場所だから寂しさで泣けなくて、ばらばらになりそうだった。あなたはわたしの胸倉を掴んで問いかける。どうして前に進まないの? わたしは答える。だって終わりだから。いいや、違うさ始まりさ。そうあなたが言ったから、ちょっとだけ楽になることができた。そうした油断の隙に、わたしの首から伸びるリードは両手足を縛っていたから、苛立たしげなあなたがわたしを蹴り飛ばすことに気づいていてもそして。つめたい安堵が身を刺したのだ。

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