オデットはもういない・13/魔術師とオディール・2

 六戸は深く息を吐く。


 診療台に腰かけて、インナーだけの姿になったヤクモは脱いだセーターと薄いシャツを、脇に押しやると、身体を支えるように診療台に手をついて脚を伸ばした。


 六戸が跪いて、ヤクモの脚にそっと手を触れる。


 うっ、とヤクモが目を閉じて小さく呻いた。


「それじゃあ……触るよ」


 ヤクモを見上げて六戸が囁く様に言うと、ヤクモは黙って小さく肯いた。


「つぅっ……」


 今度はヤクモが大きく声に出す。


「すまない、六戸さん、続けてくれ……」


 ヤクモの踵を左手で抑え、脛に手を這わせていた六戸が手を止めた。


「痛むだろうけど、声はちょっと我慢して」


「うぁ……っあ……」


 声を抑えるために、ヤクモが手を曲げて口元にあてがう。少し顔も上気しているようだ。


 六戸が静かに呼吸を整え、静かに、ゆっくりと這わせた指先を痣に宛がう。


 指先の感触から音を聞く様に、六戸は目を閉じて集中を深める。


 六戸の指先は淡く光を放ち始めていた。


 音もなく、六戸の指が水中に沈むようにヤクモの痣の中に潜る。


 潜った六戸の指は今や掌に至るほどヤクモの脚に埋まり、骨に触れられたらしきヤクモの肩が強張る。

 彼女は目を閉じ、短く息をして痛みに耐えている。


 今は痛覚の遮断に地穢を割けないのだ。


「……そもそも、もとが粉々だったか。繋ぎきれないにしても、よくここまで整えたものだ」


 言葉が、声となり六戸の外側に発せられて浮かぶ。声に出るのは集中しているときの六戸の癖だろうか。


「また、息が乱れてきている。……息を整えて。いつも通り、入った箇所に地穢の流れを誘導するから、まだ結構痛むよ」


 目を閉じたまま、六戸が諭すようにゆっくり言葉を繋ぐ。同じように指もゆっくりと、慎重に傷を探るように動かしながら。


 ヤクモは肯くと、自分も集中するために目を閉じ、息を徐々に長くして、呼吸を整える。


 六戸も長く息を吐く。六戸の手の潜った場所が淡く光っている。


 呼吸に合わせて光は明滅して、二人の息だけが響く。


 目を閉じたまま、ゆっくり指を動かす六戸は、地穢を利用した肉体の修復を行っている。


 これは掃技の応用で、特に繊細な感覚を持つものにしかできない治療法、穢療と呼ばれるものだ。


 一時的、部分的に同化させた肉体に極度に一点集中させた地穢を流入……というよりも射出させ、負傷箇所を修復するものだ、。ナイトウォッチやスイーパーと言った掃者の他には極度に知る人の少ない、もともとはヨドミ、現象体が非掃技によるダメージから肉体を再生させるのを人間なりに再現して発展してきた外科的治療法であり一種の秘儀のようなものではある。


 この治療法は地穢を日常的にコントロールして運動させ、耐性を持っているものに対して施術しなければ効果が見込めない。


 体内の地穢を操ろうと思って手先指先を同化させても、相手の身体が地穢の運動のさせかたを認識できないのだ。



 結局、発明されたこの施術は使い手もその対象も限られ、現象体の補修のようには大きな欠損を補強するものとまではならなかったが、それでも今日の通常医療に比べれば劇的に短時間で負傷を快癒させることができる事から、負傷と隣り合わせの彼らの世界では欠かすことのできないものとなっている。


 しかし彼らの世界と医療界との関係や、職業イメージがなお悪くなることを懸念する向きもあり、これらの秘儀は一種強固な秘密とされている。


 彼らの世界にとって幸いなことに、まず、学府で発見された概念ではないということ、社会政治的な複雑な事情からくる秘密主義主体の運用がなされていることと、大半の人間は益体もないものに関心を抱く向きが薄い事が嚙み合って、この施術は知る人の少ないものとなっている。


