或る幸福な男の話

根道洸

第1話

 仮に全ての人間……俺でさえ、幸福と不幸が平等に降り注がれるとするのであれば、それは大層笑える話だ。例えば家から駅までのたった三つの信号を全て止まらずに渡れた程度の幸福が、愛人の死別相当の不幸と釣り合っちまう事になる。

 何をもって不幸とみなすか、ってのは存外分かり易いんじゃねぇのか? お前が嫌だと思う事は全て不幸だ。じゃあ幸運って何だ? 不快に思わない事は全て幸運か? ま、違うだろうな。幸運でも不幸でもない事象は、この世界には溢れ過ぎてる。

 俺は信号で止まらない事に幸福を感じ……信号に躓く事に不幸を感じる事にしている。変か? 自分でも変だとは思うぜ。だが、そうでもしなきゃやってられない。それ程までに、あらゆる事が無関心になっちまった。……それほどまでに、永い時間を過ごしちまった。

 同じ人間が同じ性格で、何回でも人生を繰り返せるとしよう。ソイツが無限の時間で感じる幸福と絶望はちゃんと釣り合うように収束するか? 俺の答えは出てる。それはノーだ。全人類の幸福度を合算すると、必ず負に傾くんだよ。理由? そんなのわかりきっているだろ? 慣れだよ。幸運も不幸も重ねていけばそのうち慣れちまうが、慣れまでのラインが幸運の方が先に来ちまうのさ。人は幸運や幸福に慣れるのは早いが、不幸に慣れるのはとても遅い。

「おじさん、かぜひくよ?」

 訳もわからず自論を頭の中で展開していたが、俺の隣にいる餓鬼が、不幸にも俺の事を心配して声をかけてきた。相変わらずのにわか雨でずぶ濡れになっている俺に興味を持ったんだろう。五月蝿い汽笛の音にさえ思考を掻き乱されなかった俺が、この餓鬼一人に思考を中断させられるなんてな。ま、仕方ねぇから俺は返す。「お前よりは丈夫だ。」ってな。その餓鬼も傘をさしていなかった。寧ろ酷い様相だ。大きめのボロいフード付きの上着一枚で、清潔感が無い。全く呆れる。

 俺は餓鬼に心配されるのが癪になって駅前のモールに入るが、その餓鬼は俺についてくる。

「……お前、親はどうした。」

 そう言っている途中で、俺は餓鬼の全てを理解する。餓鬼の手首や耳の後ろに傷跡があった。きっと服の下も酷いだろう。

 ――俺より不幸な人間が、俺の前に現れた。

「……逃げたいか?」

 俺は何を言っているんだ。世界中を見れば俺より不幸な人間なんて幾らでもいる。そんな奴らの事なんてどうでもいいとは思うが、そんな奴が俺の前に現れたならそれは別だ。俺は俺より不幸な人間を放ってはおけない。限りなく雑な偽善で悦に浸るクソったれだよ、俺は。

「ゆうがたになるとね、おかーさんがかえってきちゃうの。だから、そのまえに。」

 餓鬼は濡れている俺のズボンを掴んだ。誘拐。これが初めてじゃないが、気分がいいものじゃない。全く、今日はとんだ厄日だ。

「遠くへ行こうか。お前を探す人間が居なくなるほど、限りなく遠くへ――」




 切符がなんとか一般市民にも手が届く程の価値に下がって数ヶ月。当初よりも客は増えたが、それでもまだ三割増しといった程度だ。誰も遠くへ行く用事が無いから当然なんだが。

「おかねもってない。」

「心配すんな。」

 先進国たちの間にポツリと存在してるだけのこの国に線路が敷かれたとき、それはもう政府は狂っちまっていた。見様見真似で先進国の技術を半端に取り込み、……だから今この国では、世界一偽装しやすい国民証が簡単に手に入る。面白いだろ?

