オデットはもういない・8/ゆめであえたら

 夜明け前、霞音は夢を見ていた。


 二年近く前の出来事の夢だ。


 カノンは、団地廃墟の一室で意識を取り戻した。

 

 ベランダに出るガラスを突き破って飛び込んだらしい。


 ヨドミに一撃を受けて、三階まで打ち上げられた際


 上階のベランダ突き出しへの衝突を嫌って、柵に脚をかけたところまでは覚えている。


 起き上がろうとするが、筋肉に電撃が、骨や筋に反響する鈍い痛みが走る。


 出血もひどい。そちらこちらに出来た切り傷から流れた血で、まだらに濡れた廃墟の埃っぽい畳は血を含みしっとりと膨らんでいた。


 首を慎重に起こすと、階下から真昼の様な地穢の光が発したのが見えた。


 サンガの九龍院クロインさんか、唐臼さんが掃技霊威そうぎ・レイをぶつけたのかもしれない。



 何とか動かせる部分を動かして、仰向けの姿勢からどうにかうつぶせになると、霞音はベランダに向かって惨めたらしく這い進む。

 凝固した血が小さな塊となって剥がれ、引きちぎれる。


 ダメージが大きい。


(ユグドの穢療員に骨を繋げてもらっても、何日かは動けないかもしれない)


 ──連絡が途絶えたら、義父と義母はあの安アパートに心配して様子を見に来るだろうな。



 あの優しい養父養母の悲しそうな顔や、涙を流しながらも、滔々と自分を説得する彼らの姿が瞼に浮かぶ。


 もう何度もあった事だ。


 そもそも生きて帰れるかもわからない。


 二人との間に壁を作って生きていかないと、保てる気がしない自分を抱えて生きていくくらいなら、ここで終わりの方が楽かもしれない──


 霞音は、たしかにそう思う自分も自覚していた。


 しかし彼はガラスの残骸を押し破り小さな段差を落ちてベランダに半身を出すと、そこで静かに待ち受けていた自らの掃器、大型ナイフに反射的に手を伸ばす。


 地穢はまだ十分すぎるほど残っている。怪我がひどくなること、ダメージを無視すれば左手で掃技を打つこと自体は出来る。


 (この体たらくで命中するかはともかく……)


 へし折った柵から、下を覗き込む。


 サンガとユグドの掃者を追い詰めた悪鬼か武者の如し、恐るべきヨドミの姿は消えていた。


 眼下には、倒れ伏したスイーパーの中心に片膝をついた九龍院の、後頭部で束ねた髪が動いたのが認められる。


 こぶし大程の異常に巨大な芯体と思しき赤い結晶が二つに割れている。


(どうやら、勝った。サンガとユグドのこの人数で……禁士あがりの二人と、僕までもが居て、ようやくだ……)


