オデットはもういない・2/からうすについて
階段を登り切って、強面の男が深い息を吐く。直線的なシルエットで、厚く光沢のあるダウンジャケットの前を開き、そこから覗くストライプ柄スーツは鋭角な印象のあるものだ。
「なんッで五階建てでエレベーターがねえんだ……」
二本設置された蛍光灯の一本は切れており、もう一本も何秒かごとに息も絶え絶えといった態で点滅している。
息を整えようと深呼吸をしようとしたら、くしゃみが出た。埃が多すぎる。
もう二度ほど立て続けにくしゃみを出した後、クソと悪態をついて正面を見れば、乱雑に積まれた埃っぽい段ボール箱の山がまず目に入る。
その奥にはそうした箱に埋まっているところを掘り起こしたように、チープなアルミ製のドアが有る。
男は、服の埃を払おうとしてから空中を漂う埃を見ると挙げた手の軌道を変えて、中央だけを残し刈り上げた髪型から、額の上に垂れ落ちてきた髪の毛を指で梳いて跳ね上げる。
建付けが悪い上に見るからに歪んだドア枠の横には、退色したポスターにこれも埋まるように、屋号がプリントされたプラスチックの粗末な表札がかかっている。
【
なにやら斜めになった指紋だらけのドアノブを回すと妙に手ごたえが軽い。手ごたえから言っておそらく鍵が壊れている。
「先生、いるかい」
ドアを開く。そう勢いよく開いたわけではなかったが、壁に掛けられた表札が落ちた。
いいやとそれを無視して男は奥に向かって大音声で屋号の主らしきものを呼ばわる。
下駄箱の上には、遮光シートを被せられた小さなケージが置いてあって、その中から硬い音が小刻みに聞こえてきた。奥の診療室と思しき部屋からは明かりが漏れている。
案の定だ。呆れたように額に手を当ててから、強面の男はケージまで歩み寄り太い指で遮光シートを軽く押し上げる。バイオレットのハムスターが歯車を回しているのが見えた。
「おや、一匹だけかい。もう一匹は寝てるのか?」
小声を口の中で転がすと、強面の男は遮光シートを戻して埃と砂でざらざらするフロアの上を奥まで進む。
「先生、いるかい」
物件相応に狭苦しい診療室では、丸く穴をあけた寝台の奥に押し込められるように机が配置されている。
そこに置かれた椅子に肩を縮こめながら足を延ばした奇妙な姿勢で白衣の男が座っていた。室内に香のようなにおいがかすかに立ち込めている。仕事につかった灸の残り香だろう。
「留守だよ、ノックくらいしたらどうさ、社長」
奇妙な姿勢のまま、ひげと髪を伸ばしっぱなしにした青年が黒縁眼鏡の奥の目だけを動かして強面の男を一瞥する。
素地はいわゆるハンサムな人物であるが、まだ二十五六にしては、相変わらずだらしないなりをしておるなと強面の男は肩をすくめた。
「嫌ならドアのカギを直しとけよ」
「大家さんが直してくれてもよくない?」
奥の患者用の椅子は小さすぎると見て、寝台の上に強面の男は腰掛ける。
「ハムスター一匹くれたら考えてやってもいいぜ」
男はそうして寝台をぎぃと鳴らして姿勢を落ち着けてから、室内を軽く見渡し、ダウンジャケットを着たまま服の埃を払う。
「今一匹しかいないよ」
いくらかむっとした声の調子を見せて、そっけなく答えると白衣の青年はメガネを押し上げて答える。
動画をスマートフォンで見ているのか、目線は机上のそれに向けたままだ。
「なんでよ」
何を見ているのか気を引かれた強面が、寝台に手を突いた姿勢のまま上体をそらし、首だけ伸ばしてスマートフォンの画面を軽く見やる。
画面の字幕にはちょうど登壇者を紹介する字幕が表示されたところだった。
字幕には【タンニング松山】とある。いわゆるお笑いの動画であるようだ。
実につまらなそうな、眠そうな顔で見ているが前に聞いたところ本人は面白いらしい。
「共食い」
反射的に強面は首をすくめて気持ち大声となる。
「だから言ったじゃねえか。玄関近くの廊下にケージを置いてるのもそもそもおかしいんだよ」
「いい経験になったぜ」
お笑いの動画では眉一つ動かさないくせに、それを言ってニタとスローに歯を見せる青年に強面は眉をしかめる。