「お前、名前は?」

「……エトゥイ。」

 おいおい、それは棄てる予定の次男に付ける蔑称だ。この国の言葉で一番目だったか。それにしてもお前、男だったのか。全く餓鬼は性別の判断すら難しいから困る。だが餓鬼に文句はいえねぇ、俺もかつてはどうしようもない餓鬼だったからな。

「出かけるぞ。お前の国民証を偽造する。」

 俺が移動しようとすると、餓鬼は俺の手を小さな両手で握ってきた。

「……おとうさん。」

「悪いがお前の父にはなれねぇよ。」




「プロジア、国民証を頼む。餓鬼一人、年齢は一桁で。」

「久しぶりに来たらいきなりそれか。」

 街中の古びたアンティーク店の女店主は俺の要求に文句をつけながらも、手元で作業を開始した。コイツはプロジア。俺がこの国へ来た直後からの腐れ縁で、色々な裏の仕事を頼んだり、向こうが俺に依頼したりしてたな。この国を使って遊んでいた、っていうのが正しい表現なんだろうな。お陰でこの国はめちゃくちゃだ。最近はそういうのも無くなったが。

 他に客は居ない。店主が国民証の偽装を今まさに行なっていると知ればただでは済まないだろうが、それが充分に秘匿できているのがこの国の現状だ。笑える話だろ?

「それで? その餓鬼の名前は?」

「エトゥイだってよ。だから別の名前が欲しいな。いい名前は無いか?」

「私に名付けは無理だ。ポークってのが限界だな。」

「酷いセンスだ。嫌いじゃない。」

 ポークってあのポークだよな? 肉の。食うのか? やっぱりコイツのセンスは変だろ。

 プロジアが手を止めた。

「ほぼ完成したぞ。八歳、誕生日は今日。後は名前を入れるだけ。」

「誕生日は数ヶ月先にしてくれ。怪しまれる。……後は名前だな。ポークの他に何か無いか?」

 流石にエトゥイはまずい。

「思えば拾ったのはお前なんだろうから、お前が決めるのが普通じゃないか?」

 プロジアのそれは正論なんだが……。

「俺も名付けは無理だ。……そうだな、プロクラストとかはどうだ?」

「私に似て格好いい響きじゃないか。どんな意味だ?」

「先延ばし。」

「却下だな。」

 そうか。……ああ、俺も酷いセンスなのかもな。

 考えた末、プロジアが五年前に死別した友人の名を少しだけ弄りサリムという案を出した。

「アイツの名前を使うのもちょっと違くないか? そもそもお前からその名前が出てくるなんてな。」

 俺は却下しようとしたが、餓鬼が「それがいい」って急に言い出したもんで、結局餓鬼の名前はサリムに決まっちまった。この餓鬼にとって無意味な名前の口論はさぞつまらないものだったんだろうな。

「それにしてもサリムか。」

 サクサリム、数年前に俺やプロジアたちとこの国で遊んでいたときの仲間で、ヘマをしたから俺が処分した。プロジアの婚約相手だったから当時は酷く仲が悪くなったな。殺し合いもした。今はもう大丈夫なんだが。プロジア、よく生きてたな。

「それとプロジア、俺からの依頼はこれで最後だ。今まで世話になったな。」

「その餓鬼を連れて亡命かい? 組織にでも見つかった?」

「そんなもんだな。組織は存在しないが。」

 組織。俺たちが潰して回っていた裏社会の連中を総括してそう呼んでたが、別にデカいグループがあった訳じゃねぇ。プロジアはまだデカい組織があると信じてるみたいだが。

「しばらくはここには戻らないだろうさ。」

「私が生きているうちには戻ってきなよ。」

「さあな、プロジア、百年後は生きてるか?」

「ジョークが下手なのは何年経っても変わらないんだな。」

 店を出ようとすると、プロジアに止められる。

「持ってけ。というかここで着ていけ。その酷い格好じゃ汽車になんて乗せて貰えないぞ。」

 子供用の服を一着と、小さな傘が一本。

「俺には何かないのか?」

「女の服しかないが、いいか?」

「……この餓鬼の服も女物か?」

「ああ、そうだ。」

「サリムは男だが。」

「気にするな。充分女に見える。奥で着替えてこい。」

 できれば俺の傘も欲しかったんだがな。




 汽車は十歳以下の子供が親と同伴する際は料金を取らない。また、正確に親子である事の証明はしないから、誘拐を助長するかのような移動経路になってる。……実際、俺以外にも誘拐に汽車を使う輩はいるだろうな。今は見渡してもそのような影はないが。

