オデットはもういない・1/そうそう・レイ

 夜、高架下の交差点。


 四車線の道は広く、歩道は頼りなく狭い。


 消防団の倉庫の横には小さな水道蛇口が据え付けられており、そこからホースが伸びている。


 それは、かろうじてといった態で道幅の広がった所に止まる一台のラーメン屋台に繋がっていた。


 しけた街で、振り返って背後を見ればしけた河が流れている。うっすらとドブに似た匂いを漂わせる河は、だが、微風を受けて艶めかしくのたうっている。


 揺らいではいるものの、夜空は息づく鏡となったその河の水面に、星と月の隠微な光を写していた。


 残念なことに雲があり、そう明るいというわけでもないのだが。


 昼間はあの星はどこにあるのだろうか?

 ……光の中に埋まっているのに決まっている。影が今時分、この夜の中に光を避けて埋まっているようにだ。

 星は空高くに隠れ、影は地べたに這って息を潜めている。


 人間にもこのようなところがあるな。


 月星太陽、手の届かないものに人の似姿を与え、人間はいつから何と呼んできたことだろう。


 白髪を調理用の白帽の上から控えめに掻いて初老の屋台店主は溜息をつく。


 「昼間はまぶしくていけねぇよ……とはいっても、夜もこいつは寂寥の感だね」


 座ったまま、読むともなしに広げたスポーツ新聞の端がそよ風でカサカサと囁く。

 粗大ごみと間違えそうなほど渋い木造の屋台に張り付けた数少ないメニュー札、その一番外側に位置する【ラー麺 790円】の札も頼りなく踊っている。


 (……取り留めのないこというやつだ、そんな感傷は、このしけた河の水みたいに、オレの心の中を流れていってどこにも残らない。

 何にもならないんだ。

 そんなことで毎日溜息をついている、この街よりもしけたオレがいやだね)


 「ラーメン、5分」


 屋台の店主は座ったままで物憂い顔を世の中から隠すように広げていたスポーツ新聞を傾け、注文を発したらしき小柄な客の姿を認めた。


 他に客の姿はない。屋台を早仕舞いして帰ろうかと悩んでいた矢先の事だったので彼はそれは隠すでもなく眉間にしわを寄せて露骨に嫌な顔をした。


 「ゲッ、来やがった」



 「だから、ラーメン」


 湿った嫌悪感を示す唸り声のあと一切遠慮を見せずに鳴らした店主の舌打ちにも動じず、座った客は抑揚のない声で念を押す。


 間髪入れずにドカンという遠慮の無い大きな音が客席の足元から響く。見ればクーラーボックスであるらしい。


 荷物を下ろした客は、店主の横柄な態度に腹を立てた様子も肩身の狭そうな様子もなさそうだ。声色も態度も、ただただ淡々としている。


 店主はくすんと鼻を鳴らして一拍呼吸を置く。


 この小柄な女は知った顔で、これももう何度もやったやりとりだ。


 いつもの調子なら、どうせもう一拍でも置いたらもう一度催促されるにきまっている。


 店主は今日は先手を打った。


 「アー……今日はもう終いにしようかなと思ってたとこでよ」


 「知らないよ、ラーメン」


 「カッ、毎度毎度計ったように来やがって本当うるせえな。今日はいくら出すんだよ」


 彼はそう吐き捨て、じろりと客を睨めつける。


 先程の注文の、無感情で抑揚のないハスキーな声。……席に立てかけた肩まであろうかという粗末な木製の竿。


 この場所に来ても【よくない日】がある。この一年、そういう日に必ず来る名も知らぬ客が彼女だ。


 体よく追い払ってもいいが、そうするには惜しいと踏んで彼はのろりと立ち上がる。

 そういう理由があるのだ。


 色が落ち、敗れたクッションの端からつぶれたスポンジを覗かせた安物の丸椅子に深く腰掛けた客は、路面の凹凸でぐらぐらする椅子を気にしたか、錆まみれの椅子の足を少し引いて位置を調整する。


