オデットはもういない・4/われなるおれもの

 閃いた鈎爪は、湿った音とともに、空中でなにか細長いものを捉え、引き裂く。


 それはなにかと目を走らせて見れば、すぐそばに立っている女性らしきものの影が針のように尖って立ち上がっていたものだ。


 この、立体世界に影が形を顕して、ものとして屹立したあと、切り裂かれた。


 歩道橋の欄干の天辺から飛び降りてきて、自販機の上から鈎付き竿を払った女性が腰を落として、竿を返して逆側に払い、


 鈎は女性らしきものの頭部を遠慮なく引き裂く。


 小柄ながら、体格に比して長い、スラックスをまとった脚がすらりと伸びる。


 今引き裂いた女性らしきものの顔面を踏みつけるように蹴り、その勢いで回転すると女性は


「どけ」と呟いて


 蘆立の肩口を反対の脚で蹴りつけ、突き飛ばす。


 加減をされたのか、蘆立は二三歩よろめいて自販機に蹴られたのと反対側の肩、その裏側をぶつけ、自販機群から半分押し出されるように尻もちをついて転ぶ。


 しかし、女性らしきものは遠一切の慮なく強烈に蹴られたようだ。


 蘆立とは逆側、自販機群の奥に押し込まれるように跳ね飛ばされ、その体躯は自販機の裏側に衝突してパネルが銅鑼の様な音を立てる。


 自販機群の中ほど、女性らしきものと蘆立の間を阻むように降り立った女性が竿を一つしごいて雷電のように一瞬で短く持ち変える。


 スラックスに見合わない無骨なスニーカーが、人工芝を齧ってキリと半回転するや、逆側の脚の踏み出しと共に鞭の様な猛烈な斬撃が女性らしきものを三四度打つ。


 自販機に跳ね飛ばされぬよう精妙な軌道で、しかし振りの大きな妙の斬撃が息もつかせず繰り出される。


 しかし、女性らしきものが持っていたビール瓶を捉え、割れたように見えた。実際割れるなり砕けて飛散するはずのそれは空中に跳ね飛ばされ、緑の霧となって音もなく霧散していく。


「スゴッ」


「あらほんと?」


 女性らしきものがうめき声を発すると、無表情のまま女性は飛び下がって、尻もちをついたまま腰を抜かしている蘆立をサイドキックでもう一度押し出す。


 視線は正面のままだ。


「もう人間の形やめてる。思ったほど強くはないけど、弱くもない」


「なに、なにがよ」


 蘆立は動転のまま、すでに飲み込んで理解しているはずの問いを上ずった声で発して仰向けに這うようにあとじさる。


「ヤバイヤバイヤバイヨォ……」


 蘆立からは見えない、自販機群の奥でなにものかが唸り、蠢く。影が燃えて、立ち上がっている。


「孤独に呼ばれ、共にあろうとする孤独、人の気の澱、あれこそは淀澱の現象体──ヨドミと呼ばれているものだよ」


 影の火の手が自販機を飛び越えて幾条か走る。


 一つ、二つ、三つ。


 風より早い、黒い火の手よりも早く、電の手から繰る竿の鈎爪が、同じ色の鈎爪を息もつかせず引き裂いていく。


「エッ……コワッ……コアクネ」


 引き裂かれた影の火の先端は、やはり緑の霧となって霧散し、つながったままの部分は引き戻されるように自販機の奥へと戻っていく。


「息、なるべく下を向いてして。あの緑の霧はひとまずは上に向かって行って散るという事になってるから。知ってると思うけど、あれ、穢だからね。操れないなら体に入っていいことはないよ」


 やはり蘆立の方を向かず、竿を立てるように構えなおすと少女……ヤクモは小さく円を描くような歩調で自販機との間合いを測りだす。


「イヤダッ!イヤーーーーーッ!」


 自販機の裏から、凄まじい声量の絶叫が砲撃のように殺到する。蘆立からすれば錯覚ではなく、空気の振動すら肌に感じられた。


 ツァッ、と息をはいてヤクモの動きも一瞬固まる。その拍子に、自販機裏のスペースから人間の二倍はあろうかという巨躯が踊り出ずる。


 この巨躯が、可憐にも見えたあの女性だったのだろうか?