「……次の便は夕方か。」

 夕方。丁度この餓鬼の母親が来るあたりだろうが、それまでに駅構内に居れば問題は無いはずだ。

「戻るなら今のうちだぞ。」

「戻らないよ。」

 餓鬼……じゃなかった、サリムの決意は固かった。

「何か、やり残した事はないか?」

「みつかりたくない。」

 どうやら無いみたいだな。寧ろ早くこの国から離れたくて仕方がなさそうだ。

「……反対側の汽車が来てるのか。」

 大陸一の先進国、エナヴ国のヌヴェオがある西に向かおうと思っていたが、東へ向かうのも悪くないな。終点は長閑な丘陵地帯アゼヴァンだ。街と呼べる街はあるが、かなり閑散として退屈だろう。だが、コイツにとってはその方がいいかもしれないな。ここは五月蝿すぎる。

「変更だ。あれに乗って東へ行こうか。」

「うん。」

 サリムからの反論は無かった。サリムからすれば、離れられればどこでも良かったんだろう。俺は東端のアゼヴァン国にあるエワベ駅行きの切符を買った。西端のヌヴェオ区はかなり発展した都市で、久しぶりに顔を出してみようとも思ったがそれはまた時間のある時にしよう。


「そうだサリム。お前、両親に何か遺したい事はあるか? 復讐でもいい。何かあればプロジアに依頼しておくが。」

「……何もしなくていいや。」

「利口だな。俺と違って。」

 サリムは俺に何も求めていなかった。過去を見ないのは良い事だ。切符を駅員に見せ、俺たちはホームに入った。


 汽車に乗る直前、丁度汽車から出てきた夫婦とすれ違う。

「エトゥイはちゃんと家にいるだろうか。」

「大丈夫よ。しつけはちゃんとしてるわ。」

 聞き取れたのはそれだけだが、その後にサリムの顔を見て確信したよ。アレらはサリムの両親だ。ここにいる我が子に気付かないなんて、だいぶ狂ってやがるんじゃないか? でもまあ、子供なんて少し髪を整えてお洒落な服を着てるだけで別人になっちまうから気づかない事もあるか。

「大丈夫だ。もう行った。」

 サリムに言い聞かせると、サリムはようやく落ち着いたようだった。

「もう二度と、アイツらには合わないんだ。」


 汽車が出発した。サリムはずっと、窓の外の景色に釘付けになっていた。

「いいか、今までの事は全部忘れろ。お前は今産まれたばかりだ。」

 俺は世界各地を旅しているが、アゼヴァンには友人が居ない事を思い出す。頼れる人間が居ないのは困るが、まあ、静かな方がいいか。

「あの、おじさん、ありがとう。」

「その言葉はまだ早い。寝るときに取っておけ。」

「ベッド、やわらかい?」

「ああ、羊の上で眠っているような気分になれるやつを用意しよう。」

「おじさん、なまえは?」

「それだけは言えないな。」




 さて、仕事の時間だ。俺は鞄からタイプライターを取り出し、紙をセットする。ついでにそれとは別に紙とペンも添えておく。

「……流石に五月蝿いか?」

 少しタイプライターを動かすが、あまり音は響かない。最西端の島国にいた旧友が作った特注品で、タイピングの音を限界まで落としたものだ。だが、最近は手入れを怠っているから以前よりも少しだけ音が大きい気がする。向こうに着いたらまずはこれの修理だな。

 作家。今の俺の仕事……というか趣味だな。旅行作家、だいぶ改変はあるが、そういう類のものだ。著書、『西方旅行譚』。第一巻の発売は今から百三十年ほど前だ。

 サブタイトル、「鉄道と一人旅」これでいこう。サリムの事を書く訳にはいかないからな。アイツはアゼヴァンで会った事にしよう。

「……消えたな。」

 阿呆か。サリムの事を書けないとなれば、今はもう書く事が無い。何故俺があの小国からアゼヴァンまで行くのか、動機を新しく捏造しなきゃいけねぇ。……ノンフィクションを騙る嘘の本、それもたまにはいいか。過去なんて辻褄さえ合わせればいくらでも変えられる。何だって真実にしてしまえる。