「いつも思うんだけど、先生はバカなのか?」
首を振り振り、強面が片目を細めもう片方の目を見開いて眉を跳ね上げると凝と青年を睨む。
青年は一瞬だけ横目で強面を見るが、特に動じるでもなく動画に見入っている。
「あーボケがよ……それにしたってなんで今どきエレベーターもねえところ昇らされなきゃなんねえのよ」
強面が呆れ半分、大きくため息をつくと天井を見上げる。シーリングライトに埃が積もっているのが見えた。
「それはもっともだと思うけれど、ここは
おたくの物件でしょ
「既読もつかねえからエセ医者のトコにワザワザこなきゃなんねえのよ、
「てことは、家賃の催促ではないわけだ」
「わかってんのかよ。まぁ家賃の催促もあるんだけどよ」
六戸はスマートフォンを軽く指でつつくと初めて傘家の方に首を向ける。
いささかは後ろめたい気持ちがあるらしい。
「LOINEの告知って短いとメッセージ全部わかるからね。家賃の事ではないがってところまでは読んだ」
「骨身に染みてるだろうが、人前でその舐めたペラ出したら殺すからな」
傘家は一段低い声で圧しを出すと、座ったままの姿勢で手の甲を下に向け、指を上に向けて六戸を指さす。
「また死ぬのはいやだなぁ……」
六戸は首をすくめて自らの顎を撫でる。古い椅子は六戸がいくらか上体を動かした拍子に甲高い鳴き声を発した。
「俺は温厚な善人だからよ、滞納分は一週間に一割ほどのせて払ってくれりゃいいよ」
「優しい~……優しさに甘えた店子に飛ばれたりしないのか心配しない?」
今度は六戸が呆れたらしい。スマートフォンの動画再生を中断して、膝に手を置くと体も傘家の方に向き直り嫌味を垂れる。
「先生は飛ばねえよ」
傘家がシンプルに明言をする時はしっかりとした理由があるときだという事を、六戸は知っていた。
それは気持ちであるとか、人格であるとか漠然としたものに由来することはない。
ほうと唸って六戸は続きを促す。
「さぁて…それなんだが。ちょいと長くなるな。……
「まだ二年は経ってないよ。あれは気の毒だったね。十兵衛にも、社長にも」
六戸は無意識にか首を傾げた。
傘家が片目を極度に細めたのを見て、六戸は首を回してその動きをごまかす。
「オメー気の毒とかいう事あんの。初めて聞いたぜ。マ、とにかく……そんなだったか。ずいぶん前の事な感じするやなぁ……」
傘家は寝台横に置かれたラックにある木箱の引き出しを勝手に開けて首を伸ばす。
中には鍼と濃淡の緑色をした糸状のものが収まっている。艾だろうか。
「淀澱には不条理がつきものといっても僕にも、誰にも予想できなかったでしょ。なるべくしてなったものを笑うことはするけれど、
僕にだって不条理を気の毒というくらいのことは出来るよ」
「あー、そうな、それはそう……。でだ、その唐臼の茶坊主やってたギャル、いるだろ」
木箱の引き出しを傘家は弾く様に閉める。大雑把に閉めたものだから引き出しはきちんと閉まらずに少し浮いてしまっている。
それを見て六戸は眉をほんのわずかにひそめた。
傘家が小指で六戸を指し示す。
何を示すジェスチャーだろうか、と。六戸はジェスチャーの意図を判らないふりをして、声を繰る。
「えぇと……あの声デカくてうるさい子。覚えてるよ。なんか天目が凄かったよね、確か。名前は何だったかな……」
傘家が続けざま、木箱と並べてある、それより大きな金属製の箱に手を伸ばす。
軽く息をついて六戸が椅子の背もたれに上体を預けようとしたとき、傘家は伸ばした手を引っ込めて屈むような動きを見せる。
小さく跳ねるように六戸の腰が椅子からわずかに浮いた。
「
傘家が、両目を見開いて六戸を見る。手は白い靴の埃を叩くように払っている。
「あれ、まだ会社あるのサンガスイーパース」
「整理しようかとも思ったが思うところあってな。休眠会社。物件をサンガ夜警の寮とか倉庫がわりに使ってるんだわ」
両目を見開いたまま、傘家は太い首をほんのわずかに小さく横に振る。
「さようで」
傘家に気づかれないように六戸はわずかに浮いた腰を椅子に戻す。
