第2冊「邯鄲のあゆみ」⑥

「『



「っ……」

 

 少なくとも。


 少なくとも、ある程度以上の辛辣しんらつな言葉には対抗できるように、心の準備はしていたつもりだった。でも駄目だった。それだけは、その言葉だけには、抗えない。確かにその通りだ。ぼくは小説を義務で読んでいた。そうしなければならない――そうありたいという理由で、読み進めていた。そこに面白いとか、楽しいとか、そういう感情が入り込む余地なんて、微塵もなかった。ただ小説家になるため――その一点しかなかった。そんな自分が――死にそうになりながら小説を摂取し、死にそうになりながら勉強する自分が、果たして「好き」で小説を書く者に匹敵できるか。できるはずが――なかった。ぼくは項垂うなだれた。ああ、そうだ。だから同級生たちは、ぼくを笑ったのだ。そりゃ笑われるはずだ。大好きな小説を読んでいるはずなのに、どんどん退廃していくのだから。何より辛いのは、架屋のそんなある種観念的な――「楽しみ」「好き」の話に、ぼくが納得してしまっていることだった。小説が好き、小説を読むのが楽しい、そんな気持ち、ぼくはすっかり、その、忘れてしまっていた。目の前のことに、がむしゃらに取り組む。たとえそれが報われなくとも、莫迦にされようとも、何を言われようとも――その過程こそ最も美しい。それは、鶴野先生がテーマにしていたことの一つではなかったか。


 ぷつんと。


 ぼくの中で張り詰めていた糸が、切れたような気がした。


 ごちゃついた思考回路が少したわんだ。


「ったく、女子高生に論破されるとはな。ぼくも作家志望失格かな」


「何を言っているの、これからじゃない。これからあなたは、小説を好きになるところから、もう一度始めなければならない」


「ぼくは……ぼくはどうすれば良いんだよ」


 そんな情けない台詞が、ぼくの口からこぼれ出てきた。


 本当、女子高校生に篭絡されているようで心苦しい所もあるが、それ以上に、小説家を目指す者として――何より読書家として、彼女に上に立たれていることを、この上なく自覚してしまったからだ。恥ずかしかった。もう、自分の全てを否定したくなるくらいに。


「はあ? 知らないわよそんなの。言ったでしょう。あなたが鶴野閑雲になることはできない。人は誰かの代わりにはなれないのよ」


 架屋は容赦なく言った。本当、躊躇ってものを知らないのかこの女は。ただ、そんな口調にも、もう何となく慣れてしまったものだった。いつの間にかぼくは、架屋と敬語もなく会話していた。そんな友達、大学にはいないというのに。


 架屋は言葉を更に添えた。


「……代輔が鶴野閑雲そのものではなく、小説家になりたいのだったら。まずはその読書狂で書痴で読書中毒の人生を辞めて、普通に生きてみることをお勧めするわ」


「普通に」


「そう。普通に大学に行って、普通に友達と仲良くして、普通に勉強して、普通に旅行したりして、普通に喧嘩して、普通に本を読んで、。そしてその上で物語を書きなさい。小説家を構成するものは、小説だけじゃあ、ないのよ。あなたの人生の到達点の一つが、小説家だけではないようにね」


「……あはは。君の、言う通りだ」


 もう、ぼくは何を言えば良いのだろう。見失っていたのは、鶴野先生像ではなく、ぼく自身の心、だったということか。そんなものを女子高生に見透かされるとは、ぼくもヤキが回ったものである。


「もし――普通に生きみて、それでも小説家になりたいと願うのなら、わたしは止めない。待ってるわ。あなたが文壇に登って来る、その日まで」



「……まるで小説家みたいなことを言うな、君は」


「君ではなく、あゆみと呼びなさい。鶴野閑雲の作中に登場する人物なら、きっとわたしをそう呼ぶでしょう」


「……そうだったな、あゆみ」


 そう言って、あゆみは、手に取ったムック本を本棚へと戻した。


 買わないのかよ。


「ふう、これでせいせいしたわ。もう代輔の陰気な面を拝まずに済むと思うと、一週間ぶりに晴天になったような気分ね。これで心置きなく洗濯物が干せるわ」


「なんだよその比喩」


「清々しいという意味よ。あれ、代輔、憑き物が落ちたみたいじゃない。ちょっとこっちを向きなさい。ふうん、へえ。案外格好いい顔しているのね。彼女はいるの? あらそう。え、何? 仕方ないわね。そこまで言うのなら、特別に結婚を前提に付き合ってあげてもいいわよ」


「やめろ」


 良いことを言っても、人間はそこまで簡単に変わらない……か。


 そりゃそうだよな。



 ただ、簡単以上になら、変わるってことだ。

 

 そう思って、少しだけ迷って、ぼくは手に取ろうとしたムック本を、諦めた。


 だれか、鶴野閑雲が好きな人に届けば良いなと、願いながら。


「それと――最後に一つだけ」


 杉下右京ばりの指の立て方で、架屋が最後にこんなことを言った。


、そんな鬱屈な眼で見るのは止めなさい。。敬意はなくとも、愛を持って接しなさい」


 ――それじゃあまた、未来で逢いましょ、屋上代輔さん。


 彼女から初めて、名前を呼ばれたような気がした。

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