 襟を立てた薄手のコートに、目深に被ったハンチング帽の奥から暗い穴が二つ、ぼうと店主を見返して、雑に自らのコートの腰ポケットを探る。


 「何枚あるかな、お釣りはいいよ」


 輪ゴムで止めた紙幣何枚かを彼女は狭いカウンターの上に軽く投げ落とす。


 それは丸めて止められていたものだから、歩道の端に鎮座している屋台のカウンターの上を彼女の方へ転がり落ちそうになる。


 それを彼女はポケットから一緒に取り出したスマートフォンで小突き、カウンター上の胡椒の缶へ押し戻した。


 店主は目だけを動かして、その丸めた紙幣を見やる。色の揃った紙幣が五、六枚あるのは間違いない。

 丸まって伸びるように歪んだ聖徳太子と目が合った。星や月の事を考えていた感傷はどこかにいく。


 「ははぁ、新札か」


 「お役御免の福沢諭吉もいるよ、電子マネーでもいいし」


 「オレは謙虚だからね、これだけでいいよ。古銭で売れるから有ったら渋沢栄一持って来いよ。それから、電子マネーはやってない。なんでね。」


 そ、と口も開かずにこだまのように口の中に響かせる返事を鳴らすと彼女はハンチングを細身のパンツの膝の上に置く。

 そっけなく一つに束ねた茶色い髪の毛が露になる。


 店主から見て彼女は、少女と言っていいほど年若く色白で、美人ではないものの、整った顔立ちだ。


 しかし……。


 (あまり見ていたくはない不気味さのようなものが、ある……揺らぎのような。オレから見た未知数であるような)


