オデットはもういない・7/シャドウダンサー

 「うわっ、豆切れ!使ったら足せよなぁ」


 クリーンパト警邏の宿直員、大場 早蔵オオバ サクラはエスプレッソマシンの前で短く刈り込んだ前髪の下、狭い額に手をやって嘆くと長い溜息をついて給湯室のシンクの下の収納を漁りだす。


 「誰~使ったの……」


 同僚のアレックス 由良ゆらが防刃コートを羽織りながら給湯室の前を通りがかり、足を止める。


 「オレ、さっき飲んだネ。オマエは……アー……日本語で……そこの水道ワラーでも飲んでろってコッタ!HAHAHA」


 「てめえ、シェアハウスじゃねえんだぞ、協調というものが出来ないやつは給料取りに来るなボケっ」


 シンクの前に座ったまま荒れた肌を紅潮させ、顎髭を震わせててオオバはアレックスを指さして悪態をつく。


 「Oh……だけど使ったのはオレ最後ではナイアルなぁ。それにシェアハウスでもそんな事はシナイ」


 「あ?じゃ最後につかったの誰だ」


 「私よ」


 制服に会社の装備を身に着けたアレックス、オオバとは異なり、細身のスラックスと上品なボタンダウンシャツの上に申し訳程度にオーバーサイズの制服のジャケットを羽織った女性が紙カップを手に顔を出す。 


「げえっ、役員」


「わはは、ごきげんよう。もう一杯飲みたいから変えてくれるの丁度良かったわ」


 切りそろえた前髪と柳眉の下、銀縁眼鏡の奥の目を眠そうにしばたたかせて女性は笑う。


「いや、出る前に一杯飲んでいこうと思ったんですけど……諦めます。掃却事案なんでオレらこれから立ち合いに急行しなけりゃならないんです」


「デカパイ役員、ちゃんとOurコーヒー詰め替えないと駄目ヨ」


「ありゃ、下のユグド掃備に連絡来て、騒いでいたのはそれか」


 驚嘆する声を上げ、肩の上の長い髪を払ったこの女性は、オオバとアレックスの所属するクリーンパト警邏と、別フロアのユグド掃備で共にCOO兼務する人物似月 歩にづき あゆみだ。


 二社はSIRURIという大企業グループの末席に位置しているが、SIRURI HDは夜警掃業種を重視しておらず、両社ともに支所は一つだけ。


 本部は渉外などに用いられ、実務的な機能のないオフィスとなっているため、実際的にはこのビルが本営という事になる。


 ニヅキは役員とはいっても実務的な面に関わる役職のため現場にいることが多く、職場に泊まることも珍しくはない。


 両社の現場の人間からすれば、本部で二次請けと連絡を行う社員よりも遥かに接することの多い人物ということになる。


「ちなみに、どこ?誰?」


「船谷御神座通りで、バカです。」


 オオバが立ち上がりながら重い溜息をついた。


「あー、はい」


 ニヅキは軽い返事をして。左手の親指と人差し指で小さな丸を作り、スマートフォンをジャケットから取り出す。


「アユだよ、今来てる掃却確認、行くのは芯体を回収する一人だけでいいよ。霞音わたしのかのんくん、今日詰めてるよね。バイクでいけると思う。そしたらそっちはジープ出さないでいいっしょ」


 通話しながら、ニヅキは二人の顔を見渡し、それぞれを掌で指し示す。


「うんそう、検証立ち合いはクリパの人が二人行くから。所轄のサッちゃんには早く済むようにお願いしとくから頼むね。え?夜雲彩子わたしのアヤちゃんだよ。あーはい、言っとく言っとく。よろしくね」


