第一章・ラポール編

第1話 変乱の黎明

あらゆるネガティブ感情を混ぜ合わせたような、重苦しくてとても不味い空気。


それはピースに、ドっと感触の悪い何かが心臓に乗っかったような不快感を与え続けていた。


 そして、さらにその不快感は歩く度に、ぬかるむ地面を歩くかのような粘っこい重みとなって足腰にまとわりついて来る。


気持ち悪い。


 つい胸に手をやって、呼気を荒くしてしまった。


 しんどい。 一メートルすらも長く感じる。


「その反応は。 いやね、肌いつもより白かったじゃんロンリー。 ピースも気付いてるのかと思ってたんだけどー……」


「い、いや?」


苦し紛れに返すピース。


 ふと、混沌とした空気が風に乗って頬を撫でたことで、涙が出そうになる。


 そこで、何かを感じ取ったのかネクレスが、「ん? 調子悪い?」とチラリ、こちらを見て訊いてきた。


表情が真剣かつ心配そうになっている。


つい反射的に「いや……」と強がろうとするも、あまりの悪寒に観念した私は「ここに来た瞬間から」と、この嫌な感覚のことを絞り出すように、呟くように伝えた。


 すると、ますます心配そうな表情を浮かべるネクレス。

 こんなにも心配そうな顔のネクレスは久しぶりに見た。


「めっちゃ辛そうだねー。 んー。 ここに来た瞬間からか。 ここ空気悪かったけなー。 それとも今悪く……」


そう何か考えてる様子を見せつつ、かと思えば心を切り替えるようにスーッと息を吸うネクレス。


「一旦戻る? 遅れそうなら学校に連絡するから」


「それは……そうだね」


 私は言い淀みながら呟いた。


 基本、特に親代わりの二人には天邪鬼な態度を取ってしまう私だが、普段見ないとても心配そうなネクレスの表情と、余計なことを思う余力もないほどの体調の悪さ、そして何よりこの状態がもし感染症だったりしたら? という感覚的な不安が手伝って、私はしかつめらしい態度を示した。


 すると、唐突に。 まるで今、無から現れたかのように、アサギマダラのような、丸みを帯びる三角の羽を持つ蝶がふわり。


キラリとした七色に光る粒子を散らしながら、ネクレスの手前へと舞ってきた。


 その蝶の羽は赤く、その羽の黒い輪郭はなぞり彩るようなレース模様をあやなしている。


「ん。 こんな蝶、この辺りにいたっけ?」


 そう呟くネクレスの手の甲に赤い蝶は、ふありと止まった。


 私はその蝶にふと、違和感を抱く。


 ネガティブでいて複雑な空気に包まれた現状。 そればかりに反応して他の感情が読み取り辛い状態にはあったが、その蝶からは、いやに攻撃的な感情を感じる。


 私はその奇妙な感覚に気持ちの悪さを覚え、走り出しの遅い声で「ネクレス……その蝶っ……」


 と声を掛けた瞬間───────


 私の声を遮るように、空から耳を劈く破裂音が聞こえた。


 つい目を瞑り、耳を塞いでしまうピース。


 けれど、ふとその音の正体が気になっておもむろに瞼を開けながら、固く耳に張り付いた自身の手を耳から遠ざけつつ、ボヤけた視線を上げていく。


 ───────っっ!!!


 空に浮かぶそれを見た瞬間、腹の底から猛烈な悪寒が喉元まで込み上げてきた。

思わず目を閉じて蹲ると、その悪寒は口から溢れ出し、嫌な音を立てながら石畳を汚していく。


震えが止まらない。


それこそ、自身の震えた息のよりも、大きな声を出せないほどに。


 その空に浮かぶ何かは、鯨ほどだろうか。

透明なクラインの壺のような胴体に、大きく広げられた緑の蛾の羽。 そして、その巨大な羽には超新星爆発を彷彿とさせるような白の模様がパッと見て九つほど入っており、大きな胴体の底には様々な色の光の玉が複数入っている。


 そして、そのモンスターの辺りには、大量に飛び交う大小様々な色鮮やかな蝶や、水で出来た蛇のような小さなドラゴン。黒や赤、青の蛇のような小さなドラゴンがうようよと空を泳いでは、彼岸花を逆さにしたような蜘蛛といった変な生き物が石畳を歩いていた。


 蛾の羽を持つクラウンの壺のようなモンスターは私から見て斜め上の上空、街の上を滑るようにゆっくりと浮遊している。


「ピースっ!」


 そう焦りの色が強いネクレスの叫び声が、耳を塞ぐ手を貫いて、僅かに響く。


「ダメだ、私の感覚が混乱してワープが使えない」


すると、その時─────私の意識がぼんやりと溶けていくような感覚が─────


**


一方、排気音が立ち込める広大な白い一室では、正方形の壁に、大きなジンベエザメほどの巨大タンクが設置されていた。


左右の伸びた壁にはそれぞれ、右に大小様々でカラフルな実験器具や長いテーブル。 左には技法、大きさ共に様々なアートパネルが、シックに、愉快ながらも心地よい配置で掛け並べられてあった。


「思いの外、三年の時は長くも呆気なかったな────



ケロベロスの棲む小屋から解放されて、三日が経った実家での寝起きを想像したよ」


二メートルを悠に超えた痩身に白衣を纏う、薄桃色と灰の笠雲のような模様をした髪の男性が呟くように言った。

三角の頂点を逆さにした、浅黒いクマの様なシワを持つ三白眼がタンクを見上げている。


その青と緑が混ざるトンボ玉のような瞳は、まるで美術館の大きな絵画を眺めているかの様な輝きを宿していた。


それに、白衣を身に纏う中肉中背の、モジャモジャとした白髪混じりの灰色の髪と、U字磁石のような髭が特徴的な助手の男性が労りの一言を入れる。


そのヨボヨボとした皿のような目は大柄の博士を畏敬を込めた瞳で見上げている。


「お疲れ様です。 まさに世紀の、大発明ですね」


「ああ。いつかのコーヒーハウスで私を嘲けて矢を放ち、挙げ句、表世界から排斥した哀しき羊や科学者どもが生きていたら、見せてやりたいよ。

これから起こる結果も添えてな」


「名案ですね。しかし、もうあれから九十年以上ですか。いますかねー博士みたいに、延命する術を持った科学者が」


「居てくれないと先に困る」


「そうですね」


「まあ。私が干されてさえ居なければ、話は別、なのかもしれない……が」


「あれほど多くの功績を残されたというのに、非常に悔やまれますな」


すると、手が寂しくなったのか、長身の博士はポッケから赤い色の透けたサイコロを取り出して眼前にかざした。 そのサイコロの一面は傷だらけだが、光を透かすと赤い海がタンクの一部を呑み込んだようだった。傷が、細長い魚に見えなくもない。


「まあこれが。世間の選んだ道。だが、逆に世間がこの道を選んでいなければ、私たちはこうしてこのような発明に出会えていないのだから、感慨が深いな」


その言葉に助手は不敵な笑みを浮かべる。


「ふふふ、皮肉に聴こえますね」


「捉え方は任せるよ」


ふと、助手の視線が巨大なタンクへと向いた。


「それにしても、どうして、人は人の扱いがこうも下手なんですかなー」


「それは、人という生き物がどこまでも、非合理的で射倖心しゃこうしんに満ちた快楽生物だからだよ」


博士はサイコロから二本の指を離し、宙で回転させた。


「もどかしいばかりですね」

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