「いいね!」


「ホントッ」


 ヤクモが吠えると同時に,、答える巨躯から爆ぜるように伸びた太い腕か足がヤクモを竿ごと打ち据える。


 ヤクモの小さな体は一瞬、黄色の淡い光に包まれながら後ろ、頭よりも高く上方に弾き飛ばされる。


「逃」


 言葉にならないうめきを発して、またわずかにあとじさる蘆立はそれを見上げる。


 飛び上がる際に自販機を蹴り倒してその全容を顕した巨躯は、まさに異様なものであった。


 先ほど見た女性の貌らしきものは、確かに残っていた。しかし、三倍近くに膨れ上がり、右の眼窩と口であったろう部分からまたそれより小さな顔が生じている。


 左の眼窩からは、まるでカタツムリの触角のように細長く黒い触手が伸び、それは中ほどから幾重にも枝分かれして、先端は炎のように揺らめいていた。影の火と見えたものはこれだろう。


 首の中ほどから丸太の様な巨人の腕が伸びている。ヤクモを打ち据えたものはこれだ。とはいえ、指や拳骨があるわけではない肉の塊とも見える。


 それより下、数を一見して判らないくらい増やした腕は細く長くなり、昆虫のように節で区切られ、つやつやした毛で彩られている。


 錯綜するそれらの腕のコントロールがままならないのか、放棄しているのか。一二本は絡み合って折れている。


 ボワァン、と頭上で今度は鐘の様な音が鳴る。ヤクモの体躯が歩道橋にしこたま打ち付けられたのだ。


 もはや胸尻脚、一体となってどこがどこなのか区別のつかなくなった異形の巨躯が震える。


「ダッ、いってえ」


 歩道橋に跳ね飛ばされて落ちてきたヤクモが、喚きながら路上で受け身を取りつつ一回転すると即座に立ち上がる。


 竿の先端に据え付けられていた鈎は、強打された拍子に折れて、奇麗に半分に割れて無くなっていた。


 立ち上がれるのが蘆立からすれば驚異的なのだが、それでもヤクモは相当のダメージを受けたのか酔いどれのように大きくふらついて何とか竿を構えなおす。


「逃げる、って言ってたよな。緊急回避とか、てっ、撤退っていっていたよな、なぁ、あんた……ええと、ヤクモさん」


「それは方便だよ」


「ナンッデ……ナンッデ……ワカンアイ……」


 ゆっくりと腕と触手を左右に展開して、ヨドミが囁く。


 反射的に対応する言葉や欲している言葉を返すのがヨドミの特性の一つであるという話は蘆立も聞いたことがあるが、


 こうして実際にその場に居合わせると逃れえぬ引力とか魔力のようなものがある、と感じる。 


 ヤクモが敵前で不敵にも、初めて蘆立の方をじろりと見下ろす。


「もう私はハジメじゃない。逃してやるのがハジメ……カラウスは……」


 錯乱したのか、ヤクモが首を振って喚く。突然、今までと打って変わった甲高い声で喚き、絶叫するヤクモを見上げて蘆立は放心する。

 音もなく、触手が蘆立目掛けて伸びる。


 ヤクモはコートを脱ぎ棄ててブラウスとベスト、バイオレットのショートタイを表す。

 彼女は殺到する触手群にコートをひっ被せて勢いの遅延を図りながら転ぶような動きで両手持ちの竿を左右に払う。


 コートを突き破って、触手群が蘆立に殺到する。



(ヨドミに刺されたらどうなる?)


 スローモーションになった蘆立の中で、過去の知識が掘り起こされる。


 淀澱害の一般教養の範囲の事だ。


 塊の一部になって、夜彷徨う霧になる……寂しいから、孤独なものを求めて。


 何にも縛られないなら、それもいいのかもしれないな、と蘆立は思う。


 微笑が漏れて、両腕を、胸を開く。



 瞬間、幾条もの宵闇よりも昏い光が眼前を走る。


 ヤクモの声が暗闇の底から響く。


 曰く。


「掃技、偽唐臼ギカラウス七刃身裂シチニンミサキ

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