 一応通話を見守っていたオオバとアレックスをニヅキが見渡す。


「聞いた通りだから、早くに切り上げられると思うよ」


「ありがとうございます」


「イチオー別会社ダゼ、そんなナーナーなやり取りは大丈夫ナノカ」


 眼鏡を指で押し上げて目をこすってから、腰に手を当てたニヅキがアレックスを横目でにらむ。


 身長180センチのアレックスに対してニヅキは頭半分ほど低いものの、そこそこ長身の部類に入る女性だ。


「CEOにチクったら殺すからな」


「ワオ、雲上人だから無理ダゼ」


「外人、実は普通にしゃべれるでしょ?」


「あーも、アレックス行くぞ。寒いから早く済ませて来ようや」


 給湯室から出ていく二人を見送って、ニヅキは給湯室の方を振り向く。


「このペースでも遥人の言うとおりになるには何年かかるか……。お花畑なのもなんとかしてやらなきゃ」


 湿り気を帯びた暗い声で、ニヅキは、あーあとため息をつく。


「あ、豆変えさせるの忘れた……」


 ニヅキは、給湯室から顔を出して他の内勤者を呼ぶ声を上げた。




 追い越し車のタイヤの音がどこか心地よい。ネクサスの後部シートに浅く腰掛けて、背もたれに身体を預けたサンガが、食事後の微睡を払うため、サングラスを直して退屈まぎれにドライバーに話しかける。


「夜間飛行のよぉ、リヴィエールっているじゃねえか」


「え?歌っスか?」


「本だよ、バカ」


 ドライバーの答えに、思わずサンガは苦笑してシートに少し深く腰掛けなおす。


「いや、自分結構本読みますよォ。夜間航路って本すよね、覚えときます」


 ドライバー、傘家興業の社員であるマサシは自分を持ち上げるためにわざと自分を落としているのかとまでサンガは考えてもう一度笑う。


「あー……そんな本はねぇが。まぁいいや、にしても意外だねぇマサシ先生、最近何読んだ」


「ゆきひろの新しいやつすよ。なんだっけ、でてこねえ」


 わはっと傘家はのけぞって短く、大きく笑う。


「タイトル出てこねえんじゃ頭入ってねえだろ」


「いや自分結構感動したんでそんなことないっす」


 サンガは、マサシが右折するべき道を通過したのに気付いてまた笑った。


「オメー、ナビも見落とすんじゃよぉ。またやったぞ。しょうがねえ野郎だな……次の御神座通りで右折すりゃいいから。本読むときもちゃんと注意して読むようにしろよォ」


「ウッス、スイマセン。気を付けやす!」


「返事だきゃ気持ちいいからそれだけ聞きたいまであるな」


「御神座通りにメシとか屋台ありゃ、さっきの混んでる店よりいいんすけどねぇ」


 先ほど食事の為に立ち寄った深夜営業の店は、行きつけであるが大抵待ち時間が出るのが煩わしいというのはサンガにとっても同意見ではあったが。


「あー……御神座はなぁ。浮いてるからよ。あとホラ、昔禁足地だったから、暇な年寄りも近寄りたがらねえんじゃねえの」


「マジすか。自分ジーさんとかからも全然聞いたことなかったっす」


「戦前どころかその前、マゲゆってたのがまだちらほらいた頃までだからなぁ、あまり喜んで話すような経緯でもねえし」


 雑談をしながら分離帯の向こう、反対車線に赤色灯が点灯しているのにマサシが気付いた。


「ゲッ、歩道橋のとこ、デコいますよ」


「別にがたつくことネーだろ」


 気持ちさらに深くシートに腰掛けなおして、サンガは頬杖を突く姿勢になって、足も組んだ。


 マサシにはそうは言ったが、サンガからすれば少し浮いた気分に水を差されたようであまり気分のいいものではない。


 サンガは停車したパトカーの向こうに、つなぎを着た警官に、作業服を着た警官がいるのを認めた。救急車は来ていないようなので事故ではなさそうだが。


「ウッス、スイマセン」


 こちらがわの車線にも警察官がいる。誘導灯をゆっくり振って停車を求められているようだ。


「社長ォ」


 サンガは、マサシの確認にルームミラーに向かって手を振り、停車を促す。


「いいよ、いいよ、デンとしてろ」


 徐行から停車するのを待って、制服警官がネクサスの運転席のそばに近づいて覗き込む。


「こんばんは。今日はどこまで?」


 ウィンドウを開いたマサシが肘を出し、警官をじろりとにらむ。


「あ?石原までケぇーるとこだよ」


 住所を問われ、ついで免許証の提示。お決まりのやりとりをしている警官とマサシを尻目に、サンガは外の様子に関心を引かれる。


(ありゃ似月のとこのクリパのジープだな……ユグドはどうした?……単車か)


