第2冊「邯鄲のあゆみ」⑦



 その感覚に酩酊している間に、いつの間にかあゆみは、姿を消していた。


「…………」


 まったく、あいつめ。


 まるで自分が、鶴野閑雲であるかのような言い草だったじゃないか。


 推薦で大学が決まっている――と言っていたけれど、それも小説執筆のお蔭という可能性も高い。また何より『待っている』『私の産んだ物語』『あなたと肩を並べて』という表現。鶴野先生の作品を説明した時の、照れくさそうな顔――全ての伏線が、今そこに集約されつつあった。


 加えて何より、最初の『不快』という言葉だ。


 自分の好きな小説が、あるいは自分で書いた小説が、死にそうな顔で眺められていたら、誰だって不快に思う。


 特に本人なら尚更だ。


 あゆみを追いかけようかどうか迷ったけれど、止めておいた。


 鶴野先生は容貌を公開してはいない。


 このまま、分からない方が良いと――思ったからである。


 分からないままに、曖昧でごちゃまぜの、変わった物語に出会ったとでも思うことにしよう。なんてね。


 全く、最初から最後まで、奇妙な高校生だった――なんなら将来が心配なくらいだ。もうしばらく、あんな奇天烈な奴に出会うことはないだろう。


 取り敢えずぼくは、書店を出た。


 しばらくあの店に、用はない。店を出る時に、亭主の頑固爺に「もう良いのかい?」と聞かれた。まったくどいつもこいつも、察しが良い。

 

 多分ぼくはもう、辛い顔で小説を手に取ることはなくなるだろう。


 ともすればひょっとすると、小説を読む機会も減るかもしれない。


 人生を過ごしていくうちに、小説家以外の別の自分を、見出すかもしれない。


 あゆみの言うよう、「好き」と「義務」には、それだけの溝がある。


 大好きなものが、いつの間にか大嫌いになっている。


 あのまま読み続けていたら、ぼくは鶴野先生どころか、小説そのものを嫌いになっていただろう。

 

 誰かになるより――何かになる、ね。

 

 まあ、大学生活は残り三年ある。

 

 その間にせいぜい楽しんで、苦しんで、読んで、そして生きて。

 

 なりたい自分を探してみようと。

 

 そんな風に思った。


 

 この後、架屋あゆみは新入生として、磊落大学の国文学部に入学して来るのだが――それはまた、別の物語である。



(第2冊――読了)

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