オデットはもういない・10/オディールとオデット

 クリーンパト警備の宿直室からヤクモがインナーボディスーツのまま若干足を引きずりながら出てくる。

 そのなりを見て内勤の女性が驚いて叫び声をあげた。


 彼女は深夜、巡回中にヨドミと遭遇し、撃退をするにはした。

 この時に脚部の骨折があった為、穢療を施されることになった。

 切創、それに骨や筋を由良アレキサンダーの手によって修復される際の麻酔によって昏睡していたのだ。


「ヤクモさん!服!」


「インナースーツ着てるから問題ない」


 インナーボディースーツは、スイーパーもコンバットスーツの下に着用するもので、身体に密着したつくりの、いわば薄手のウェットスーツのようなものだ。

 淀澱、地穢のもたらす反応は、科学や物理法則で測れないものばかりだが、二次的に発生する衝撃や瓦礫の飛来から身を守るのに申し訳程度寄与している。

 なじみの深い物たちからすれば、下着そのものではないにしても、下着のようなものだという位置づけをされている。


「あるの!その…ちょっと、浮くし!」


 声を掛けた女性は小走りにヤクモに走り寄ってきて、最後だけ声量を落としヤクモに耳打ちして、彼女を宿直室に押し戻す。


「怪我はまだ痛む?」


「他は気になるところがないが、歩行には少し難がある。淀澱と遭遇したら工夫がいる」


「穢療師、昨日はいなかったから穢療の心得が少しあるアレックスにやってもらったわ」


 アレックスはナイトウォッチにしては地穢の出力量が多いが、貯蔵し、経由できる時間当たりの量が少ない為、戦闘にも穢療も相当不得手向いていない部類に入る。脚部の骨を繋げただけで大したものだろう。


「なるほど。礼を言うべきかな」


「オオバくんと寝ないでパチンコに行くと言ってたわ。次会った時でいいんじゃない?私も伝えておくけど」


「そうだね、頼む」


「あと」


 人のよさそうな、丸顔で愛嬌のある顔立ちの内勤の女性は後ろ手にドアを閉めて声量を落とす。

 小柄なヤクモよりもさらに身長が小さく、ヤクモからしても軽く見下ろすような視点にはなる。


「うん」


 ヤクモは、入り口近くに積み上げられているパイプ椅子を積み上げられている塊のまま引き寄せる。

 そうしてその上に軽く腰を落として女性を見上げ、続きを目で促した。


「淀澱と遭遇したら……って今言っていたけど、まず脚をちゃんと治すのと、それからそもそもちゃんと撤退しなきゃダメだよ」


「そうしているつもりだよ」


「してない。絶対、わざと戦闘してる。ヤクモさんの行動には、言い方悪いけどその根拠しかないよ」


 女性が一歩踏み出して、ヤクモの目の底を覗く距離まで詰め寄って来た


「わかっていると思うけど、掃却はナイトウォッチの役割じゃないよ」


 ヤクモは両手を軽く上げて、一歩と少し下がる。


「誤解だ」


 女性の言葉は業務上の注意だが、やはり、いくらか心情の見えるような波を声に覗かせている。


 心配か、嫌悪か。


(色が違う程度のものだ)


 答えるヤクモの口調には抑揚がない。


 長い溜息をついて、女性はヤクモのロッカーのカギを借りたいと申し出た。


 制服スラックスのポケットにあるとヤクモは答えると、女性は特殊クリーニングに出す山の中にあると答えた。

 探して着替えを持ってくるから、それまで宿直室にいてほしいと言い残し、彼女は宿直室を出ていく。


 手持無沙汰になったヤクモは、宿直室のベッドに戻り、脚を伸ばしてベッドに腰掛ける。

 チェストの上にあるテレビのリモコンを拾い上げ、見るとはなしにテレビをつけた。


 窓が東を向いているため、この時間は太陽の光が眩しい。


 脚が疼く様に痛む。


 バイオリンとピアノで演奏されるBGMがテレビから流れてくる。


(白鳥の湖……)


 目を細めて、ヤクモはテレビに目をやった。


『SIRURIグループはより良い社会を目指す皆様と、いつもともに在ります』


 テレビから流れてくる音声は、日本のメガコーポの一つ、SIRURI HDのコマーシャルだった。

 陽光差すSIRURI HDの高層ビルを見上げる画面から、鉄道や車道を見下ろす画面に切り替わった明るい色調のテレビコマーシャルにどこか悲しさのあるBGMには少しちぐはぐな印象がある。


 業務上知り得た事だが、昨日、現象体に狙われていた男……蘆立健は、SIRURIから仕事を受けている何次請けだったかの会社に派遣されているそうだ。


 ふ、とため息が出た。


 カラウスならため息を漏らさないだろう。


 そもそもからして、テレビをつけなかったかもしれない。


 SIRURIの名は、ヤクモに昨晩の……といっても、まだ八時間ほど前の事だが……一つの再会を回想させた。


『レイさん……?』


 担架のすぐそばに膝をついたユグド掃備のスイーパーは、彼女の顔を凝視すると、声を抑えて、ヤクモが捨てた名を呼ぶ。


 名を呼んだものは、カラウスの掃却に直接手を下した人物、カノンだった。


 ヤクモは、いつかは顔と再会する事になるだろうという覚悟はしてきた。


 ユグド掃備から芯体の残骸、二つに割れた半身を回収しに来るのが彼である可能性は相当現実的な確率で存在する。


 いつか、その時が来る。けれども今ではないと逃げ回っていたのは否定できない。


 嫉妬の残滓が胸でのたうつ。


 ヤクモは、それを捨てるべきものだと断じていた。


 けれども彼女の意思に反してそれは彼女の心に棲みつき、未だ彼女を苛んでいた。


 心の主に否定され、寄る辺なく漂い、心に衝突して見えない傷を齎すその痛みに、知らずつま先が軽く床から離れる。


 カノンは望まれて正しいことをした。


 名を呼ばれ、望まれるだけの力を有していた。


 自分にはそれがなかった。


 カラウスに引導を渡すだけの力だ。


 事実しかない。


 そしてそれは非情だ。


 ────シルリさんは、背負っただけだ。間違いのツケを払わされただけだ。


 あたしがそうしたかった。


 それに一番ふさわしいのはあたしだ。


 カラウスが消えたのは……間違っている。


 それならば、その前。


 アヤちゃんが、あの少女が消えたのも間違っている。


 ……遡れば、あたしがカラウスとアヤちゃんを引き合わせてしまったのが、最初の間違いだ。


 つまり、全てあたしが────


(間違っている)


 内心に思った言葉が、もしかしたら声に出てしまったかもしれない。


 その言葉は誰に聞かれることなく空中に漂い、消えた。


 白鳥の湖がフェードアウトして、CMが終わると番組が再開される。


【バッキリ!】という番組らしい。


 関心はない。ヤクモはリモコンの電源ボタンを押した。


 硬く冷たい感触が指に返ってくる。


 耳の中で、白鳥の湖がまだ反響しているような気がする。


(オデットがいない白鳥の湖なんてない。あたしはオディールになってオデットを舞台に戻さなければならない。その役割だけは、誰にも渡さない)


 次にするべきことは決まっている。


 悪魔との取引の続きだ。


 疼く脚は、脈動のリズムで彼女に痛みを刻む。


 ヤクモの私服をもって、役割を説いた女性が戻ってきた。

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