「ありゃあ、なんか大変だ。事故じゃないでしょ、どうしたのよこれ。

 おっかないことじゃないといいんだけどねぇ」


 サンガも後部座席の窓を開けて、周囲を見回しながら大げさに驚いて見せる。


「淀澱ですね」


 フ、とため息をついて警官が事務的に答える。地場の警官だ。向こうももう停めたのがサンガの車であることに気づいたようだ。


「そりゃ大変だ。掃備の人が一戦やった後かね?」


「いや、夜警の人がやったらしいですよ」


 横合いから様子を見に来た、人のよさそうなもう一人の警官が、サンガの大声を聞きつけて横合いから答える。


「うん?」


 意外な話に、サンガは思わず怪訝な声を上げた。


 夜警がヨドミを撃退するというのはそれほど珍しいケースなのだ。夜警職はヨドミの出現を、天目という視覚嗅覚に働く能力によって察知する。


 天目、地穢という能力は一そろいで人間に発現する。これを扱える者は十人に一人ほどだが、ほとんどの場合能力の質はどちらか片方に偏る。片方が強ければもう片方は低くなるという具合で、この比率は変わることがない。


 天目に優れる者で構成される夜警は戦闘に向いたチェーザーガンやコンバットスーツといった装備も与えられていない。せいぜい自衛程度のものだ。


 夜警の貧弱な装備でヨドミを撃退したのであれば、グリーンパトに腕利きの一団が所属しているのかもしれない。


 商売っ気をだして、サンガは警官に聞く。


「そりゃ凄いね。二人一組の夜警だけでやったって?」


「いや、うーん……一人らしいんだ」


「今年結構ありますよね」


 もう一人の警官がしゃべりすぎ、ともう一人を軽く肘でつついて制する。


「!……へぇ~よくわかんないけど、凄いもんだねぇ、……もういいかい?」


 サンガは、閃きに慌て、サングラスを治すと警官に手を上げて発進の雰囲気を演出する。


「お時間取ってすみません。ご協力に感謝します」


 警官の向こうに停車したバイクに、小柄な影が歩み寄る。


「おっ、ワカサキのNのやつじゃん。オカマみてぇな野郎がエグイの乗ってんな」


 口をすぼめてマサシが驚嘆した。


 その、女性と見まがうほど端正な顔立ちで華奢なコンバットスーツ姿の若者には、サンガもある事件で見覚えがあった。彼がバイクにまたがるのをサンガは横目で見送る。


熾瑠璃しるりのボンボンか……確か霞音かのん


 日本のメガコーポ、SIRURI HDのCEOの長男、熾瑠璃霞音。いわゆる御曹司だが、大学生の傍ら、スイーパー企業に勤めている異質なプロフィールの持ち主だ。


(まだ続けているんだ。殺すことを覚えたか?……あれで闇の深い野郎なのかもな)


 ヘルメットをかぶりながら向こうもこちらを横目で見た。


「寒いから、大変だけど体壊さないようにね。お疲れさんです」


 先ほどよりずいぶん小声で警官に挨拶すると、サンガのネクサスはゆっくり発進する。


(思ったより碌でもないことになっているかもしれねえな)


 サンガは、振り返って分離帯の向こうで遠ざかっていくバイクのテールランプを見送る。遠ざかるテールランプが夜に潜って、エキゾーストノートと共に離れていく。


「マサシ、今日遅くなったのに悪ィけど、明日朝イチでいくとこが出来た。帰ったらオメーもすぐ寝ろ」


 ウッスという景気のいい返事は、眉に皺を刻んで思案するサンガには、遠くから発せられたように聞こえた。

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