「ん……。」

「起こしたか?」

 サリムの目が開いていた。

「ついた?」

「到着は明日の朝だ。半日はかかる。」

「うん……。」

 タイプライターの音だな。いくら音が小さいとはいえ出るものは出る。俺も今日はこのへんにしておくかな。




 西方旅行譚の作者は俺一人だ。百三十年前からずっと、俺は旅をしながら俺を記録し続けている。ああ、不老って奴だ。不死かどうかは試した事がないが、一ヶ月何も食べなくても大丈夫だった事があるから多分不死でもあるんだろうな。ただ死んでみようとは思わねぇ。

 世間には西方旅行譚の作者は秘匿されている。一冊書き終わったら各地に点在してる編集社に忍び込んで原稿を置いて終わり。後は勝手にやってくれる。

 百三十年前から続いてるからか、今の俺は六代目って呼ばれてるらしい。いつ代が変わったかは購読者が勝手に決めてやがる。やれ文体が変わっただの、言葉の使い方が雑になっただの、よくわかんねぇ基準で俺を何度も殺した。……別に何とも思わねぇが。

 ただ、ファンの数は大陸一だ。それだけは誇らなきゃいけねぇ。……嬉しいと思った事はねぇ。競争相手が居ないんだ。一番人気で当然なんだよ。結局、俺はこの仕事さえも幸運を感じられねぇ腐った人間だ。

「……眠るか。」

 腕時計のアラームを到着予定時刻の数刻前に設定しておく。西端の国、先進国エトヴズで数年前に作られた特注品だ。ここまで小型の時計を作る技術が既にあの国にあるんだ。そのうち指輪くらいの大きさになりそうだな。

 以前、何も決めずに眠り始めたら二週間寝ていた事があった。それ以来、俺は眠る事が怖くなったんだ。だから俺は、眠るときには必ずアラームを設定する。

 そうして、俺は眠りについた。




 五年後の夏、俺はアゼヴァンの墓所の前に赴く。

「サリム。お前は一番早かった。」

 サリムは俺が誘拐してから、たった四年で死んだ。今日はちょうど一周忌だった。

「それで、お前さんの身体はどうもしてないだよね?」

 俺の隣にいる女が俺に質問する。彼女は医者で、最期までサリムの面倒を看ていた。サリムが俺以外に唯一心を開いた相手と言ってもいい。優しい奴だよ。

「ああ、何の問題も無い。」

「それなら良かったんだが。」

 ろくな扱いを受けていない子供は重い病気を患っている事が多く、サリムもまた例外じゃなかった。俺が医者に診せた時には既に手遅れで、サリムは既に助からない状態にあった。移る確率が僅かとはいえ、一応感染症の類だ。この医者はずっと二人きりで過ごしていた俺の事を心配していた。……ま、俺は百年以上病気になっていないが。

「お前はどうするんだい? 父親だろう?」

「いや、俺は父親にはなれないよ。」

 俺はサリムの墓を後にする。

「これから何処へ行くんだい?」

「エナヴ。この餓鬼のせいで予定が五年も遅れちまった。」

「どうせお前さんには急ぎの用なんてないんだろう? それに、何故一年もここにいたんだい?」

 サリムが死んでから一年、俺はこの地から動かなかった。作家としてこの四年を書き上げた、というのもあるが、それはすべき事だと俺が無理やり決めただけだ。どこへでも移動できたはずだが、ここに留まる理由が欲しかった。

 サリムについてはこの国の住民という設定で押し通した。矛盾を作らず、しかしなるべく事実に沿う。

「余韻に浸る、ってのは理由にできるか?」

「なんでもいいさ。本心から出た理由であれば、後付けでも構わない、だったかな。君の自論は。」

 彼女は深くは追求しなかったように思えたが、その台詞は西方旅行譚に載せて有名になった台詞の一つだ。お前ファンだったのかよ。しかも正体を隠してるのによく気付いたなおい。

「……たまには戻ってきてやりなよ。」

「戻らなきゃいけない場所が増えたな。」

 そして俺は、墓所を後にした。


「誇りな。……アンタは立派な父親だったよ。」

 別れ際に、医者はそう言った。




 ……ああ、全く。出会いの幸福と別れの不幸、どうも釣り合っているとは思えないな。

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