第2冊「邯鄲のあゆみ」⑥
「『義務』が『好き』に敵うはずがないでしょう」
「っ……」
少なくとも。
少なくとも、ある程度以上の
ぷつんと。
ぼくの中で張り詰めていた糸が、切れたような気がした。
ごちゃついた思考回路が少し
「ったく、女子高生に論破されるとはな。ぼくも作家志望失格かな」
「何を言っているの、これからじゃない。これからあなたは、小説を好きになるところから、もう一度始めなければならない」
「ぼくは……ぼくはどうすれば良いんだよ」
そんな情けない台詞が、ぼくの口からこぼれ出てきた。
本当、女子高校生に篭絡されているようで心苦しい所もあるが、それ以上に、小説家を目指す者として――何より読書家として、彼女に上に立たれていることを、この上なく自覚してしまったからだ。恥ずかしかった。もう、自分の全てを否定したくなるくらいに。
「はあ? 知らないわよそんなの。言ったでしょう。あなたが鶴野閑雲になることはできない。人は誰かの代わりにはなれないのよ」
架屋は容赦なく言った。本当、躊躇ってものを知らないのかこの女は。ただ、そんな口調にも、もう何となく慣れてしまったものだった。いつの間にかぼくは、架屋と敬語もなく会話していた。そんな友達、大学にはいないというのに。
架屋は言葉を更に添えた。
「……代輔が鶴野閑雲そのものではなく、小説家になりたいのだったら。まずはその読書狂で書痴で読書中毒の人生を辞めて、普通に生きてみることをお勧めするわ」
「普通に」
「そう。普通に大学に行って、普通に友達と仲良くして、普通に勉強して、普通に旅行したりして、普通に喧嘩して、普通に本を読んで、普通に、生きて。そしてその上で物語を書きなさい。小説家を構成するものは、小説だけじゃあ、ないのよ。あなたの人生の到達点の一つが、小説家だけではないようにね」
「……あはは。君の、言う通りだ」
もう、ぼくは何を言えば良いのだろう。見失っていたのは、鶴野先生像ではなく、ぼく自身の心、だったということか。そんなものを女子高生に見透かされるとは、ぼくもヤキが回ったものである。
「もし――普通に生きみて、それでも小説家になりたいと願うのなら、わたしは止めない。待ってるわ。あなたが文壇に登って来る、その日まで」
「……まるで小説家みたいなことを言うな、君は」
「君ではなく、あゆみと呼びなさい。鶴野閑雲の作中に登場する人物なら、きっとわたしをそう呼ぶでしょう」
「……そうだったな、あゆみ」
そう言って、あゆみは、手に取ったムック本を本棚へと戻した。
買わないのかよ。
「ふう、これでせいせいしたわ。もう代輔の陰気な面を拝まずに済むと思うと、一週間ぶりに晴天になったような気分ね。これで心置きなく洗濯物が干せるわ」
「なんだよその比喩」
「清々しいという意味よ。あれ、代輔、憑き物が落ちたみたいじゃない。ちょっとこっちを向きなさい。ふうん、へえ。案外格好いい顔しているのね。彼女はいるの? あらそう。え、何? 仕方ないわね。そこまで言うのなら、特別に結婚を前提に付き合ってあげてもいいわよ」
「やめろ」
良いことを言っても、人間はそこまで簡単に変わらない……か。
そりゃそうだよな。
ただ、簡単以上になら、変わるってことだ。
そう思って、少しだけ迷って、ぼくは手に取ろうとしたムック本を、諦めた。
だれか、鶴野閑雲が好きな人に届けば良いなと、願いながら。
「それと――最後に一つだけ」
杉下右京ばりの指の立て方で、架屋が最後にこんなことを言った。
「私の大好きな小説たちを、私の産んだ物語たちを、そんな鬱屈な眼で見るのは止めなさい。その物語たちに会ったことが、今の私の出発点なのだから。敬意はなくとも、愛を持って接しなさい」
――それじゃあまた、未来で逢いましょ、屋上代輔さん。
彼女から初めて、名前を呼ばれたような気がした。
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