オデットはもういない・14/オデットはもういない

 高機能体、と言葉に出してヤクモは形の良い小さい唇をきゅっと結ぶ。


 彼女の小さな膝の上に置いていた手が、軽く握られるのも認められた。


 恐れ知らずの彼女からしても、高機能体と相対する事態は畏怖の対象であるのかもしれない、と六戸は眼鏡の奥の目を細くする。


「タバコもあるんだけど、吸うかい」


「もらう」


 六戸は錆びて歪んだスチール机の引き出しを引く。


 そうした年季の入った机である為、引き出す際に二度ばかり引っかかりはしたが、六戸は引き出しを展開して、その中からビニールのパックに梱包されたタバコ葉と巻紙、それにマッチを取り出す。


 手巻きタバコだ。


 ────この世界の社会は、密度を高めた人の気の澱、すなわち淀澱の流れが脈を為し、実体を持って人間の前に現れた対象を指して、淀澱現象体と呼ぶ。


 夜にだけ現出するこの人型は、孤独なものに誘われて現れるとされており、現れた彼らと一体になることを受け容れた人間は、肉体と自我を捨てて、夜に流れ彷徨う霧の一部となる。


 淀澱の流れは人の活動するあらゆる場に存在し、現象体はその流れが留まる場のどこにでも発現し得る。


 人の観測を外れたとき実態を持って現象し、煩わしい外界との一切と切断を望む声に惹かれ、漂う孤独の流れに人を掬い入れるべく現れる。


 そうした機能が現象体だ。


 この現象体の発現が起こる際、高密度の淀澱によって現出する現象体の中に、回想し再生した人間の姿に執着する高能力の現象体が観測される場合がある。およそ十回に一回の割合だ。


 殆どの場合、高機能体として出現した現象体は、スイーパーやナイトウォッチを含め、手当たり次第の人間を取り込もうとする。


 現象体の出現を監視するナイトウォッチ、現象体を攻撃で排除する集団スイーパース、共にこの高機能体への警戒には一段強い注意を払ってその任に服しており、出現の兆候を観測した場合はその段階で即時応援のスイーパーの手配がほぼ確実視される事になる。

 高機能体は目的意識(人間への反応も高度で、意思のようなものを有しているのは確実視されている。反射でとどまる反応ではなく、意識レベルが明快に高いと結論されている)も能力も強く、対処する能力が不足していた場合、際限のない被害の拡大が起こり、大事故となるためだ。────


 机の向こうにある小窓を、六戸は開いた。


「……高機能体と相対した場合、スイーパーの戦力を使う事を前提としておいた方がいい」


 六戸は、マッチに点火してヤクモのが口元に持って行ったタバコに火を近づける。


「抵抗はある、課題も出来る。……でも、わからない話ではない」


 ヤクモがタバコを深く吸って、マッチから移った火が安定するのを待って、煙を吐いた。


 猫のような大きな目が六戸を見据える。


「人の話を聞いてくれるのは、キミのいいところだ」


 六戸も、口にくわえた自分のタバコにマッチを素早く持って行って火を移す。手慣れたものだ。


「君はいつだって残機ゼロだ、リスクは取れない。しかし、リターンは絶対に回収したい。

 高機能体の出現に直面した際の行動を組み立てておくべきだね」


 諭すような口ぶりの六戸の言葉に、ヤクモは肯いて、自分の胸元に手を置く。六戸の触れたあの異物のある場所だ。


「成功しかできない。時間も機会も有限だ」


 窓を開けてはいるが、その曇りガラスのはめ込まれた窓の大きさは部屋の狭さに比してなお小さい。


 室内には、タバコの匂いが充満している。


「高機能体の現象がどのエリアでいつ起こるか分かれば、狙い撃ちのようなことも出来るだろうけど」


「クリーンパトロール警邏は船谷の外は見ていない。他のエリアにもつなぎが出来れば拾える機会は拡がるかもしれない」


 ふうむ、と六戸は唸ってタバコを深く吸い込んだ。


「悩みどころだが……船谷は淀澱の出現密度ではだんとつで東京随一、新宿池袋よりも上だ」


「集中して、船谷で根を広げるべきだということ?」


 ヤクモが短く煙を吐いて、けほっと咽る。タバコを吸いなれているほうではないらしい。


「虎穴だな」


 六戸がコーヒーを茶碗から一口飲んで、まだ熱かったためか眉をしかめる。

 ヤクモは、もう一口タバコを吸う。


「そうだね、サンガ夜警の警邏範囲も抑えておきたい」


 六戸は、ヤクモのは紫煙を目で追いながら長い髪の毛の間を搔く。


 船谷のナイトウォッチがカバーする範囲はヤクモ属するクリーンパトロール警邏よりも傘家の経営するサンガ夜警の方が大きい。


 サンガ夜警は、戦闘に関してはクリーンパトロール警邏と同系のユグド掃備に委託をしている。


 ヤクモは、この一年サンガ夜警とのコンタクトを極力回避してきた。


 サンガにヤクモと六戸の目的を感づかれるわけにはいかないゆえにだ。


 それはヤクモと六戸、二人に共通する認識だ。


 それが破られてしまったら、二人の強力なバックボーンであるニヅキへも影響は避けられないだろうし、彼らの計画にどんな影響が出て、どれだけ遅れるか想像もつかない。


 二人が予想するその事態への評価がこれだけネガティブなのは、サンガの性格からいっても彼らの計画がとても受け入れられることではないというのも大きい。


「方法は考えないといけない」


「ニヅキさんに動いてもらうべきかな」


「無難なところだね……」


 診療台の下にあるハムスターのケージから、カシャンと音が鳴る。


「彼女も油断のならない相手なのは変わらない、僕がコンタクトを取って渡りをつけよう」


 六戸の言葉に肯いてヤクモはコーヒーに口をつける。


 ヤクモの脳裏に、昨晩見たカノンの驚いた顔が蘇ってくる。


 ────彼に計画を気づかれてしまうのもまずい。


 知っている限り、彼はできすぎの善人を絵に描いたような人間だ。


 私がレイハジメであることを知られてしまったのはもう取り返しのつくことではないが、彼にも計画を察知されずにことを運ばなければならない。


 人の目の無い、本当の闇の中ですべてを進められたら楽なのだが


 ────


 ふぅ、とヤクモはため息をついてコーヒーを煽る。


「カラたんはため息なんかついた事ないよね」


 どこを向いても難しい事ばかりだ。

 ヤクモは足元も見えず、脚をとる穴や、自分をとがめる人の目もどこにあるかわからない闇の中を往く、これからの道程の難しさを思って、ほとんど無意識に独り言を漏らす。


「ああ、しかしカラウスは今いない。……いないのならいる者が出来ることをするしかない」


 ツゥ、と音を立てて六戸は熱いコーヒーを無理に啜った。


 窓から入る暖房の室外機が排熱する風のせいか、今いるこの室内は変に熱っぽく、埃っぽい。


 ヤクモは煙草の煙と、薄汚れて埃っぽい室内で、埃が蛍光灯の光を受けて反射させるぎらと刺さる目に痛い光を見て

 昼間の白鳥の湖の流れるコマーシャルを思い出す。あの、不自然な明るさに満ちた画面を。


「オデットは、もういない。それは間違っている」


 吐き出すように、ヤクモが呟いた。

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