オデットはもういない・11/魔術師とオディール
「わかった、裏通りから非常階段を使って入ってきてくれるかな」
六戸は通話を切ってスマートフォンを机の上に置く。
「ご多忙で大変なところ、長々お邪魔しちゃったようで」
彼の対面に位置する小さな椅子に腰かけた老人がゆっくり席を立つ。
「いえいえ、貴方を見るのも同じ仕事です。僕の使命ですから……淀澱予防波動装置は、年の初めには届くと思います」
軽く笑いながら、六戸は机の脇に積まれていた小冊子を取り上げて、積みあがった埃を手で払う。
一番上に積まれていた冊子なので退色がひどい。
裏返して、裏面も一応確認する。
こちらはそれほど退色はすすんでいない。隅に著しく小さな文字で『効果量乃至その有無は環境や個人によって異なります』……とある。
それを封筒に差し込み、六戸は老人に差し出した。
老人が言った波動装置なるもののパンフレットらしい。
「ありがとうございます、月々の負担も思ったより小さくて助かりました」
頭を下げて恐縮しながら、老人が封筒を受け取る。
「いいんですよ、ローンの期間は長くなってしまったけど、おじいちゃんは長生きするんですから大丈夫」
立ち上がって、六戸は上方に掛けてあった老人のブルゾンを取る。
「年末年始だけは、娘夫婦の家に行けるので次は来年伺うと思います」
「はい、電話くれるのが一番ですが、来ていただいて空いていれば診ますよ。といっても五階にわざわざ上って様子見るのも大変でしょうから、やっぱり電話をくれるほうがいいかな……?」
狭い診療室の中を器用に進み、六戸は老人の先に立つ。
「良いお年を、というにはまだ早いですかね」
「いえいえ、先生も良いお年を」
老人を送り出して、六戸はドアを閉める。
閉めて、脇に放ってあった南京錠を取り上げるとドアの金具に通して錠を閉める。
バチンとでもいうような硬い手ごたえが返ってきた。
「嫌になるね、研究が進めばこんなつまらない仕事も減るのだろうが」
頭を搔いてブツブツとぼやきながら六戸は廊下の途中を曲がり、布で仕切られ遮られていた方向へ歩く。
本や段ボール箱が山積されたその向こうに、非常口が見える。
ヤクモから、到着するという連絡が入ったのはつい今しがたの事だ。
よく聞けば、風の音に紛れて、非常階段を上ってくる小さな足音がする。
「なるほど、足音が非対称だ」
足音を聞いてみれば、一つは重く大きいが、もう一つは不自然に軽く小さい。
手すりを使って、痛む足を庇いながら階段を上っているのだろう。
六戸は、壁紙が剥がれ、痛んだ壁に寄りかかって腕組すると苛立ったように指で二の腕を叩く。
負傷の絶えない娘だ……。
絶大な力を借り受けながら、それをうまく扱えていないのは間違いない。
こんな調子で失敗されてしまっては、かけた時間も他に替えのない素材もパァだ。もっと慎重になってもらわなければ。
考えをまとめるために六戸は目を閉じて、口の中で呟きを転がす。
足音が非常口の前に立った。
六戸の側から扉を開く。
風が入ってくる。
その風を背負って、コートに簡素なセーターと、無地のミリタリーパンツ姿のヤクモが立っていた。
手荷物やかばんは無い。
……改めて、随分地味な服装をするようになった。
カラウスの事故の時は十八歳だったか、身体的にはその時で成長が止まってしまっている為、彼女の見た目は少々幼いままだ。
一瞬、過去に思いをはせると六戸は軽く頭を下げ、掌で奥を示して中に入るように促す。
「やぁ、ヤクモさん。」
「六戸さん、話した通りだ。よろしく頼む」
「はいはい……」
六戸はメガネを直すと、再度奥を指さしてヤクモに入るように促す。
「別に前来た時から片したわけでもないから、足やってるんだったら足元気を付けてね」
踵を返して六戸はさっさと奥に引っ込む。暗い廊下の障害物を器用に避けながらだ。
ヤクモは壁に手をついて、時間を掛けながら診療室へ向かう。
「骨かな。すぐに治せるとは思うけれど、急ぐのかな」
「向こう四十八時間は大丈夫と思う。今日はその先がまだ見えないから備えておきたい」
「……」
診療室に入室したヤクモはコートを脱いで、躊躇なく床に落とす。
今日変えたばかりの蛍光灯が、ぼんやりとヤクモの白い手を照らし上げている。つやつやした手だ。
六戸はふむと小さく唸った。
ヤクモの天目が見渡せる期間や精度に関しては、カラウスよりも圧倒的に上だ。
これはもともとヤクモことレイハジメが天目に優れる人間だったことによるものだろうか。
ただし、そのムラも大きくなっていることはこれまでに把握している。
少なくとも四十八時間は船谷エリアに現象体が現れることかないのは間違いないだろう。
しかし、その先で彼女が調子を落としていたりするならば現象体の出現に把握できないものが出るかもしれない。
現象体が出現したとしても、多くは夜警会社、掃備会社によってフォローされている。
まず事故に発展することはないだろう。
しかし、彼らの監視は明らかにヤクモの天目よりも劣る。
そこで彼らの監視から漏れるヨドミをケアできないのは……
「勿体ないからね」
六戸は唇の端を歪めて、メガネを押し上げる。
ヤクモがデッキシューズを脱ぐ。調達した新品だろうか。もう踵が潰れている。
ミリタリーパンツのベルトを緩めて、金具のフックを外すとそれがヤクモの足元に落ちて素っ気ないグレーのインナーと白魚のようなすらりとしたヤクモの脚があらわれた。
六戸はだまって机の前の椅子に腰かける。
たしかに、しっとりとした白い柔肌の左足、そこにシミの様に大きな痣が残っているのが認められた。
六戸が少し前に身を乗り出し、膝の間で指を組む。
「フム、予想よりも悪くない。むしろ想定を超えて、大分いい。そこそこ頑張ったようだ……よく育っているね」
六戸の座った椅子がギと短く鳴いた。
少し余ったセーターの袖を口元に当てて、ヤクモが何事か思案して、その大きな目が凝と六戸を見る。
ねえ、と六戸に声を掛けてから心療台に腰掛けるとヤクモは六戸に聞いた。
「上も脱ごうか……六戸さんも、そうしたいだろ」
六戸もうん、と唸って机の上に置いたままのコーヒーカップから、冷めたコーヒーを一口飲み、唇を軽く舐める。
「ああ……君は本当に僕の事をよく判っている。折角だし、じゃあ、上も脱いで見せてくれるね?」
六戸が立ち上がって、メガネを外した。
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