オデットはもういない・3/キャンフォール

 車道沿いの中層社屋に紛れるように一棟だけ建つ高層マンションの入り口近くには、自販機がいくつか設置されている。


 どういう事情かは判らないが、この自販機群は道に面して設置されているわけではなく、いくつかは横を向き、まるで道から隠れる場所を用意するかのように裏側にスペースが生じさせているという、そのような配置だ。


 住民が喫煙所のように使うのか、という想像が働かないでもない。


 自販機の取り出し口に飲料缶が落ちる、暗く重い音がした。


 蘆立健あしだち けんは、この自販機群の裏側をくぐる瞬間に齢三十二歳の誕生日を迎えた。


 この社屋群の裏にある生活道路を縫うように帰宅すれば、自分の住む安アパートがある。そこを目指す途中の事である。


 この車道を通らなくてもアパートにはたどり着けるし、近道もしやすいのだが、街灯がこの車道よりもさらに少なく気が滅入る。


(今更、滅入るような気が俺にあったのか)


 蘆立は憂さをごくひそやかにぶつけるように缶コーヒーの蓋を乱雑に押し下げて開く。


 もうすぐ派遣先のコンピュータ関連会社との契約期間が満了する。


 恐らく、契約更新はされないだろう。自分の派遣元の一人か二人かが作成したシステムの保守要員兼雑用係として残されるだけだ。


 今日はもともとシフト上の彼の休日にあたり、丸一日スロットだかパチンコだか、そのような種類の遊びに興じていた。


 いいや。興じていたといえるだろうか?


 なにも考えず、台の前に座りぼんやりと強い光を眺め、大きな音に埋もれていただけだ。


 今日起きた時よりも、気分はじんわりと沈んでいる。


 ただ、居させてもらった。その方が正しいと彼は考える。


 店に入るときよりも財布の中の所持金は六千円ほど増えた。食事代も払い終えてのことだ。


(一日何千円で三十一のジジイが喜ぶのかよ)


 はぁ、とため息をついて彼は自分が三十二歳になったのを思い出す。


 契約期間が終わり、また血眼になって派遣先や就職先を探せば恐らくまた、しばらくは口に糊することはできるだろう。


 それを何回、いつまでやればいい?


 なにか他の事はできないのか。なにも思い当たらない。


 明日もしなければならないことが山積している。


 その時間の中で、縫うように探して見つかる気もしない。


 そう裕福でない実家を出て、東京の大学に入学して、


 そこそこの会社に就職が決まりはしたが、その企業の不祥事だか派閥争いだかによる人員整理に巻き込まれてからは落ちるばかりだ。


 父母に経済的負担を捻出させて、実家に帰って家事手伝いをするのか?


 俺には出来ない。なにも言わないだろうが、父母が黙って眉を顰めるのが想像できる。


「やめてぇなぁ」


 街灯の光も自販機に阻まれていくらかしか届かない。そうした牢獄で彼は缶コーヒーをすすって独り言を漏らした。


 横合いから、ライターの音が返事をするように答えた。


 先客がいたらしい。


 蘆立は首をすくめて反射的にそちらを見る。慌てる気持ちと共に、気恥ずかしい気持ちがむくむくと湧き上がってきた。


 そこには、自販機の裏にもたれかかる年若い女性の姿があった。


 そうじろじろみるわけにはいかないが、厚手のコートに短いレザーのワンピース、ハイサイらしきタイツにルーズに吐いたブーツといったいわゆる派手めの服装だ。


 目が大きく、前髪を短く斜めに切りそろえたショートの髪からは大きなシルバーのイヤリングが覗いていた。


 手にはビールらしき透明のガラスボトルをぶら下げている。


 蘆立はすぐに目を離したが、タバコの煙の向こうから、その女性は彼の目の動きをしっかりと見ていた。


 すくなくとも蘆立はそのように認識した。


「ア、スマセン……」


 弱弱しく、小声で蘆立は詫びるとパーカーのフードを上げ、隠れるように身を縮める。


 目を離すときに、その女性が軽く会釈をするのが見えた。


 自販機の裏面の、鈍い銀色のパネルに目を張り付けたがそこにもぼんやりとその女性の影は映りこんでしまっている。


 葦立は逃れるように自分の足元の人工芝に目を落とす。


 喫煙所のように使われているのか、足元のくすんだ人工芝は焦げているところがちらほらと見受けられた。


「やめたいすよね」


 そよ風が吹いて、まるで子供向けアニメで聞くような、かわいらしい声がか細く囁く。


 今そこにいる女性がその声を発したのだろうか?


 そちらをすぐ見ていいものかどうか、蘆立は一瞬懊悩して、ゆっくり顔を起こすと、おずおずながらそちらを向く。


 どこか遠くで、携帯のアラームらしきものが鳴った。


「え……あの……」


「なんもかんもダルすぎんっすよ」


 そうだ、まさにその通り。


 この女性も自分と同じような澱みを内心に持ち、それがゆえに自分の惨めな内心を見透かしたのだろうか?


 そんな風に自分を詳細に認識してもらえると思っているのか?


 隠しているけれど自意識が過剰すぎる。きっとそれはなにかの勘違いだ。


 頭を振りたい気持ちをやっとのことで抑えて、蘆立はやっとの思いで缶コーヒーをすすり、顔だけは泰然とした態度を繕う。

 様子見だ。


 自販機にもたれたまま、女性はビールを一口飲んでタバコをふかした。


 ここまでとどく街灯の細い光が、裏側と表側で色の異なる女性の髪の毛をライトアップしている。


 アラームの音も、続いている。


「思うんですけど」


 女性がささやかに笑う。こころなしか彼女の目の色もどこか歪んている。涙袋に施したメイクのせいだろうか?


「そうしたってどうせ自分が消えるだけで、今より悪くなることなんかないですよね」


 そうだよ。


 葦立は内心で激しく肯いて、思わず顎も軽く縦に振ってしまう。


 どこかで、何か金属製のものを叩くような音が強く響く。


 音は、頭上高くから降ってきた。


 アラームの電子音が一瞬、離れるように高いところに行ったのに蘆立は気づく。


「そ」


 唾をのんで、大声を発しようとした蘆立の声を阻むように、何かの落下を受け止めた自販機の天板が鳴いた。


 何事か、蘆立は二重に動転した心を頭上に振って、自販機の上を見上げる。


「こんばんは。月が奇麗ですね」


 雲でくるまれた朧月を背負って、自販機の上に降り立ったらしき少女が、コートを棚引かせて抑揚なく呟く。


 蘆立よりも、少女の方を彼女の顔は向いていた。


 左手に竿のような長物を抱え、右手はスマートフォンを操作している。アラームの音がやんだ。


「支所、警邏中に八班レイ番ヤクモが淀澱を直接観測、これより退に入ります」


「淀澱……淀澱だって!?」


 カムらしきものに囁いた少女の声を拾って、蘆立は今日一番の大声を上げた。


 どこかでもしやと思う気持ちはあった。まさかという動転がある。


 やっぱりかという納得が声ならぬ声になって吐き捨てられた。


 どこか明るい失望が、彼の心の中におりのように積まれる。


「行くぜ、友よ」


 いうが早いか、ヤクモの手にした長物竿に据え付けられた鈎爪が夜の闇に鈍く確かに閃いた。

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