 そこから少し距離を置いて、得物を片方失い、膝から崩れ落ちた姿の唐臼のコート、それを助け起こそうとするナイトウォッチ、レイの後ろ姿も見えた。


 しかし、時間が止まったように硬直した彼らの姿に異変を見て取った霞音は、その異変の正体にすぐに気づく。


「連結体……」


 割れた芯体の中に、それよりずっと小さな芯体が隠れていたのだ。


 あの、神話の戦士の様なヨドミに守られるようにだ。


 肉体ごと連れ去ったものの魂を芯体に統合するヨドミの特性からすると矛盾する現象だ。


 しかし、この原因不明の現象は稀ではあるが、消えたものの中で自分の姿を再現することが出来るほどの──

 ──他の魂を統制できるほどに──強力な現象体で、現実に一定発生が確認されているレアケースである。


 なみならぬ強力な執着を残した魂が、澱の中の塊となって二つの芯体をなす。霞音はそう解釈していた。


 彼は、折れた手すりに自分の腕を絡め、ほとんど押し出すように身体を立ち上げると、ベランダ外側の壁に身体を預けて下を見下ろして現状を把握する。


 ──芯体のむき出しになっている今なら一撃でいい。


 誰も動けないのか。破壊しなければ、まだ現象していない芯体は当然──


「現象してしまう」


 霞音は声に出して言い、すぐに口腔内の出血によって咽る。





 唐臼は、ぼさぼさの前髪をかき上げ、目を見開いてその芯体を見つめる。


 半透明の赤い芯体には、見覚えのある子熊のキーホルダーが化石の様に埋まっている。


 それを隠すように、散った黒碧の霧が猛烈な勢いで身体に収束していく。


 霧の繭の中から幼い声が囁く。


『父さんはどこかにいるの』


「アヤちゃん……」


 泣き出しそうな顔で、玲が声を絞り出す。


 血で濡れた紫と金色の髪が、新たに涙で濡れる。


「十兵衛、殺せ祓え!!もう貴様しかいない!!その強度なら一撃で済む!」


 吠えて、立ち上がろうとした九龍院が立ち上がり切れずに今度は倒れ伏す。


「そいつが……アヤちゃんでも。それがどうしたんだと言うのは、いつもはお前だろう!十兵衛ェ!」


 もし、余力を残しているのがカラウスではなく自分なら。九龍院はその答えから目を反らして呻く。


 父親に捨てられて団地に佇んでいた孤独な少女を奪還できることはない。


 がために、自分はカラウスやレイを選びとり非情な言葉を叫ぶ。


 自分たちが、何度も何度もして来た事だ。


「……悪ィ」


 カラウスは、顔を伏せレイを軽く突き飛ばして音もなく立ち上がる。


「自分に無いと思いこんでたものが溢れて、捕まった。打てない」


『カラちゃん』


 声が、唐臼を呼ぶ。


 カラウスが掃器を脇に投げ捨てる。


「なにさ」


 普段のカラウスが選ぶ言葉ではない。


 尻もちをついたレイが跳ね飛ばされるように立ち上がり、カラウスの腰に縋りつく。


 カラウスはレイを見ずに、彼女の頭に左手を置いてさすると、襟を掴み一息でこともなげに投げ飛ばす。


 さらに立ち上がろうとした彼女の脚を軽く刈り、地穢を軽く纏った掌底で丹田を打つ。


 レイは仰向けに転んだままなおも起き上がろうともがくが、わずかに残っていた地穢を散らされて、その足は虚しく床を搔くばかりの態度となった。


『泣いてるの』


「泣いてる」


 顔を伏せたカラウスの表情はうかがえない。


『くまさん撫でる?好きでしょ』


 収束した黒碧の霧は、おぼろに直立したカラウスの半分ほどの身長の少女の像を結ぶ。


 少女の像よりも、彼女の抱えた大きなぬいぐるみの方がはっきりと現象している。


「人の話覚えておきなよ」


 妙に歪ん声のだカラウスの唇の端が上がる。


 なおも何かを吠えようとした九龍院が唇を噛んで目を伏せる。


 彼はプライドの高い人間だ。責めを負うなら自分が背負おうとする人間だ。その点はカラウスよりも上だという自負がある。


 今なら、カラウスに縋りついて突き飛ばすことくらいはまだできるかもしれない。


(打てない、といった十兵衛と同じく、私にはそれができない……)


 カラウスの手が、少女から昇る黒い影に蝕まれていく。


「九龍院」


 目を隠したまま、カラウスが九龍院へと向き直る。


「頼めるか」


 九龍院は、両手をついて上体だけを起こす。天を仰ぎ、しかし目を瞑って……息を吸い込んだ。


「やめてよ」


 残った声を振り絞って、レイが呻く。


「……そうだった、カノンくんもいたな。悪かった」


 今や、黒い影はカラウスに飲み込まれ……いいや、カラウスは少女の影に飲み込まれ、全身から影の炎を纏わせてそこにただ、立っていた。


「え?ああ、今日は一緒に行くさ」


 カラウスは小声で、自分の内側かわす声を呟く。


 そうして彼は吹き抜けを仰いで見上げた。


 真上なのに満月が見える。


「変だな……でも、アヤくん。月が奇麗だな」


「やめろ!」


「カノーーーン!!!」


 天を仰いだ九龍院の、渇望するものの名を呼ぶ声とレイの叫びが二つ乍ら錯綜の響きをもって反響する。


「カノンくん、頼む……レイくん、元気でな」



「届かなければ……、……どんなにいいだろう」


 地穢を反発させて、ベランダから身を投げた囁いたカノンは、しかし、


 カラウスや九龍院と同じ種類のものに呪われ、


 詠唱をせずにいることはできなかった。



「葬技……」




終絶十エンドズィー

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