「……できた」


 いつしか、脚の表皮に出来た痣も消えている。


「クリーンパトの穢療師はよく育っているようだが、地穢の総量が足りていないな、

 それに、相手の地穢の反応を引き出せないまま、むやみに出力を上げている……。

 自分に合った出力に絞れていないのもよくない。これでは修復するまえに施術者の地穢が枯渇してしまう、

 よくあるパターンだ」


 何度目かの長い息を吐いて、六戸はヤクモの脚から慎重に同化した指を引き抜く。


「僕の所でやる上は麻酔なしということになるけど、ギリギリ僕の精度ならしないで治せる範疇で良かったよ」


 六戸は、閑古鳥の鳴いた針灸院の営業がてら、詐欺紛いの商品をいかにも好意的にとれる雰囲気の口上で売りつけ、なおかつそれを売り込む本を書いている詐欺師というだけではない。


 特定の企業とは契約していないものの、この治療法、穢癒の名手であり、これを求め来るものは拒まない。


 ただし、本業と言えるこちらは法外な料金を取る為そうそう好き好んでくるものはいないのだが。


「うちは麻酔を入れられる許諾がないからそこは我慢してもらうしかないけど……君の施術はロハだ。クレームは無しだよ」


 腰を上げ、いったん椅子に腰かけた六戸は息をついて茶を一口飲む。


 当たり前のことだが、ヤクモが来る前から卓上にある茶だ、ぬるいだけの代物である。


「礼を言う。助かった」


「一応、注意はしているんだけど、傘家社長が君の事……僕も含めてなんだけど……訝っているようだからさ、怪我の頻度ももうちょっと減らしてくれると助かるかな」


 六戸がもう一口茶を口に含む。よほど集中したのか、声色は明らかに疲れ、茶を飲み込むたびに目をしばたたかせている。


「留意しておく」


「わかっていると思うけど、十兵衛……カラウスはおかしいよ。……本来、あんな人間がいるはずはないと僕は今でも考えている。

 すべてがおかしいから、他人が同じように技を使おうとしても難しい。……例え、あの莫大な地穢を操る術を受け継いだ人間がいたとしてもね。総量を渡されるが、コントロールの術はわからない。そうしたものだ。

 ……どうすればそれをフィックスしていけるのか。課題を見つけるにしても、失敗して初めてどこがかみあわないかわかるということも多いのだろう」


「わかっている。カラた…カラウスは私から見ても異常だった。特別なんだ」


「しかし、噛み合わなくてもいい、という事ではなくて、最終的に噛み合わせないといけないという前提も君にはある。

 時間はかけたくないけど、どうしてもそういうわけにはいかないというバランスだ。簡単に言うと焦らないようにという事だね」


「うん……」


 何事か諭す六戸の話に、ほんの少しヤクモの声色が沈んだ。


 六戸はそれにさして気を留めず、メガネを上げて眼球の間を指で揉む。


「そういう事だから、僕もしんどくてももう一回これをやるのはイヤとは言えない……という流れになる。いや、むしろ僕がお願いをしている立場だからやるしかないのだけど」


 顔を起こすと、何事か腹をくくったらしい六戸はパチンと指の骨を鳴らす。


「お待ちかね。もう一回潜るよ。今度は胸だ」


「ん」


 ヤクモが診療台の上に腰掛けなおすと胸を張る。


 六戸が椅子から立ち上がって、診療台の横に立ち、ちょうどいい高さを探って椅子の上に片膝をつけた格好になる。


 ヤクモは、六戸の手を凝視しながら自分の胸を掌で押しやるようにして、指は胸のインナーを押し下げる。


 ヤクモが示し、六戸が指を慎重に近づけるその場所……ヤクモの鎖骨の窪みの下、胸筋の中央やや上に指先ほどの大きさの半円状の膨らみがあった。胸骨と胸筋の間に何かが埋まり固定されている。厚みはそれほどないのと、鎖骨に近い為インナースーツを着ていれば目立たない、という程度のものだが、異物ではある。