 店主は彼女から漂う、目に見えぬ重い靄のような気配をかぶりをふって振り払い、鼻を鳴らしてカウンターの奥から手を伸ばし、束ねた紙幣を掴む。


 「差し引き三分半かな」


 「わかった」


 スポーツ新聞が大雑把に折りたたまれ、白髪の上に乗った帽子をきもち整え……店主は腕組をした。


 湯気の向こうから例のうつろな二つの目が店主の頭の裏まで見通すようにそちらを向いている。


 「こう言っちゃなんだが、あんたのことはできれば見たくないね、


 淀みってのは流れていくものなんだから掃除しても流れはしばらく留まって、続けて起こりやすくなったりするんだろう?」


 「知らないよ。わたしが通るようなところなんかで商売するのがまず悪い」


 悪態をついたらしき店主の言に、真顔で客は返す。


 少女と言っても良さそうな年ごろの客は、目を落としてスマートフォンの時計を見やる。


 「忙しいのは嫌いだ」


 洗い足りていないのか、ところどころ白く曇ったてぼを取りつつ、店主は頭をふりふり、吐き出すように呟いた。


 「折り合いをさ、つけるしかないね」


 しばし黙った後、何かコメントをした方がいいらしいと思い至ったのか、少女はスマートフォンのケースを閉じて言う。


 「どこの折り合いをよ」


 少女の人柄を多少知っていると思しきラーメン屋の店主は、コメントを返してきたことが意外だったのか、若干驚いたような高い声で聴いた。


 「好きだ嫌いだなんていうのは心でしょ。何するにせよ、しないにせよ。心なんか無ければいやだと思うこともないよ」 


 湯気の向こうで少女の目が揺らめいている。そのようにみえる、のは恐らく彼の気の迷いで、実際はあの目の形をした例のうつろな穴なのだろう。


 冬の夜の風は冷たい。それであるのに、通り過ぎるときに生暖かな肌触りを置いていくのを、彼も感じたことはある。


 それが、どこか虚ろな所を通って、何かを響かせていったと彼は肌に感じた。


 風は微風である。


 「三分半経ったら作り始めるんだったな、今日はそんなに具体的にばっちり見えるのか…おねえちゃんの天目てんもくはよ」


 「今日は調子いいよ、結構先まで見える。そいつ……あと二十分ちょっとで、あの車道の向こうに出るよ」


 目も向けずに、彼女は背後の車道を親指で指し示す。身をかがめて店主はのれんの隙間から指し示された歩道を伺う。

 初めて見るわけでは勿論ないが、示されるとつい見てしまうといったところか。


 高架とその柱、それを掠めるように建った古い歩道橋の影になった歩道。

 社屋の中程度のビルが並び、人通りもこの時間には認められない、それどころか物流のトラックさえも車道をそう滅多に通らない寂しい歩道がある。


 カン、と硬い音が鳴り響く。答えた彼女が座ったまま竿を手に取り、それを歩道のタイルの一点に向けて滑らせるように突き出したのだ。


 「おじさんもちょっと天目あるでしょ。見る?」


 「きったねえなぁ、しまえよそんなもん」


 邪険なことを言い、片方の手で追い払うような動作をしながらもう一方の手で小型のコンテナからやたらと色の黄色い、安っぽい麺を手に取る。

 邪険なことを言いはしたが彼女が持ち上げて見せた竿の先端をやはりか店主はつい見てしまった。

 今彼女が地面を打った竿の一方の先端には人差し指ほどの長さの鈎が付けられており、その先端には人の手のひらほどもある、芋虫のような形状の肉片が茶色い霧を吐きながらのたうっていた。


 「コヨドミ」


 「おいおい……結構でけぇ~な……」


 想像よりも一回りか二回り大きいコヨドミなる得体のしれぬものを見せつけられ、店主は邪険なことをいったのも忘れ思わず息を飲み身を乗り出す。


 「こんなに大きいのは確かに久しぶりだね。今日出るやつもしかしたら、ニ三人行ってるかも」


 「おーい……勘弁してくれよ、今年何回目だ、お姉さんの顔拝むのさぁ!それで暮れも近くなってそんな大物のヨドミか、

 お歳暮ならもっといいものあるんじゃねえかなぁ」


 店主は、目をつむって天を仰ぐ。そこには裸電球の太陽があるばかりだが。


 「この辺の夜警は四回目かな、四回私が来たってことは四回出るってことなんだけど」


 タイルを金属が掻く音が響く。鈎爪で先ほど示したコヨドミなるものを小さく割いているらしい。


 座ったまま身をかがめると彼女はクーラーボックスのベルトに括り付けてあった金属板を曲げただけのトングを取り上げた。


 「人が商売してるところでよぉ。ヨドミももうちょっと遠くで四人でも五人目でも勝手に持って帰ってくれねえかなぁ」


 「でもこの辺が出やすいのは何言っても変わらないからね。さっきも言ったけど折り合うしかないよ」


 彼女の足元で硬く厚い音を立てたのは、足元に置いたクーラーボックスの蓋を閉じた音だろうか。

 と、同時にいつの間に出したのか、彼女が机の上に業務で使うらしき未記入の伝票を切り取って置く。


 紙を見やれば大きく【淀澱害 現象証書じょうでんがい げんしょうしょうしょ】と印字されている。発行した法人名はクリーンパト警邏とあり、電話番号が続く。


 最後に手書きで記入するらしき記入者欄は空欄になっていた。


 「自治体のアプリでもこういう……淀澱の申告は出来るんだけど、おじさん使ってないでしょ、多分。コヨドミ見たら、この辺見てる私たちのカイシャ、連絡してきてもいいよ。ここの電話番号ね。わたしも先が見えないこともあるし、他の人が見てることもあるから、その連絡が役に立つかもだし」


 「あー……オレ、天目の検査受けたこと自体はねえんだけどこういうのは飛び込みで電話して大丈夫なのか?」


 店主は一般的な知識から淀澱現象の知識を掘り起こして尋ねる。彼の記憶ではその連絡などに伴う手続きについて、簡易ではあるのだが、通報者の身元などの供述は警察への連絡よりも厳格な面もあったはずだ。


 「私なり知ってる夜警の名前言えばいいよ」


 彼女は、ボールペンをコートのポケットから取り出すと、腰を浮かせて手早く記入者欄を埋める。


 【夜雲 彩子】と書かれたそれを見て店主は首を傾げる、


 「よる…?」


 「ヤクモ……アヤコ、だね。別に名前なんてどっちだっていいのだけれど」


 当人はなんでもいいらしいが、聞いた店主もなんでもいいらしい。


 ふぅんと気のない返事をしてテボを振る。


 屋台に吊り下げられた裸電球が明るくなる。


 「どうやら、雲か。降らなきゃいいが」


 店主は、わずかに独り言を呟いた。雲が月を覆い始めていたのだ。

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