騎士と墓暴き・4/よるさんぽ
深夜三時になるくらいだろうか。
船谷の端にある、地下鉄駅の出口と幹線道路に沿うように存在する小さな商店街の一角。
今はもう商いを行っていない小さな和菓子屋を一階に構えていた三階建てのビルがある。
ビル、というよりは規模としては三階建ての住居の方が近いかもしれない。
三階建てにはこのビルの持ち主の老夫婦が住み、ヤクモアヤコはその二階に住んでいた。
換気扇はあるものの、窓はなく、床も壁もむき出しのコンクリートの、いわゆる打ちっぱなしだ。
さすがに冷たいのでラグは敷いているが、その上に小さな机とノートパソコン、タブレットとスマートフォンにカムが放置されている。
スタンド式のハンガーに姿見が一つずつ、クローゼットがいくつか置かれているほかは、あとは家具と言えるのは、エアコン、小さな冷蔵庫にマットレスと寝袋くらいしかない。
その場所……ヤクモの部屋は、人間の居住スペースを前提としてつくられた場所ではない。
廃業した商店の二階倉庫を部屋として使っているのだ。
以前にも人が住んでいたことがあるらしく、壁一面を潰す形で、申し訳程度のシンクと、かろうじてのユニットバスは無理やり増設されてはいる。
その壁はボードで出来ているため、メモや書類ポケットはそこに張り付けてある。
それを差し引いて、使えるスペースが十畳以上あるのは数少ない長所と言えたが、それを活かすほどものが配置されているわけではない。
ありていに言えば、殺風景な部屋だ。
家賃を出すのに困っているわけではないが、ヤクモがえり好みをしないのと身元を出来るだけ隠したい意図から、彼女は現在こうした特殊な環境に住まうことになった。
マットレスの上に置いた寝袋がもぞもぞと蠢く。
押し殺すようなジッパーの音が響いて、暗い部屋で寝袋が開く。
「カップ麺」
青色のインナー姿のヤクモが、寝袋から体を起こして呟いた。
六戸の穢療を受けた後、帰ってきてシャワーを浴び、食事をしないまま寝たのだ。疲れもあったろうが、半日以上寝ていた計算になる。
あくびを打って、彼女は寝袋を抜け出すと、ラグの外側に置かれたデッキシューズを雑に履く。
それから部屋の隅のカップ麺の箱に向かうが箱は空だった。
昨日の夜警前に買い足しておくつもりだったのを忘れて、後回しにしていたのだ。
「みず」
彼女は、踵を返して部屋の隅の冷蔵庫に向かう。
開いても照明を点灯しない簡易な冷蔵庫だ。
暗い部屋で、冷蔵庫を開く。息を飲んでいた冷蔵庫が、ひやりとした空気を吐き出して、ヤクモはその中にあるミネラルウォーターの五百ミリリットルのペットボトルを一本手に取った。
ペットボトルを一気に飲み干して、ヤクモは少し目を覚ます。
久しぶりにゆっくり眠った。
しかし、一日何も食べていなかったのは大きく、軽いめまいか貧血のような脱力感がある。
軽食を調達に行こうとヤクモは思い立ち、ハンガーにかけてある腿まで覆うようなオーバーサイズ、バイオレットのパーカーを手に取り、首を通す。
束ねていたミディアムの髪をほどくと、バングのような跳ね方をするのは彼女の本来の髪質だ。
ハンガーの端に掛けてあるニット帽子を目深に被って、パーカーのフードも上げる。
暗くて、底冷えのするこの部屋がヤクモは存外気に入っていた。
余計な装飾が無く、目を惑わすものがない生活をしてみてわかったが、本来的に自分に合っている。
以前は年相応の女の子らしさを心掛けていたが、どこか疲れるところがあった。
いつも人の目を考え、気にしていたのだ。
その時に比べたら、もしかしたら怠惰になってしまったかもしれない。
化粧だって、今は最低限しかしていない。
この生活も、期せずしてカラウスの真似のようになってしまったが、それだって悪くない。
部屋の中を振り返ると、彼女はドアを開いて外に出て、鍵をかける。足元すぐの階段に足を掛けると、誰かが小走りくらいの速度で昇ってきた。
