第3冊「瞑想常軌」⑤


 のは、二週間前の話である。

 

 大好きだった小説をいくら読んでも、その文字情報が頭に入ってこない。いや、文字列としては認識することができているけれど、物語として認識することができないのだ。ああ――私も不可思議な日本語の使い方をしていることは自覚している。


 そしてその事実は――相当に私にとってショックだったらしい。


 今から考えれば、傾向はあった。


 今まで出来ていたことが、だんだんできなくなっていった。仕事も、プライベートも、体調も、どんどん良くない方向に向かっていた。多分ストレスが原因だろうと医師には言われていたけれど――仕事を辞めるわけにもいかない。ずるずると生き続けて、二週間前だ。


 ふと本を手に取り、読めなくなったという事実を確認して。


 、と。


 思い立ったのだった。


 それは内容に反して、あっさりとした決断だった。

 

 学生時代、心の病とは縁のない人生であったし、身の回りにそういう人はいなかった。どこか本気で「心の弱い人がかかる病」だと思っていた節もある。


 でもだからこそ私は、気付くことができなかったのかもしれない。


 自分が、限界だったということに。


 それからは、身辺整理の数々である。やる気のない私が掃除などをやろうと思った理由は、これなのだ。


 正直まさかこんなガキにバレるとは思っていなかった。

 

 彼女の御指摘の通り、私は死ぬために、部屋の掃除をし、死ぬために身の周りの整理をし、死ぬために最後の手綱である小説を売却しに来たのだった。


 立つ鳥後を濁さずという言葉があるように、後を濁さず自殺とうとしたのだ。


 虫姫は、こういう時に限って、先程までの口八丁を収めて静かになっていた。意外と空気の読めるものであると感心して、その感情がどこかに消えた。


 そう――この子は多分、理解っている。


 自殺決行日が今日で、だからこそ最後の砦である小説を売りに来たのだ――ということも。


「本当、良く分かったね」


「半分は当てずっぽうだけどな。ごくたまにあるんだよ。小説を拠り所にしていて、それを最後通牒にしている人が――最後に古本屋に売りに来るって場面がさ。それに遥、眼の下隈だらけ――今にも死にそうだぜ。あたしじゃなくとも、そりゃ心配にもなっちまう表情だ」


「別に、身辺整理をしようって思っただけじゃないよ。自殺した後、家を調べられて、『○○先生の影響で』なんて報道されたく……なかったから」


 今にも死にそう、ね。小学生からそう見えていたのなら、大人にはよりバレていたのかもしれない。会社の先輩が急に優しくなったことの理由付けが、ここに出来てしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る