 再び、ヤクモの体内に六戸の指が沈む。


 先ほどよりは楽な施術なのか、六戸の手の動きは先ほどよりも大分手早い。


「今回のはどのくらいだったんだろう」


 六戸の指が、その半円状の膨らみに触れる。


 暫くその半円を指で触れて何事か思案していたらしき六戸は、そのままヤクモに聞く。やはりというか質問と並行して施術が出来るという事は先ほどよりも平易な施術であるらしい。


「砕けてはいたけど、半分……近かったと思う、三分の一よりは明らかに多い」


「上出来。それでも取り込むとこれだけなんだねぇ。やはり密度が上がるわけだ」


 話しながら六戸は、ヤクモの中に潜った手と反対の……つまり左手で、机の上のメモにボールペンで何事か書きつける。

 びっしりと小さな字で書きこまれるそのメモの上面には、前回の記録と思しき走り書きが残っている。

 六戸はそれを書きつけ終えると、前回と今回の領分を分けるべく、記録の境目を線で区切る。


「進んでいるの?」


「形は明確に変わってる。量は微々たるものだけどね。毎回ざっくり教えているけど、百で真球になるとして……多分、今回のはプラス0.5とか6」


 すぅ、と息を吸い込んで六戸がヤクモの胸から指を引き抜く。


 ヤクモは何事か思案するように天井を眺め、六戸の顔を見る。


「前回より加算された数字が大きくないか?」


 軽く肩を竦め、六戸が席を立って、ポットの方に向かう。


「触ってみた限りではという事だからあくまで数字はざっくりだ。けれど、僕の指先の感覚は、君が思っているよりも精細なものだという自負はあるよ」


 今度はインスタントコーヒーを入れるようで、ポットの脇のそれらしき瓶を振って中身を確かめながら、六戸は答える。


 それを持って行ったという事は、湯飲みでコーヒーも飲むつもりだろう。


「いや、間違っているということではない……あれには、質のようなものがあるのかもしれない」


「ふむ……」


 少しの間、六戸の動きが止まり、天井を見上げて何事か思案する。


「突出しているというほどではなかったけど、昨日の現象体はここ何回かの中ではそこそこ強かった」


 ヤクモはアーミーパンツを引き上げて、ベルトの金具を留める。彼女が考え事をする時の癖なのか、人差し指を唇に宛がって自分も天井を見上げて過去の記憶を探る。


「その前のは極端に弱かった、と言っていたね。……たしかに、その時の加算値に比べると、明確に今回のは多い。

 質と量の相関関係、もしかしたらあるかもしれないな……」


「ところで六戸さん」


 薄手のセーターを頭からかぶるとヤクモは六戸を呼ばわる。


「うん?」


「私の分もコーヒー欲しいけど、頼んでもいいか?」


「カラウスは自分からそういうこと言わなかったなぁ……いつもいるか?と聞いたらもらう、と答えるやり取りだけでおしまいだった」


 横の目盛りに目を凝らすのが煩わしいのか、六戸はポットの蓋を直接開いて湯の残量を見ると、お湯はあると答え、棚に目をやる。来客用のカップはそちらだ。


「あ、じゃあなし。聞かなかったことにしてくれ」


「ははは、コーヒーいる?」


「もらう」


 笑う六戸に、努めて真顔でヤクモが応じる。


 六戸は、診療室の入り口近くにある棚に向かう。


「ところで、話を戻すけど、質と量の関係が関係あるなら一つの期待が産まれる、それは判るね」


 棚をの引き戸を開き、来客用のカップを取ると、六戸は肩越しにヤクモの顔を見る。

 その目は暗く光っているようにも見える。


「高機能体……その芯体を取り込んだなら、という期待だね」

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