オデットはもういない・9/いちろうのしどう
『おい、イチロー』
霞音がユグド掃備の仮眠室で朝八時に目を覚まして見たものは、五つ下で実家暮らしの妹から彼のスマートフォンに送られてきた短いLOINEメッセージの告知の文字だった。
彼が大学受験を一年浪人していることにちなんで、彼の妹はカノンをそのように呼んでいる。
夢見も目覚めも最悪の朝だ。
ため息をついてスマートフォンを投げ出すと、彼は仮眠室の硬い布団を抜け出し、飴色になった畳に手をついて立ち上がり、カーテンまで歩み寄る。
十時に設定したアラームよりまだ幾分か早い。どうやら自分をあの夢から引き戻したのはLOINEのメッセージ着信音だったようだ。
カーテンを開いて通りを見下ろす。
通勤ラッシュもとうに終わった時間だ。
人通りは絶えないがそうは多くない。
アパートに帰って入浴するか、ユグド掃備のシャワー室を借りていくかで悩んでいると、彼のスマートフォンがもう一度メッセージの着信を知らせる音を鳴らす。
カノンはため息をついてTシャツにイージーパンツのまま、投げ出したスマートフォンの場所まで戻ってそれを取り上げる。
内容は返事を催促させるスタンプの連投だった。
彼も用件を聞くスタンプのみを返信して済ませる。
兄妹仲はあまり良くない。
すぐにLOINEの音声通話の着信音が鳴った。
「おはよう、
「イチロー、今日イメスタグラムに使う画像撮るから手伝って。動画も撮りたい」
「学校は」
「あ?」
挨拶をしろ、と彼は内心毒づく。
「ごめんね、今日やることがあってちょっと厳しいかな」
「十二月に大学生にやることとかないから」
彼はため息をつこうとして、音声通話なのを思い出し思いとどまる。
まだ少し寝ぼけている。
「なくない」
「パパとママにイチローの話題振ろうか」
二人は多忙だ。普段カノンの事は忘れているが、話を振られればそれが契機となって彼に連絡をしてきたり訪問してきたりすることがある。
そうした前例を踏まえて、彼の妹、瑠乃は彼を軽く脅しているのだ。
スマートフォンのマイクをふさいで、カノンは今度こそため息を実際につく。
「十五時過ぎ」
「カス、夕方になっちゃうじゃん。昼過ぎ、十二時」
「十三時」
ルノが電話の向こうで舌打ちをする。
「わかったわかった、それでいいから。前みたいな雑な格好で来るなよ」
「いいでしょ別にウニクロで」
「こっちはフォロワー三万のカリスマイメスタグラマーだぞ、身バレと炎上させてやろうか?」
いつもこれだ。以前にカラウスの真似をして知るかと返したところ、その後が大変だった。
「適当な感じでやります」
カノンは相手の返事を待たずに通話を切った。
ルノは養父と養母の実の子供だ。
二人は一般的な範疇で厳格ではあるが、ルノの周りはそうではない。
結果としてカノンもそれに加担してしまってはいるのだが。
SNSのコミュニティも含めて、周囲全ての人間に持ち上げられ育った彼女は手が付けられない我儘者になってしまった。
切った通話を追いかけてメッセージが着信した。
『今日は車ね』
カノンはサジェストをタップして返事を返す。
『車検中』
『カス』
不満を示すスタンプが飛んできた。
苛立ちが、カーテンを閉める勢いを乱雑にさせる。
カノンからすれば、本当は今日は予定もないし、そんなことにかまけている気分ではない。
何時間か前、彼がカラウスを掃却した現場を目前で見ていた少女と、心の準備もないまま再会していたのだ。
今はヤクモアヤコと名乗ってクリーンパト警邏にナイトウォッチとして所属しているらしい、という話は彼も聞いていた。
たしかに聞いてはいたが、彼は身動きをすることが出来なかった。
まず、それを会って確かめにいけるほど彼はその時の自分を許せていない。
相手の感情を想像するのも恐ろしかった。
あの活発な少女はカラウスの事を誰よりも崇拝していた。
……あの時のことをいつか詫びなければならないという気持ちもある。
しかし、それをすることはあの時の事を間違いとして葬り去り、許されようとする言葉になるだろう。
カノンは思う。
あの時の自分の選択は【正しい罪】だったはずだ。
それだけはしたくない。
それをするくらいなら……許されないままでいる方がずっと楽だ。
もう一人のカノンが、不意に顔を出す。
(楽な方が善い事なのか?)
心中から自分を刺した声に彼は返事を返すことが出来ず、項垂れた。
カーテンを閉めた仮眠室は暗く、また、陰気な空気が漂っている。
仮眠室の扉が勢いよく開く。
「カノンくーーーん!!」
「げえっ、役員!」
両手を広げて、喚きながら入ってきたのはニヅキだ。
「もうやだあああ」
シャワーを浴びてきたのか、ニヅキの髪の毛にはタオルが巻かれており、ノーメイクだ。
畳を勢いよく踏みしめて、ニヅキはカノンを抱きしめようと鋭いタックルを仕掛けてくる。
カノンは腰を落としてその手を払いながら横に旋回してタックルを躱す。
風の巻き起こるようなハンドスピードで手の払い合いの応酬がニ三度起こるが、タックルを躱されてニヅキはカノンの使っていた布団の上に滑り込む形に落着した。
「ノックしてくださいよ……」
呆れた声でカノンがニヅキに声をかけると、ニヅキはそのまま器用に掛布団に包まる。
「ウッウッ……十二月忙しすぎるよぉ……」
「大変だとは思いますけど……あ、源泉徴収票ってまだですか?」
「ね、ご褒美にデートしよう!いいよね!いつがいい?クリスマス!?」
ニヅキの包まった掛布団がぴょんと小さく跳ねる。
「……すみません、十二月はちょっと……」
「先月も十一月はちょっとって言ったぁ!」
「源泉徴収票、経理に確認します。……ニヅキ社長、着替えていきたいから出来れば、仮眠室使うのちょっと待ってもらえないでしょうか」
「若者の匂いとぬくもりが残っている布団……あったかぁい……」
本当に気持ち悪い。
カノンはひっそりと眉をしかめる。
冴え始めた頭が一つ、質問を思い出した。
「ニヅキCOO、全然関係ないんですけどクリーンパト警邏の人の事で聞きたいことがあります。いいですか」
声を落として、真剣なトーンで掛布団をひっかぶったニヅキにカノンが声を掛ける。
返答はない。
代わりに、スヤスヤというような寝息が返ってきた。
起きてから早くも何度目かになったため息をついて、カノンは自分のスマートフォンを取り上げる。
そうして、彼はあの日の共犯者の顔を思い出す。
(まず、九龍院さんに連絡を取ろう……)
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