第4冊「同調吐説」③

「あれ、阿世あせいさんだ。何してんのこんなとこで」


 と、ボロボロ泣いているところに声が聞こえた。


 それは聞いたことのある声だっだ。


「へえー、しっかしここに同級生がいるなんてびっくりだな。てっきり俺しかこの場所、知らないと思ってたけど」


 そう言って、石段を登ってくる。男子の声だった。


 うちの学校のジャージを着ていた。


「わ、わああああ」


 わたしはハンカチでごしごし顔を拭った。ニキビが少し痛かったけど気にするものか。


 男子に泣いているところを見られるとか嫌すぎる。


 涙はいいけど泣き顔は嫌だ。


 一生の汚点だ。一日に二度も屈辱を受けてたまるか。


 頬に残っていた涙を拭いて拭いて鞄にしまって、何もなかったふりをした。むりやり何回か咳をして、呼吸を落ち着かせた。


 そして改めて見ると、やはり知っている人だった。


 同じく二年生の和光くんだった。


 本名は和光わこうじんという。


 小学校の時、確か一年四年六年で同じクラスになった男子である。めちゃくちゃ足が速くて、中一にして大会の短距離で記録を残して、表彰もされていたし、何なら校門のところに垂れ幕が掛かっているくらいの選手である。光神(コウジン)、なんて綽名が付いていたらしい。


「おっひさー」


「お久しぶり、ひょっとして入学ぶりだよね」


「だね」


 少し安心だった。彼は人を馬鹿にするような人ではない。


 当時まだ(今と比べれば)コミュニケーション能力のあったわたしに時々お勧めの本を聞いてきたので、よく覚えている。中学校に入ってからはクラスも変わり、彼も部活が忙しくなってほとんど話していないし、有名人の知り合い気取るのもなんかなー、まあきっと昔のことだしわたしのこと忘れちゃったよねー、なんて思っていたけど、覚えていてくれたらしい。ちょっと嬉しかった。


 あれ、でもどうして、彼はここにいるのだろう。


「和光くんって、今日部活じゃないの?」


「ん、あー、そっか。阿世さん知らないのか、ほら」


 昔は、あっちゃん、わっくんなんて呼び合った仲だったけれど、結構時間も経ったのでちょっと気恥ずかしくって、そんな風によそよそしくなってしまう――いや。


 わたしのそんな乙女羞恥心をひっくり返すように、それは目に入った。


 ほら――と言って、和光くんは左のジャージのズボンの裾をたくし上げて、そこには。


 足首あたりに、白い包帯が巻かれていた。


「一か月前くらいかな。怪我しちゃって」


「…………」


「短距離走はもう無理っぽいんだよ。手術すればひょっとすると上手くいくかもしれないけれど、悪化する恐れもある。手術の結果によっては、車椅子らしいんだよな。歩けなくなるよりかは、ここで諦めちゃった方がいいかなって。まあ、医者とか親とかと相談してさ、親はお金出すって言ってくれたけど、俺が決めた。陸上辞めるって」


 見れば分かることだった――そもそも、左足だけ、靴ではなくてサンダルであった。


 一気に悲しみが引っ込む。


 しまった、謝らなきゃ。


「………ご、ごめん。なんか」


「大丈夫だよ。無理な練習が祟ったって言うか。まあ俺も色々と無茶しすぎたんだなって思ったよ。ほら、俺一年生だったじゃん。上の先輩からの嫉妬じゃないけどさ、あー、なんか気に喰わないんだろーなって思ってたし。あと顧問の藤山フジヤマからの期待とか? あと二年間、そういうの背負って走んなきゃなって思って、余計なこと考えすぎて走ってたからかもしんない。ま、もう部活にはいかなくていいから、楽なんだけどなー」


 そんな風に言って、和光くんはにかっと笑った。太陽のような笑顔だった。


 嘘偽りはなかった。そもそも無理して虚勢を張るような男子じゃない(無理した時は全部顔に出るのだ、めちゃくちゃ分かりやすい)。


 既に、乗り越えているのだ。

「……陸上、好きだったんじゃないの?」


「好きだったよ。なんなら今でも好きさ。だからこそ極めた――んだけど、どうも俺は極めるのが早すぎたみたい。それに身体が付いていけなかった。練習も結構過酷でさ、それも愛の鞭ってことなんだろうけど。それでも、正直走ることは嫌いになりかけてたと思う。だから、まあ、丁度良かったんだよ。好きなままで、嫌いになる前に、離れられたからさ。それに俺が辞めてから、陸上部の雰囲気、良くなったらしいしな」


 あ、これ藤山には絶対言うなよ、と、悪く笑った。


「……………」


 すごいなあ、と素直に思った。


 そんな簡単に、好きなものを諦められて、手放すことができて――決意することができて。


 本当にすごいと思うのは、自分で決めているところだ。誰にも責任を、押し付けていない。


 そして好きなものを、好きでい続けている。



 わたしなら、誰かの意見に乗っかって、もし上手くいかなかった時はその人のせいにしてしまうだろう。「だってあの時お父さんがやれって言ったからそうしたのに」なんて、わたしが言いそうな言い訳ランキング第三位である。後は、過酷な練習を強いた顧問とか、変に期待してきた周りの大人たちとか、そういう人達のせいに――きっとわたしはしてしまうのだろう。


 人からの意見で揺らぐわたしとは大違いだ――。


 そんな風に思って、少しだけ自分が嫌いになった。


「それで、あっちゃんはどうしてこんなとこで泣いてんの?」


「え? え?」


 なんでわたしが泣いてたって分かるのだろう。


「いや、顔見りゃ分かるって。今さっきまで泣いてましたーってくらい、泣き腫らしてんぞ、目の周り真っ赤だぞ」


「…………」


 終わった。

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