第一話 オレンジの魔物と鉱石少女

 影が通り過ぎる。四角い境界面を、橙の夕焼けで綴られた世界。白いワンピースの裾が風に揺れ、ぼんやりと一日中立ち尽くしていた私は、熱された太陽を見上げた。

 冷たい硝子の様に青い瞳が、フレアに融かされてしまう。手を翳しても、錆び付いた血管が浮くだけで、齎されるものは何もないのだ。無機的な人々の行きかいに蓋をした、ジャム瓶を置き忘れても、私に諭される者は見つからなかった。

「ノアに…、会いに行く?」

 沈んでしまう太陽が、まだ私を照らしているうちに老人の元を訪れよう。瞳を瞑っても、薄い背丈に惑わされている情景であるなら、不確かさよりも確からしさを求める。

 ただ、そう心で呟いた自分の影が単に黒いことを確認した。一つずつ、消えては散っていく霞が街明かりを着実に灯す。私は砂の道を駆けて行ったのだった。


 忘れられた空間。世界には色がない。躓いても、虚無は誰にも理解されぬまま沈んで一輪の花を咲かす、トラウマになるのだろう。水色のキャンバス、指で触れては感覚を交配して、言葉に解釈を。指先を傷つけて、流れる再生の温度が何故か冷たかった。

「…誰も居ないのかな。」

 土埃の立つ道を走り抜け、粗末な板で作られた家々を抜けていく。時折、影が洗濯物を取り込んでいるのを見かける。煮立った太陽が、夕暮れを告げるが構わずに先へと歩を進めていった。

「今日は何処にもいないのかな、ノア。」

 猫の名を呼ぶように呟いて、頭を振る。ノアは不思議な人だけれど、ただの老人だから。その解釈は間違っているのだろう。木の棒を放り投げて、はしゃぐ影の子供を目の端に捉えて、奥まった路地裏へと私は身を押しやった。

 木の幹と、囀りがないのならば、雲の靡く青い空は、どうやって私を迎え入れるのだろう。赤く染められた天井に、手を伸ばして。土気色のレンガ造りを撫でた。枯草すら見当たらない街。私は、どの時代から。何年前から、私で居たのだろう。

「花々の夢を見る前…だったらいいのかな。」

 新たな価値観を享受し、誰にも悟らぬ様に電解の海へと静まり返る。裏路地を抜けた先に、私は見慣れぬ一輪を見つけて、思わず立ち止まったのだった。


「枯れているの?」

 指先を当ててみると、液体金属で固められた花弁であることが分かった。

「枯れることがないのね。」

 水をあげても、世界は腐食しないのだろうか。それとも、誰もいない商店街で売られている、この花だけが果ててしまうイドなのだろうか?橙の住処が、時間を隔てて近づく。鉱石とは純粋なる生涯を指し、果物を食べることが出来ない自分に酷似している。

 それが、この感動すら持たない心の在り様なのだろうと。

「…帰らなきゃ。」

 金属の輪郭線が闇色に染められ、葉の一部も、透明な青が焼け焦げてしまった装飾も、その一輪を輝かせるべき総てが、壊れてしまう前に。私は、その花から視線を逸らして、家々が灯し出した光を道筋に、歩き去っていったのだった。

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