傘家は手を襟元にやって派手な柄の入った威圧的なネクタイを軽く緩めると、
六戸の顔を凝視したまま、片方の唇の端だけで本当に隠微な笑いを見せた。
六戸の椅子が小さくきしむ音を立てる。
「で、だ。その唐臼の子分のハジメちゃんが……一年ほど前からこの辺で夜警やってるらしいんだわ」
ため息に混ぜて、六戸がふぅん、と唸って見せる。
「プライベートスイーパースではないんだ」
手を口にやって声を発すれば、何故だか六戸の声はいくらかかすれた。
がために、六戸は咳払いをして声の掠れを追い払う。
「なんでそう思う?」
目を見開いたまま、六戸は首だけを傘家の方に伸ばし、今度は両唇の端をゆがめ、持ち上げる。ちらりと犬歯が覗いた。
牙を見せつけて傘家は気持ち肩を張り、質問の根拠を続ける。
「先生よ、あのガキの取り柄ったら天目だろ、
本当に小さく、顔を回しながら傘家は六戸の眼鏡の奥を凝視する。舐めまわすように見る、という動きだ。
「十兵衛について回っていたんだったら、スイーパーを目指したりするのかなって思ったのさ。まだ昔というほど昔のことじゃない。情みたいなものだってあるんだろ」
六戸の答えを聞いて、ほんの一瞬傘家はあの、睨むような表情に戻る。
六戸は、無意識にか自分の太腿に置いた手に軽く力を入れてしまっていたらしい。スラックスに皺が寄る。
「まぁそれについては今はいい。昔というほど昔じゃないが、そこからいくらか時間も経ち、一年たってから俺が今更気付くというのも理由があってよ」
傘家は、いきなり身体を引いて声を軽い調子に戻した。
まるでからかうのに飽きたとでもいうように調子を変えて、大きな動きで腕を広げてから、一年を示して人差し指を一本立てるさまはおどけているようにさえ見える。
「どうやらなりが変わって、名前も変えているんだよな」
傘家が大げさにため息をつくが、やはりどこか威圧的だ。
目をつむってため息をつく様に見せて、細目でカミソリのような眼光を射かけてくる。
「……フム!今はなんていう名前なのか、調べはついているの」
「夜の雲に
「となると……話から考えて社長のところの夜警会社には所属してないワケね」
「それよ。唐臼の子分なら縁がないわけでもなし……。奴の天目なら夜警業で仕事には困るめえよ。俺のとこならそう悪い扱いはされないだろうというものだが……。わざわざ声をかけるのも気の毒かと思って知らないふりをしようかどうしようかを考えておるのよ」
「で、なんで改まってその話を私にするのかな」
傘家が、また顔だけでニタと笑う。先ほどよりはいくらか砕けた様子で、威圧的な様子は減じてはいるが消えてはいない。
「俺のとこには来なかったが、同じく唐臼に縁ある一人の、先生のところならどうかとおもってな。マ、その様子だと来ていないということだな」
「来たら連絡したほうがいいかい?」
六戸は机の上の、ケースを閉じたスマートフォンを指で示し、軽く叩く。
「ハハハ、そうしてくれ」
傘家は呵々と笑い、大柄な体を寝台から立ち上げる。彼の体重から解放された寝台がミシリと鳴る。
「家賃は来週あたり本の収入が振り込まれるからそれが入り次第振り込むよ」
「先生よ、詐欺はほどほどにしねえと碌な死に方はできねえぜ」
「あなたにいわれたくはないね」
腰に手を当てて伸びをした傘家が動きを止めて、無表情で六戸を見る。
「先生……俺に言ったことはやれよ。直接俺と約束した以上、それをシカトされたら先生をマジで殺さなきゃならねえ。俺はそういう弱虫の世界でなきゃ食っていけない人間なのよ。……先生よ、あんたが飛ばない理由は後回しになったが、唐臼の縁者がこの街にいること、それを今言葉の上でも認識したのを表明した事がその理由だよ。いいか……くどいようだが、約束は守れよ」
カラカラとプラスチックらしき何かがぶつかる音が小刻みに、診療室の中で鳴り始めた。
傘家は屈託なくにこりと笑う。
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