原付らしき軽い排気音が鳴っている。
上階の大家がとっている新聞を配達に来た新聞配達員だろう。
狭い階段で半身をずらし、会釈して彼を避ける。
中年の男も黙って面倒そうに眼を細めると会釈して、そのままのペースで昇って行った。
「平和ではないが、あるものは全てこの世にある。すべて世は事もなし。あるように世界は乱れ、平たく回り、今日の続きのいつかの明日に俺は死ぬ。それは平常なことだ」
カラウスがいつかいった言葉だ。彼女は暗い階段を下りながらそれを呟いた。
商店のビルは、表通りから入った細い道にある。
歩道の舗装は大分長い事されていないようだ。
街灯も随分少なく、車道は一方通行で、この時間はほとんど通行人はない。
もうすこし表通りに寄れば居酒屋なども見えるようになってきて人の往来もあるが。
表通りの、いつも使うコンビニエンスストアを目指す。
一階のビル脇に止めた自分の原付、ペスパに乗って出るほどの距離ではない。
カムの電源を入れる。
音楽プレイヤーを起動して、二年前の自分がまだ自分だった時に作ったプレイリストをスマートフォンで再生する。
あの時からこのプレイリストは更新されていない。
夜歩くことが多いから、夜をイメージした曲が中心だ。
「バンチョー達は、まだ船谷にいるのかな」
こうした静かでわずかな時間、ヤクモは自分を、過ぎ去った思い出を回想してしまう。
それはあまりいい事ではないと彼女自身は思っているが、それなしで今の姿勢に耐え続けることはできないだろうとも結論している。
先は長い。今はこうするのが最善だ。
吐く息は白い。横着せず、パーカーだけではなく厚着をしてくればよかった。
どうせそんなに長いことじゃない、彼女は表通りの灯の見えるところまで来た。
歩道の横には、支流の小さな川が流れている。
夜は息をしていて、その息遣いが水面に表れているような気がする、彼女はそれをぼんやり横目で見ながら進む。
表通りにさしかかると、大分明るくなった。設置されている街灯の密度も、サイズも何周りも側道よりも大きいものであるからそれは当然だ。
コンビニエンスストアが見えてきた。
表からうかがうと、店員の姿がレジにない。
品だし中か、奥のスペースで待機しているか。
暇な時間を奪ってしまうのは申し訳ないが、ヤクモは自動ドアをくぐって入店する。
奥の方で人影が動いた。
品だしの方か、とヤクモは籠を取り、壁沿いのカップ麺の棚に向かう。
店員が、ヤクモが通り過ぎたレジの横の部屋から眠そうな目をして出てきた。
──じゃあ、今のは他のお客さん?──
船谷でもないと言い切れることでもないが、まぁまぁ珍しい事ではある。
ヤクモは小首をかしげて、カップ麺の棚を見上げる。
悩むほどの事ではないが何を手に取ろうかわずかな時間考える。
ふと、背後に人の気配を感じた。
それだけなら、ヤクモは振り向くことはしないだろう。
しかし、その気配、息遣いのようなものに、知っている覚えがある、とヤクモは感じた。
まさか、という気持ちが湧く。
向こうも同様に息を飲む気配がした。
ヤクモが振り向く。
「えっ……」
「シルリさん……」
そこに立っていたのは、昨日、偶然再会した熾瑠璃カノンだった。
カノンも、目を見開いて呆然としている。
何を言えばいいのか。ヤクモは言葉を失った。全く予想もしていなかった事だからだ。
「レイさん……?」
そうだった、まずはそこからだ。ヤクモは、最初に言うべき言葉を見つけた。
コンビニの店内は、歩いてきた道と違い、全てを明かすような強力な灯で照明されている。
明るすぎる場所が、私は以前からひょっとしたら苦手なのかもしれない。
ヤクモは帽子を少し目深に直して、脈絡のない事を考えた。
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